270. 曼華大酒店の告白
振り返ると、ホテルの制服を着た若い男性が、ロビーから早足で出てくるのが見えた。
二十歳そこそこ。
白いシャツはぱりっとアイロンがけされ、ズボンの折り目もまっすぐだ。
胸の名札には彼の社員番号が記されている。
彼は最初、車のトランクへと向かい、荷物を下ろそうとした。
だがトランクの蓋を開けた瞬間、中には何も入っていなかった。
折り畳み傘一本すらない。
彼はぽかんと口を開けた。
手は宙に浮いたままで、トランクの蓋もまだ閉じられていない。
表情は「もう荷物は引き取られたのか?」と「それともそもそも荷物がないのか?」のあいだを、行ったり来たりしていた。
それで仕方なく、彼は私たちの傍らに来て、声をかけたのだった。
「ああ、すみません」
私は微笑んで、なるべく穏やかな声で言った。
「私達、チェックインに来たわけじゃないんです。ただ、ここを見に来ただけで」
彼は私を見た。
訂正。
プラチナブロンドの長い髪が、ホテルの入り口の陽射しの下で輝いているのを、見たのだ。
それから彼の顔が、赤くなった。
社交の場でのほんのりとした赤らみではない。
耳の付け根から頬の中央へと急速に広がる、まったく制御不能の赤だった。
彼の指は無意識にズボンの横の縫い目をぎゅっと握り、唇が何かを言おうと動いたが、結局、一音も発せられなかった。
「あっすみません失礼しました失礼しました」
彼は光速と言うべき効率でその言葉を言い終えると、向きを変えて小走りにフロントへと戻っていった。
「どうやら」
ユーナの声が隣から聞こえてきた。
明らかに含みのある、わざとゆっくりとした口調だった。
「さっきのフロントの男の子のハートを、見事に射止めた人がいるみたいね」
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
少し膨らんだ頬のうえに、浅いえくぼが二つ、浮かび上がる。
「ふふん」
私は両腕を胸の前で組んだ。
「私があまりに魅力的すぎるのかもしれないわね」
一拍、置いた。
「なにしろ今生の私は、自分でもかなり美人だと思ってるから」
これは冗談じゃない。
私は本当に、今生の自分は美人だと思っている。
なにしろ一人前の、成熟した魂として。
前世で三十年あまりを生きた、明確な審美眼を持つ人間として。
自分の審美判断が間違っているはずがないのだ。
ホルモンのレベルでは、人は自分自身に何かを感じたりはしない。
だがそれは、私が自分の顔立ちを、芸術品を見つめる目つきで吟味することを妨げはしなかった。
そして結論は、この顔に、私は満足しすぎている。
柔らかなプラチナブロンドの長い髪は、ヘアアレンジなどしなくても、結わず、束ねず、ただ背中に散っているだけで、一本一本が自然に垂れ下がり、陽の下で淡い金色の光を放つ。
それだけでもう、十分に美しい。
ましてや今生の顔立ちは、きわめて精緻だ。
余分な線は一本もなく、眉骨、鼻梁、唇の形、すべての輪郭が、私の審美のストライクゾーンに、ちょうどよく収まっている。
「はいはい」
ユーナは片方の眉を吊り上げ、両手を腰に当てて、顎を上げながら私に近づいた。
「ちょっと褒めたらすぐナルシスト全開か」
彼女のピンクの髪が陽射しのなかでひらりと揺れ、数本が額の前に散った。
彼女は頬を膨らませて息を吹きかけたが、吹き払えず、また手を上げて指で耳の後ろを掻きつけた。
けれど口ではそう言いつつ、目には「まあ確かにその通りだけどね」という微かな同意があった。
私たちはあまりにも長く一緒にいる。
前世から、今生はさらに。
慣れすぎていて、彼女は私がいつ冗談で、いつ本気なのか、言葉を必要としなくなっている。
そしてさっきの言葉、彼女は本気だと分かっていた。
「ところでユーナ」
私はホテルの入り口の、あのきちんと刈り込まれた低い潅木を見つめ、散水装置に濡れてきらきらと輝く葉っぱを見つめた。
頭のなかに、突然、あるイメージが浮かんだ。
もし白いキャミソールのワンピースを一着買って、それから百合の花畑で写真を撮ったら。
私の頭のなかでは、そのイメージはきわめて具体的だった。
一面の白い百合の花畑。
花茎は高くまっすぐで、花びらは外側に反り返り、六枚か七枚が金色の蕊の周りを囲んでいる。
陽射しが斜め上から差し込み、花びらの縁を半透明に輝かせる。
そして私は花畑のなかに立っている。
白いワンピースを着て。
プラチナブロンドの長い髪が背中に流れ、白い百合と一体になって。
「すごく綺麗じゃないかな」
この言葉は、ほとんど思考を経ずに、口からふわりと飛び出していた。
言ってしまったことに気づいた。
口に出した言葉は、もう取り消せなかった。
ユーナの表情は、三秒のあいだに、三つの明確な段階を経た。
第一段階、目が見開かれ、唇が微かに開く。
第二段階、眉が中央へと寄っていく。
第三段階、彼女は深く息を吸い込み、両手を腰に当てて、半歩前に踏み出した。
「相棒」
彼女は歯を食いしばり、一文字ずつ言った。
「お前、まさか、メス落ちしたんじゃないだろうな」
空気が一秒、静止した。
「そのうち子供を抱っこして、涙ながらに『ごめんねユーナ、私、別の男の人を好きになっちゃった』とか言い出すんじゃないの」
「なんで急にそっちの方に飛ぶんだよ!」
私はほとんど叫んでいた。
「花畑で白いワンピースを着て写真を撮ったら綺麗じゃないかって言ったのはそっちでしょ!」
「それのどこが固定観念なんだ!」
「固定観念って何が固定観念だ、あんたはもう花畑でくるくる回る自分の姿を想像し始めてるんだ!」
「回ってない!」
「回りたいんだろうが!」
私たちはそうやって、曼華大酒店の正面玄関の前で、まったくまともな会話とは思えない音量で、きわめて激しい弁論を開始した。
通りかかる歩行者が次々と振り返り、ベビーカーを押す若いママがちらりと私達を見て足は止めなかったが、ベビーカーのなかの赤ちゃんはといえば、じっくりと見入っていた。
口論の途中で、ふと気づいた。
ユーナの目の縁が、いつのまにか少しだけ、赤くなっていた。
泣いているわけではない。
それはごくかすかな、目の縁が酸っぱくなったときのような状態だった。
口元はまだ上がっているし、声もまだ腹から出ている。
だが手のなかの拳が、いつのまにか、さっきよりもきつく握られていた。
私は言葉を止めた。
「ユーナ」
「……なに?」
「まさか、本気で心配してたりしないよね」
彼女は二秒、黙った。
「……してない」
「今、黙った」
「黙ったからって心配してるとは限らない」
「心配してるじゃん」
彼女は顔を横に背けて、ホテルの隣の低い潅木をじっと見つめた。
あまりにも真剣な見つめ方で、まるでその潅木が世界で一番大切な潅木であるかのようだった。
「……あなたが、違う人になっちゃうのが怖い」
最後に彼女が言った声は、さっきよりも音量が一段も二段も低くなっていた。
喉の奥から、ゆっくりと転がり出してきたかのように。
一文字一文字が、なかなか口に出しにくい、ずっしりとしたものを帯びていた。
「あなたはもう一度、変わってる」
彼女の睫毛が伏せられ、視線が足もとのタイルに落ちた。
「男の子から女の子に。慣れるのに、ずいぶん時間がかかった。あなたの姿に慣れるんじゃない。十数年も『友達』って呼んでた人が、『彼女』になったことに慣れるのに」
彼女の指が絡み合い、骨の節が力でほんの少し白くなった。
「私は今が嫌いなんじゃない。今が一番好き。昔のどんなものより好き。でも……」
彼女は顔を上げて、私の目のなかに目を向けた。
「あなたがもし、もう一歩、別の方に進んだら、いつか自分は男の人と結婚すべきだって思う日が来たら、私は、どこに立てばいいのか、分からない」
風が彼女の背後から吹いてきて、先ほど耳の後ろに梳きつけられなかった額の前のピンクの数本を、もう一度、散らした。
私は一歩、前に出た。
手を伸ばし、彼女の絡み合った指を握った。
彼女の指は冷たかった。
爪の縁には、細かくなにかが逆立っている。
それは彼女が緊張したとき、無意識に爪の縁を剥いてしまうからだ。
前世もそうだったし、今生も、変わらなかった。
私はもう、数えきれないほど、それを処理してきた。
「前世でお前の相棒がお前の相棒なら、今生ではお前の」
一拍、置いた。
この言葉は、私の口から何度も出てきているが、この場面で口にしたとき、やはり心臓が一拍速くなった。
「お前の恋人だ。私は相手を変えるつもりはない。さっきの白いワンピースは」
ため息をひとつ。
「ただ急に、自分がやっぱり綺麗だなと思って、綺麗な写真を一枚撮りたいと思っただけだ。見たくないのか?」
彼女はしばらく、私を見つめた。
それから、私の掌のなかの指が、ぎゅっと絡まった状態から、ほどけた。
「……見たい」
「それならいいじゃない」
「でも」
「でも?」
「写真を撮るときは、百合の花畑のなかに、私の立つ場所もちゃんと残してよね。レンズの後ろじゃなくて、あなたの隣に」
私は彼女の顔を見た。
目の縁はまだ赤く、目尻にはまだ乾いていない跡が残っている。
でも、口元はもう、再び上がり始めていた。
「じゃなきゃ、誰と撮ると思ったんだよ」
私は言った。
彼女は横を向いて、私に表情を見せなかった。
だが彼女の手は、もう一度、私の手を握り直した。
さっきとは違う力加減で、失うのが怖くてきつく握る強さではなく、もう離す必要がないから、そっと指を編む力で。
私たちはそうやってホテルの入り口の前でふざけ合い始めた。
それには以下が含まれるが、それに限らない。
ユーナが殴るふりをしたが私がかわしたこと、私が指で彼女の腰を突いて彼女が声を漏らしそうになったこと、彼女が私の袖を掴んで「さっきはあなたが興奮したんだ、私じゃない」と言ったこと、私が「先に叫び始めたのはお前だ」と反論したこと、彼女が「ちゃんと責任とってよ」と言ったこと、私が「それと責任はどう関係あるんだ」と言ったこと。
ホテルの入り口の守衛に注意されてようやく、私達は静かにロビーへと足を踏み入れた。
ユーナの指は、ずっと私の指を捉えたままだった。
回転ドアを通り抜けるときも、彼女は離さなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




