264. 牛腩煮込み
厨房のなかから物音がする。
鍋と鉄のお玉がぶつかる音、そしてスリッパがタイルの床をぺたぺたと踏む足音。
「お、おっ、いらっしゃい」
白いランニングシャツを着た老人が、奥の厨房から走り出てきて、手の水気を拭った。
彼はまず目を細めて私達を一、二秒ほど品定めし、それからすぐに、あの気取らない表情に戻って、帳場の後ろに立った。
彼のランニングは洗いざらされて白く、まずまず清潔だった。
肩と腕は真っ黒に日焼けしていて、だぶついたランニングとのあいだにくっきりとした対比をなしている。
腹は丸々としていて、胸を張るように堂々と突き出ている。
まるで「料理人は自分にだけは不自由させられない」という座右の銘を、身をもって実証しているかのようだ。
目は活発に動く。
「数多の人を見てきたが、見知らぬ人を悪意で推し量ったりはしない」、そんな老練さがあった。
彼はしばらく思案し、視線を私の髪のうえにしばし留めた。
それからユーナを見て、彼女のピンクの長い髪に、私よりもずっと長く視線を留めた。
隣の学校から、かすかに体操の号令が聞こえてきた。
生徒たちがグラウンドで体操をしている。
あの整然とした掛け声が壁を伝って届いてきて、いくつかの単語は聞き取れるが、すべては聞き取れない。
「お嬢ちゃん、今日は学校に行かなくていいのか」老人が口を開いた。
声は少ししわがれているが、腹から出た声だった。
「しかもカツラまでつけて。演劇でもあったのか? そっちの子は、どこの国のお子さんだい」
彼は「カツラ」と言った。
きわめて自然に。
まるで彼の人生経験のなかでは、ピンクの長い髪には「カツラ」という可能性しか存在しないかのように。
間違ってはいない。
この地では、プラチナブロンドの長い髪は「外国人」として扱われる。
それが、すでにずいぶん穏やかな解釈だろう。
私は……たしかに、外国人だ。
あるいは、より正確に言うなら、異世界人だ。
「はい、さっきまで舞台の発表会に出てたんです。彼女は舞台のうえで知り合った外国のお友だちで、フランシスコから来たんです。ちょうど何か食べようってことになって」
ユーナが先に口を挟んだ。
表情は誠実、口調は流暢、まるで話をでっち上げているようにはまったく見えない。
「おう、そうかい」おじさんはその説明を聞き終えると、顔の笑い皺を少しだけ深くした。
「お嬢人と、そっちの外国のお嬢ちゃんは、何を食べるんだい」
「やっぱり牛バラ肉の煮込みですね、二つください。ええと……おじいさん」
ユーナが「おじさん」と言いかけたとき、明らかに一拍つまった。
彼女の視線は素早く相手のこめかみと額の皺を走査し、すかさず呼び方を修正した。
「あいよ、牛バラ煮込み二つ、すぐに!」
店主は向きを変えて厨房の奥へと戻っていった。
スリッパがぺたぺたと鳴り、その足取りは軽快で、老体に見合わぬ素早さだった。
私はテーブルのうえから椅子を下ろし、壁に近い方の卓に座った。
ユーナも向かいに座る。
食堂は静かだった。
外を通り過ぎる車の音がときどき届くのと、あの壁の向こうから断続的に聞こえてくるグラウンドのざわめきだけ。
待つ時間は、長くなかった。
ほどなくして、黒い石鍋に盛られた牛バラ煮込みが二つ、運ばれてきた。
それと一緒に、白いご飯が山盛りで盛られた茶碗が二つ。
あの白さは、新米を蒸したときの白だ。
まだほぐれていない米粒がいくつか、表面に残っている。
茶碗のなかに盛られていて、質素だが、豊かさがあった。
石鍋の余熱で、鍋のなかの汁が細かな泡を立てている。
ぐつぐつと。
音はとても小さいが、静かな食堂のなかではことさらしっかと聞こえた。
香りが、その瞬間、一気に広がった。
それは非常に複雑な、いくつもの層に分かれた香りだった。
最初に鼻腔に届くのは湯気に運ばれてくる味噌の香り。
それから、牛バラ肉そのものの肉の香り。
あの猛烈な強火で炒めた焦げた香りではない。
長時間、とろ火でじっくりと煮込まれたあと、牛肉の繊維が十分に柔らかくなり、コラーゲンが溶け出したときに生まれる、あの濃密な乳香と肉香。
後味には、ほのかに八角と陳皮の甘く辛い香りが漂う。
それから大根。
大根の香りは後から来る。
じっくり鼻を近づけて、あの複雑な香りのなかからそれを単独で見分けないと、感じ取れない。
それはすでに煮汁をたっぷりと吸い込み、自身の清らかな甘い香りが牛バラ肉の脂の香りと溶け合って、どれが大根でどれが牛バラ肉か、もう見分けるのが難しくなっていた。
やはり、昔と変わらない。
あらかじめ大鍋で一気に牛バラ煮込みを作っておいて、学生たちが来たら、一人前ずつ取り分けて、石鍋でぐらぐらに熱してから出す。
このやり方は、学食では邪道だろう。
だが、こういう場所では、きわめて理にかなった知恵だった。
牛バラ煮込みの精髄は、すべてあの鍋の汁にある。
汁さえあれば、再加熱で失われるものは何もない。
アンド石鍋の保温性はきわめて高く、運ばれてきて五分経っても、なかはまだぐらぐらと沸いている。
やはり牛バラ煮込みは、簡易食にうってつけだ。
私は鍋のなかで泡立つ褐色の汁を見つめた。
牛バラ肉から溶け出したコラーゲンで、汁はすでにやや粘りを帯び、つやつやとした光沢を放っている。
色は深い茶色と琥珀色の間。
絶対に、あの濃口醤油を入れすぎた安っぽい黒ではない。
大根の塊と牛バラの肉が、泡のうねりにあわせてゆらりと浮き沈みしている。
上がって、下がって。
まるで何か、ゆっくりとした、けだるい呼吸のリズムのようだった。
香りも、泡がはじけるたびに、ひとかたまりずつ溢れ出て、鼻腔へと潜り込んでくる。
やはり、二十年前と変わらぬ味だ。
私は思わず、卓の上の箸を手に取った。
箸は黄色い竹箸で、少し古びていたが、清潔だった。
節の部分は長年の使用で、角がわずかに丸くなっている。
私は視線を鍋のなかの浮き沈みする食材に向けて、大根を一切れ選んだ。
大根はこの鍋の汁に長いこと浸かっていて、表面はすでに均一な黄金色を呈していた。
汁の色が完全に中まで浸透したときにだけ現れる、あの色だ。
表面は濃い色で、内側へいくほど薄くなる。
まるで茶に浸された白玉のように、透き通っているが、透明ではない。
私はその大根をそっと挟み、茶碗のなかに入れた。
ユーナも箸を動かした。
彼女が鍋のなかで何を探したのか、私には見えなかった。
「一口目は大根」、これは私とエイが前世から築いてきた不文律だった。
この決まりが、いつから始まったのかは分からない。
たぶん、あるとき私が最初に大根を食べて「これこそ精髄」と感嘆したからだろうか。
あるいは、エイがあるとき、まだ熱が完全に冷めきっていない牛バラ肉に舌を火傷させて、やむなく大根でつなごうとしたからか。
ともかく、それ以来毎回ここに来るたびに、私たちは必ず最初に大根を挟んだ。
私の箸が挟んだ大根は、黄金色のつやを帯びている。
箸でそっと触れると、すでに柔らかく煮崩れているのが分かる、あの独特の程度まで。
茹ですぎてドロドロになった柔らかさではない。
「繊維はまだあるが、すでに完全に降参している」、あの、芯まで煮込まれた質感。
今、それは白い湯気を立てていて、まだ明らかに熱い状態だった。
私は箸を握る力をほんの少し強め、しっかり挟み、口元に寄せて数回、息を吹きかけた。
気流が立ち昇る湯気を散らし、縁の温度が少し下がった。
中心はまだ熱いが、もう許容範囲だ。
私はその大根を口に入れた。
大根の内部の水分はきわめて充満していて、汁でちょうどよく張りつめた小さな袋のようだった。
私の歯が表面に触れた途端、「しゃっ」という感じで、内部に封じ込められていた汁が、繊維の破れとともに一気に溢れ出し、口腔全体を満たした。
清らかな甘さが、瞬間に広がった。
砂糖の甘さではない。
野菜そのものが煮込まれたあとに生まれる、あの自然な甘さだ。
清冽だが軽薄ではない。
それから汁の味が、あとを追ってくる。
牛バラ肉の乳香、肉香。
味噌の旨味と塩味。
八角と陳皮の辛く甘い香りが、遠くの端を悠々と一撫でし、最後に喉にほのかな温かさを残す。
大根の繊維はすでに、ほとんど咀嚼の必要がないほど柔らかくなっている。
軽く顎を数度動かせば、滑らかに落ちていった。
やはり、一口目に大根を食べるのは正しい選択だ。
牛バラ煮込みで一番うまいのは、やはり大根なのだ。
私はユーナへと視線を移し、彼女が同じ体験を味わっているかどうかを確かめようとした。
そして気づいた。
彼女は顔をしかめていた。
それは非常に具体的な、「口に入れてから事の次第に気づいた」ときに特有のしかめかただった。
眉は軽く寄り、目尻はわずかに狭まり、口元は下に押し下げられている。
表情全体が、礼儀を守ろうとする努力と、尊厳を保とうとする努力とのあいだで、困難な均衡をとっていた。
私は彼女の茶碗にちらりと目をやった。
彼女がさっき鍋から取り出したのは、大根ではなかった。
大根にそっくりの生姜だった。
昔ながらの牛バラ煮込みでは、生姜は丸ごと一塊を鍋に放り込んで一緒に煮込むものだ。
目的は臭み消しと香りづけ。
たいていはかなり大きな塊で、長く煮込めば表面の色も濃くなる。
汁を吸ったあとでは、ぱっと見ただけでは、薄暗い灯りの下で、大根とそれほど見分けがつかない。
じっくり挟んで見ないかぎり、一目では区別できないのだ。
ユーナは、じっくり見なかった。
しっかり食べた。
彼女はおよそ三秒間、沈黙した。
それから箸を置き、コップを手に取り、水を一口飲んだ。
表情はいつもの淡々としたものに戻った。
まるで何事もなかったかのように。
「……大丈夫?」私は訊いた。
「大丈夫」と彼女は言った。
軽く受け流すような口調で。
「ただの生姜」
「それ、捨てたほうが……」
「いい」彼女は私の言葉を遮り、改めて箸を手に取った。
今度はことさら真剣に鍋を見つめて吟味し、間違いないと確認してから、ようやく本物の大根を一切れ、挟んだ。
「次は自分で見分ける」
私は笑いを堪え、視線を自分の茶碗に戻した。
牛バラ肉の方は、うん。
大きな塊で、乳の香りがして、柔らかく煮崩れている。
箸を当てただけでほろほろと崩れそうになり、完全に掴みきるには力加減に細心の注意が要る。
口に入れれば、牛肉の繊維はすでに、繊維に沿って簡単にほつれるほど煮込まれていた。
肉の香りは濃厚で、臭みはまったくない。
コラーゲンが唇にほんの少し粘りつく、それは、この汁の火加減が十分だと教えてくれる、満足の粘度だ。
ひと口、ご飯と合わせる。
米粒は大根から流れ落ちた汁をたっぷりと吸い、黄金色に、かすかに輝いて、乾きと柔らかさの中間の食感で、ひと口ごとに肉の香りと汁の味を、もう一度よみがえらせてくれる。
「やっぱり最高だ」
私とユーナは、ほぼ同時にその感嘆をもらした。
それから顔を見合わせた。
どちらも口をきかず、ただそれぞれ俯いて、食べ続けた。
食堂のなかは静かだった。
窓の外を車がときどき通り過ぎ、隣の学校のグラウンドから聞こえていた声も、しだいに途絶えていった。
たぶん体操を終えて、教室に戻ったのだろう。
残るのは、石鍋のぐつぐつという音と、箸がときおり鍋の縁に触れるかすかな響きだけ。
数十年が経った。
変わったことはたくさんある。
だがこの食堂は変わらなかった。
この鍋の牛バラ煮込みは変わらなかった。
私とユーナがここに座って、同じ鍋の前に「最高だ」と感嘆する、この瞬間も、変わらなかった。
ただ、ここに座る私たちは、外見も変わり、性別も変わり、来し方も変わり、今こうして戻ってきたときの身分も変わった。
だが、この鍋の牛バラは、そんなことは気にしない。
食べに来る人が誰であれ、ただそれだけを見分ける。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




