↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
278/341

276. 菌湯米線の悔い

 彩雲行省の境界を越えると、延々と続く山越えのトンネルが、次々と姿を現し始めた。


 暗闇、光、暗闇、光、暗闇、光。


「……」


 母は黙って窓の外を見つめていた。


 列車が新しいトンネルに飛び込むたびに、車内の明かりと自身のどんどん渋くなっていく顔がガラスに映し出される。


「トンネルばかりだな」彼女はようやく口を開いた。


 その口調は、平静を保とうと努めているのが伝わってくるほど静かだった。


「景色なんて、まったく見えやしない。飛行機にすればよかった」


 ユーナは雑誌で顔を覆い、肩をかすかに震わせて笑いをこらえていた。


「……母上、彩雲行省は地形が複雑で山が多いですから。トンネルが続くのは珍しいことじゃないんですよ」


 私はなるべく中立なトーンで説明した。


「この区間を抜ければ、景色も良くなりますから」


「もう、いくつ通った?」


「私……数えていませんでした」


「私、数えてたよ」雑誌の向こうからユーナの声がした。「十七個」


 母はまた、黙り込んでしまった。


 そのとき、私とユーナはちょうど食堂車から戻ってきたところで、人数分の弁当を抱えていた。


 花の国に比べ、紅龍国の人々は温かい弁当を好む。


 しかも、それが列車のなかで販売されているのだ。


 私が折り畳みの小さなテーブルに弁当を三つ並べると、その中身は——白米に角煮が一切れ、野菜と豆腐の炒め物、それに煮卵とピーマンと肉の細切り炒めが一つの箱に収まっていた。


「見た目は、悪くないな」母は自分の弁当を真剣に見つめた。


「味は……食べてみてのお楽しみですね」


 私は割り箸の包みを破り、母に手渡した。


 一口目を口にして、三人はほぼ同時に動きを止めた。


 当然だ。


 味は、あのコンビニやスーパーの弁当と寸分変わらなかった。


 これといった旨味もなく、ただ腹を満たせればそれで十分という割り切りこそが、この弁当の最大の役割だった。


 それでいて、値段は街中の倍近くもする。


 母は俯き、箸の先に挟んだ角煮を見つめ、ゆっくりと口に入れ、二度噛んでから顔を上げた。


 その目には、複雑な落胆の色が浮かんでいた。


「少し塩辛くて、肉も硬いな」


 彼女は、きわめて控えめな評価を下した。


「ええ。作り置きしてから時間が経っていますからね。日持ちさせるために味付けも濃くしてあるんです」


「では、なぜこんなに高いのだ?」


「だって……列車のなかでは、ほかに選択肢がありませんから」


 母は黙って窓の外を見た。


 ちょうどまた、トンネルに入ったところだった。


 彼女は深く息を吸うと、改めて箸を手に取り、まるで作業でも処理するかのような手つきでご飯をかき込み始めた。


 私とユーナは顔を見合わせ、それからそれぞれ俯いて、割り箸でこのどうにか口にできる昼食をゆっくりと口へ運んだ。


 旅とは、ときにこういうものだ。


 やがて夜の帳が下りるころ、列車は彩雲城の駅へと滑り込んだ。


 彩雲城——彩雲行省の首府。


 地図の上では大きな街だが、私たちにとっては乗り換えの駅にすぎない。


 長居するつもりはなかった。


 ここからさらに、叻沙城へ向かう列車に乗り換える必要があった。


 あそこが、私たちの最初の目的地だった。


 だが、駅に着けば選べる食べ物はぐんと増える。


 せっかく彩雲行省に来たのだから、最初の一食は名物の米粉(ミーシェン)を食べるべきだろう。


 彩雲城は首府だけあって、駅の構内にも米粉の店が三軒ほどあった。


 それぞれの看板の下から、白い湯気が立ち昇っている。


 待合ホールから一番近い店の看板がもっとも鮮やかで、入り口には「菌湯米線 地元の味 正統の継承」と書かれた赤い張り紙が貼ってあった。


「ここにしましょう」と私が決めた。


 私たちは店に入り、空いているテーブルを見つけて座った。


 店内は賑わっていた。


 大半は通りすがりの旅行者か、列車を待つ地元の人々だ。


 店員がすぐに注文を取りに来たので、私は看板メニューの「菌湯米線」を三人分注文した。


 期待が大きければ大きいほど、実際に口にしたときの落差は激しい。


 とりわけ、ターミナル駅の構内でいつ作られたかも分からない一杯の米粉を食べているときは、なおさらだ。


 運ばれてきたどんぶりの見た目は悪くなかった。


 乳白色のスープに、キノコが数切れ、刻みネギが一摘み、そして米粉が底で渦を巻いている。


 私はレンゲでスープをひと掬いし、まず一口飲んだ。


「……」


「たしかに、あまり美味しくないですね」


 私はどんぶりに半分以上残った米粉を見つめ、残念そうにつぶやいた。


 まだたっぷり残っているのに、箸が進まない。


 前世であれ今生であれ、私はずっと本場の彩雲行省の名物米粉を味わってみたいと熱望していた。


 それが今、実際に食べてみて、本に書かれていたほど美味しくないと痛感させられてしまった。


 いわゆるキノコスープとやらは、飲んでみればただ味気ないだけだった。


 スープは淡い灰白色で、キノコで出汁をとったという割に旨味はほとんど感じられない。


 まるで、白湯に塩を数粒溶かしただけかのようだった。


 ほかの具材にしても、かろうじて新鮮さを保っている程度だ。


 米粉自体は悪くない。


 歯ごたえとコシもしっかりある。


 だが、麺だけでこのスープを救うことはできなかった。


 隣のユーナと母ヘレナも、一口目を食べた瞬間に複雑な表情を浮かべていた。


 感じ方こそ違えど、三人がたどり着いた結論はまったく同じだった。


「これなら、どこにでもあるチェーンのファストフードにすればよかった」


 ユーナは箸をどんぶりの縁に置き、残った米粉を恨めしそうに見つめていた。


「そうだな。パンで肉を挟んだあのハンバーガーというやつだが、こんな不味い米粉よりは、私もハンバーガーの方がよほど恋しい」


 母が真面目な顔でそう評価した。


 そこには遠慮など微塵もなかった。


 実のところ、母の言い分もよく分かった。


 今の私だって、この満たされないお腹をどこかのファストフードで埋めたいと思っているくらいだ。


 だが発車時間が近づいており、買いに行く時間はもうなかった。


 残された米粉を見つめながら、昼の塩辛くて硬い弁当のことを思い出し、私は今日はつくづく食べ物運がないなと思わざるを得なかった。


 前世で彩雲行省に来られなかったのも、あながち悪いことばかりではなかったのかもしれない。


 ……いや、待てよ。


 駅の近くの店が、現地の米粉全体の味を代表しているわけではない。


 私は心の中で思い直した。


 叻沙城に着いたら地元の名店をじっくり探して、今日の悔しさを晴らせばいいのだ。


 私は残った米粉を脇に押しやり、立ち上がって荷物をまとめた。


 叻沙城へ向かう列車は、さらに三時間ほど走る。


 飛行機の1時間に比べればたしかに長い。


 だが、彩雲行省の複雑な地形を考えれば、三時間で移動できるだけでも大したものだ。


 列車に乗り込むと、三人とも無駄話はせず、それぞれ思い思いの体勢で目を閉じてうたた寝を始めた。


 母はどこで買ったのか、図版入りの彩雲行省のガイドブックを窓辺でパラパラとめくっていた。


 表紙には金色の棚田一面が描かれており、夕陽の中で暖かなオレンジ色に輝いている。


 今夜のキノコスープの米粉よりは、ずっと美しかった。


「叻沙城……」母はその名前を小さく口にし、本の中の写真に指を滑らせた。「これは、何だ?」


「滝です」


「本当に、こんなに大きいのか?」


「あの写真よりも、ずっと大きいですよ」


 母はその写真を長いこと見つめていたが、それ以上は何も言わなかった。


 窓の外は、すでに漆黒の闇に包まれていた。


 時折、山の中腹に散らばる明かりがポツポツと見えた。


 墨絵のような暗闇の中に浮かぶ、砕けた星のようだ。


 夜の彩雲行省には、昼間の殺風景なトンネルとは違う、また別の美しさがあった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。