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274. 結界の攻防

 ユーナの声が割って入ってきた。


 平静で、昔から聞き飽きるほど耳にした「またそこで一人で感傷に浸って」という確信に満ちた口調だった。


「鶏煲、もう沸騰してるわよ。早く食べなさい」


 私はようやく、目の前の土鍋がとっくに勢いよく煮立っていることに気づいた。


 鍋蓋は押し上げられては落ち、縁から白い湯気が滲み出し、土鍋のなかの出汁はぐつぐつと泡を立てている。


 鶏肉が煮汁のなかで転がり、香りはテーブル一面をすっかり覆っていた。


 私は箸を取って、いざ鍋のなかへと伸ばそうとした。


 そのとき、見えた。


 ユーナの茶碗のなかに、立派な鶏もも肉が二本、きちんと収まっている。


 二本。


 二本が同時に、彼女一人の茶碗のなかに。


 私は顔を上げて、彼女を見た。


 それから彼女の茶碗を見て、また彼女を見た。


 声には、何か重大な出来事が今まさに起きているのを察知したような、張り詰めたものがあった。


「お前、その二本の鶏もも……」


「おいしいものは早い者勝ち」彼女は箸でその二本の鶏ももを突きながら、無邪気で、それでいて平然とした顔をしていた。


「私、手が早いから」


「おい、お前はもう一本取っただろ。もう一本取ったら二本ともお前のものになる」


「なにがあなたの大きな鶏ももよ」彼女はそのうちの一本を箸でつまみ上げた。


「もう私の茶碗に来てるんだもの。あなたのものであるはずないでしょ? 鶏もものうえに、あなたの名前なんて書いてないもの」


「……鶏ももを返せ」


「なんで」


「だって」私は深く息を吸った。


「主人の名において命じる。その鶏ももを返せ」


「あなた、さっき『これは私の鶏もも』って言ったでしょ」


 ユーナはその鶏ももを茶碗の縁に立てかけ、顔を上げ、きわめて平静で、もっともらしい表情で私を見た。


「なんで返さなきゃいけないの? それに、ここには主従関係なんてないもの」


 私は一瞬、面食らった。


 彼女のこの言い方を聞いて、顔が本当に少し赤くなってしまった。


 怒ったからではない。


 彼女がその言葉を口にするときの口調が、あまりに当然すぎたからだ。


「ここには主従関係なんてないもの」


 この言葉の言い方は、反抗でもなければ、挑発でもなかった。


 ごく自然に、とっくに出来上がっている事実を確認する、そんな口調だった。


 前世では私たちは相棒だった。


 今生では、また別の関係。


 その関係のなかに、「主従」なんてものは、そもそも存在しない。


「不服なら」彼女は眉を吊り上げた。


「お前の母上にでも、私を罰してもらいなさいよ」


 そう言って、彼女はほんの少し言葉を止め、それから口元を上げた。


「あら、そういえば、彼女は今あなたのそばにいないじゃない」


「お前、よくも……」


 いいだろう。


 いいだろう。


 それなら、こっちにも考えがある。


 私は深く息を吸い込み、右手の指をテーブルの下で軽く一点押した。


 魔力が静かに指先から床へと染み込み、レンガの目地に沿って外へと広がっていく。


 テーブルを中心に、半径およそ三歩の範囲に、薄く透明な結界の膜が、あっという間に張り巡らされた。


 結界の膜は床と天井にぴたりと貼りつき、この区域を外の知覚からそっと隔てた。


 外の人がこちらを見ても、知覚するのは、食事をしているありふれたテーブル。


 一方、なかで起きるすべて、魔力の波動、音、物理的な変化は、一切、外へは漏れない。


 私は異世界で七年間、魔法を鍛えた。


 この程度の小規模な結界なら、余計な物音ひとつ立てずに、静かに張ることができる。


 それから。


 テーブル下のレンガの目地から、指ほどの太さの深緑の蔓が三本、土を破って生えてきた。


 音もなく。


 それらはきわめて目的の定まった、ゆったりとした弧を描いて、ユーナの椅子の脚の方へと伸びていく。


 そして、彼女がまったく無防備な一瞬に、二本の蔓が同時に絡みつき、彼女の足首をそっと縛り上げた。


 ユーナは一瞬、動きを止め、俯いて、蔓に絡められた足首を見た。


 それから顔を上げ、妙な目つきで私を見た。


「よくもまあ、こんなところで魔法なんて……」


 彼女の声はひどく低く抑えられていたが、その口調には、これから事態が一段と上がる、という意味合いがあった。


「見つかっても知らないわよ?」


「大丈夫」私は声を、私たち二人にしか聞こえない程度まで落とした。


「結界は張ってある。外には感知されない。終わったら修復魔法でレンガの目地も塞いでおく。痕跡は何も残さない」


 彼女は目を細めた。


 それから、彼女の指先の皮膚のうえに、淡い赤の光が一筋、浮かび上がるのが見えた。


 彼女が火属性の魔力を巡らせるときの前兆だ。


「ケイシー」


 彼女が呼んだ。


 その口調には、私の偽名が使われていた。


 こういうときに偽名を使うのは、彼女が半ば本気で、少しだけ堅苦しい調子で口を開こうとしている証拠だ。


「もっと面倒なことになりたくなければ、まずはこの蔓を解いて。それから、ちゃんと話し合いましょう」


「鶏ももを先に返せ」


「返さない」


 火属性の魔力が彼女の指先に凝縮し、あの淡い赤の光が、一層、濃くなった。


 彼女の足首を縛る蔓はその熱を感じ取り、接触面からわずかな焼け焦げの痕がつき始めた。


 あの蔓は私の魔力でできている。


 焦げるということは、彼女が魔力の伝導を断ち切ろうとしているということだ。


 私はすかさず蔓に、より多くの木属性の魔力を注ぎ込み、縛りを固めた。


 同時に、傍らにもう一本、新たな蔓を生やし、彼女の椅子の背へと回して、背もたれをそっと一周、縛った。


 椅子がかすかに震えた。


「お前——」


 彼女は俯いて背もたれを一目見て、また顔を上げて私を見た。


 その目には、もう引くつもりはないという確かな覚悟があった。


 それから彼女は指先の炎を凝縮し、きわめて正確に、寸止めの加減で、接触点から蔓を焼き切っていった。


 私はその蔓の先端が、縛った状態から焦げ黒く変わるのを、顔色ひとつ変えずに見つめ、発想を切り替えた。


 無理に縛り続けるのはやめて、木属性の魔力を分散させ、ユーナの椅子の周囲に、背の低い草を一巡、生やした。


 細い茎が密集して、高さは足首まで。


 靴底に、そっと絡みつく。


 彼女は下に目をやって、表情が少し複雑になった。


「分かったわ」


 彼女は鶏ももを一本、茶碗から取り出して、私の茶碗の縁に置いた。


「これを一本だけ、返してあげる」彼女は言った。


「もう一本は、私のもの」


 私は自分の茶碗のなかのその鶏ももを一瞥し、それから彼女の茶碗に残ったもう一本を見た。


 二秒ほど考えて、この結果を受け入れることにした。


 なにしろ、私が欲しかったのは、そもそも一本だけで十分なのだから。


「よし」


「まったくもう」彼女は手元に残したその鶏ももを箸で突いた。


「結局、あなたには敵わないのね」


「仕方ないだろ」私はその鶏ももを箸でつまみ上げた。


 口を開く前に、顔のうえには、ある種の、ごく自然な、まったく飾り気のない得意げな表情が浮かんでいた。


「天才だからな」


「すぐ調子に乗るんだから」


「お前こそさっき、私のことを綺麗だって——」


「あれは審美の観点から言ったのよ」彼女は箸で私を指した。


「あなたが天才かどうかとは、何の関係もないわ」


「その理屈……」


「いいから、先に鶏ももを食べなさい」


 私は口を閉じ、意識を土鍋に戻した。


 結界と蔓を解き、木属性の細かな修復魔法で、レンガの目地に蔓が生えたときに残った数本の痕を、こっそりと消した。


 室内の温度は、知覚のうえで外と隙間なくつながり、隣の卓の客はまったく気づかず、相変わらず自分たちの話に夢中だった。


 その一連の流れは、三秒かからなかった。


 鶏煲を食べ終えたときには、空はすっかり暗くなっていた。


 店内には灯りが灯り、黄色い暖かな光が、あの赤レンガの床と、オレンジ色の布巾のかかったテーブルを、あたたかく照らしていた。


 窓の外の街路では、街灯がすっかり点いていて、その灯りが、通りの向かいの曼華大酒店の正面を、淡いオレンジ色の輪郭に浮かび上がらせていた。


 店主がテーブルの土鍋を下げ、かわりに、店で自家製の薬草茶を一壺持ってきてくれた。


 メニューにあるものではない。


 彼がわざわざ持ってきて、テーブルに置き、「口直しにどうぞ」と一言だけ言って、また仕事に戻っていった。


 茶は濃い琥珀色で、甘みのなかに苦みのある、植物の香りがした。


 飲むと冷たいが、しばらくすると、喉の奥から、ほのかな甘みが返ってくる。


 私とユーナは一人ずつ茶を手に持ち、窓辺に座って、口をきかなかった。


 店内にはもう、私たちの卓しか残っていなかった。


 ほかの客はみな帰り、隣の卓の椅子は二脚、テーブルのうえに重ねられていた。


 店主は厨房の奥で片付けをしている。


 ときおり、皿と茶碗がぶつかる音や、ガスコンロの余熱が冷めるときの、かすかなじりじりという音が聞こえてくる。


 窓の外の街路は、すでに静かだった。


 ときおり電動バイクが一台、路面を滑るように通り過ぎ、青い車灯が地面に短い弧を一筋、描いては、消えていった。


「こうして考えてみるほど、この世界は、私にとって悪くないなと思うよ」私は窓の外を見つめながら、そっと言った。


 ユーナは湯呑みを持ったまま、すぐには応じなかった。


 ただ、湯呑みの底でくるりと一回、回し、底を見つめて、数秒、止まった。


 それから顔を上げて言った。


「じゃあ、あなたの来世は——というか、もし来世があるなら——どうするつもり?」


「来世のことなんて、私にどうこうできる話じゃない」私は言った。


「それに、私はもう二回分の運を使ってしまった。十分満足してるよ」


「じゃあ、今生は?」


「今生は……」


 私は彼女を見た。


 彼女も、ちょうど私を見ていた。


「今生は」と私は言った。


「まずは鶏煲を食べ切ってから、そのあとの計画を立てる」


 ユーナは二秒間、私を見つめた。


 それから俯いて、唇を湯呑みの縁に当て、軽く、何かを隠しているのが明らかな、そんな笑い声を漏らした。


「……分かった。じゃあ、まずは鶏煲を食べ切りましょう」


 茶碗はもう空で、土鍋はもう下げられていた。


 それでも、彼女はそう言った。


 それで、約束ということでいい。


 外の街灯が窓ガラスをあたたかなオレンジ色に照らし、私たち二人の影を、そのオレンジ色のなかに映し出していた。


 濃くはない。


 ぼんやりとしている。


 だが、輪郭ははっきりしていた。


 プラチナブロンドの影がひとつ、ピンクの影がひとつ。


 並んで座り、手元にはそれぞれ一杯の薬草茶。


 どちらも、先に立ち上がるつもりはない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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