262. 記憶のプール
ピンクの長い髪を一本の簡素な紐でゆるく後ろに束ね、洗顔したばかりの、まだほんのり水気の残る顔をのぞかせて。
彼女は、いまだ布団に半身を埋めたままの私という身体に向かって、きわめて容赦のない声で叫んだ。
「起きて起きて、とっくに朝日がお尻を照らしてるわよ」
「……いま、何時だ」
私はうつらうつらと、この世界にはない言い回しで尋ねた。
「八時半」
八時半。
頭のなかで換算し、結論を得る。
遅くはない。
私は寝返りを打って起き上がり、昨夜の治療の消耗が残した身体の重だるさをひとしきり意識させてから、尋ねた。
「どこへ?」
「外に出よう」
ユーナは扉を押し開け、すでに片足を踏み出している。
「どうせ一日中ここに籠もって、私の両親に世話をさせるわけにもいかないでしょ」
私は寝る前に魔力ポーションを飲んでいたから、魔力はほぼ回復していた。
身体にもさしたる問題はない。
そこで着替えと洗顔を済ませ、あとを追って家を出た。
母は洪おじさんの家の居間で、洪おじさんと朝茶を飲んでいた。
洪おじさんは朝早くから、あの秘蔵の茶器を取り出し、わざわざ階下まで降りて、私とユーナが小さいころ一番よく食べた朝食を買ってきてくれていた。
海老蒸し餃子、蒸しチョンファン、それにきつね色に揚がった大根餅が一皿。
母はその大根餅をしばらく研究し、フォークで一切れ突き刺し、一口かじった。
それから、表情はひどく複雑だが、目だけはきわめて正直な顔をした。
正直に、美味しいと教えてくれたのだ。
私とユーナはほぼ同時に笑いを堪え、顔を見合わせ、それから抜群の暗黙の了解で見なかったことにした。
棟を出ると、木棉城の早朝には独特の気配があった。
あの明らかな緑を帯びた新鮮さではない。
木陰と、露と、近所の朝食屋から立ち昇る油煙が混ざり合った、市井の、生活の匂い。
清潔とは言いがたいが、本物だった。
ユーナは私の半歩前を歩き、両手を上着のポケットに突っ込んで、口をきかず、ただひたすら、ある方角へと向かっていく。
私はあとに従い、やはりどこへ行くのかは訊かなかった。
道を覚えているからだ。
この道は、私たちが前世で何度歩いたか分からない道だった。
ユーナの実家の団地を出て、左へ。
交差点を一つ越え、両側に低く古びた民家が並ぶ細い路地へと折れ込む。
それから、路地ごと覆い尽くしそうなほど巨大なガジュマルの木の下をくぐり抜け、さらに五分ほど歩けば、山野公園の、数十年そのままの古い鉄柵の門が見えてくる。
あの 門。
私はいまなお、その錆の色を覚えている。
暗い赤錆色で、古い煉瓦の壁のようだった。
山野公園は大きくない。
木棉城の公園地図のなかでいえば、名の知れた場所ですらない。
湖もなければ、山もなく、わざわざ訪れる価値のある景観もない。
ただ市中心部の、高層ビルに囲まれたわずかな緑地で、ありふれた高木や潅木が植えられ、曲がりくねった石板の小道が敷かれ、老人たちが将棋を指すための石卓がいくつか置かれている。
そして、一番奥には、いまでは半ば放棄されたタイル張りのプールが一つ。
華やかなところは、何もない。
特別なところは、何もない。
だが、そんな場所が、私たち二人の記憶のなかで占める割合は、どんな名高い名所よりも、ずっと多かった。
「あのころのこと、まだ覚えてる?」
ユーナはそのプールの傍らに立ち止まり、青錆の浮いた鉄柵越しに中を覗き込みながら、私に問いかけた。
プールはL字型で、二つの区画がそれぞれ伸び、交差部には斜めの階段がある。
かつてはあそこが浅い方で、子どもたちは階段の縁でばしゃばしゃと水遊びをするのが好きだった。
だが今は、プールのなかに水は一滴もない。
排水口はとっくに詰まり、細かな白いタイルが敷き詰められた底面には、いつのころからか、隅の隙間から草が生え始めていた。
一年、また一年と伸びて、今ではもう腰ほどの高さだ。
朝の光を受けて、しっとりとした青緑に輝いている。
私は彼女の傍らに立ち、その草を見つめ、しばらく黙っていた。
「覚えてる」
私は言った。
忘れられるはずがない。
あれは前世の私とユーナ、あのころ彼女は陸錦瑩、学校ではみんなエイと呼んでいた、が出会って一年目のことだ。
あのころ私はまだ小学校に上がったばかりで、九月の始業式の日だった。
私は孤児院に通っていた。
学校は孤児院からさほど遠くなく、歩いて二十分ほど。
院の年上の子が、私と、同じく一年生のもう二人の子どもを連れて、一緒に歩いていき、校門に着いたらそれぞれ散って、各自の組を探す、そういうやり方だった。
私はたぶん、とても静かな子どもだった。
性格が内向的だったのではなく、口を開くことに慣れていなかったのだ。
口を開くと、ご両親は「といった類の質問」をされることがあり、どう答えればいいか分からない。
それならば、いっそ口を開かないほうがいい、そう思っていた。
席に着くと、隣にはすでに一人の少女が座っていた。
長い髪を二本の三つ編みにして垂らし、机に突っ伏して、鉛筆を握りしめ、ノートに真剣に丸を描いている。
口のなかでは、何やら小声でつぶやいていた。
私は彼女にちらりと目をやり、何も言わず、自分の鞄を椅子の背にかけ、きちんと座った。
すると彼女は顔を上げ、私を見た。
「あなた、名前は?」
彼女はそう、訊ねたのだ。
何の前置きも、何の社交辞令もなく、単刀直入に。
まるで今日の天気はどうだと訊くのと同じくらい自然に。
私は一瞬、面食らい、答えた。
「ロンっていいます」
あのころ私はまだ、孤児院がつけてくれた名前を使っていた。
「ロン……」
彼女はその二文字を口のなかで繰り返し、それから頷いた。
「うん、じゃあこれからロンって呼ぶね。私は陸錦瑩。エイでいいよ」
そう言い終えると、彼女はまた俯いて、丸を描き続けた。
これで、私たちは知り合った。
そしてその日から、私は口を開くことに慣れ始めた。
エイは話が多かった。
彼女と一緒にいると、口を開ければ割り込む余地すらない。
日が経つにつれて、私も話を受け止めることを覚え、とりとめのない雑談を覚え、もう以前ほど黙り込まなくなっていった。
小学校の数年は、私の前世の記憶のなかで、もっとも純粋な数年だった。
受験のプレッシャーもなく、就職の不安もなく、未来への恐れもない。
ただ毎日、授業を受け、放課後はときどき彼女の家に宿題をしに行き、ときには一緒に街角の駄菓子屋まで走っていって、一本二元のアイスキャンデーを買い、階段に腰掛けて食べ終えてから、それぞれ家に帰った。
エイはあのころ、陽だまりのような、少し騒がしくて、少し甘えん坊な小さな少女だった。
彼女には一つ、悪い癖があった。
私の消しゴムをこっそり持ち出して使うのだ。
私が見つけて返してほしいと言っても、彼女は絶対に認めない。
いつも私が持ってるわけないでしょ、という顔で、さも尤もらしく言い張る。
そしてその日の午後の放課後、突然手品のように鞄から新品の消しゴムを取り出して、私の机のうえに置く。
私、別にあなたのなんて取ってないからね、という顔で、何事もなかったかのように。
あのころ私はたぶん、もう気づいていたと思う。
この人は本当は、心が柔らかくて、口が固くて、明らかにすごく気にしているのに、素直に言えない、そういう人なのだと。
彼女は、私を初めて自分の家に遊びに連れて行った友達でもあった。
あの日、彼女は両親の留守中に、うちに来てパソコンをやろうと言った。
私は承諾し、彼女のあとについて歩いていった。
ところが玄関を開けると、洪おじさんが茶卓の傍らに座って茶を飲んでおり、手元には折り畳まれた新聞が置かれていた。
彼は顔を上げ、娘の背後から入ってきた私を見た。
見知らぬ顔立ちの平凡な少年。
そのときの彼の表情は、一秒間、あまり良いものではなかった。
怒っているのではない。
ただ、父親特有の、娘が見知らぬ男の子を連れて帰ってきたときに発動する、あの微妙な警戒心。
あのころの私も、この反応の理由をおそらく理解していたので、慌てて目を伏せ、きちんとした態度で、おじさん、こんにちは、と挨拶した。
それからエイが、まくし立てるように説明した。
ただの隣の席、ただの隣の席、一緒に宿題をしに来ただけ、パパ、そんな目で見ないで、彼、怖がってるから。
洪おじさんは私を一瞥し、娘を一瞥し、結局ゆっくりと新聞を手に取り直して、鼻を鳴らした。
黙認、ということだ。
私とエイは顔を見合わせ、それからこっそり彼女の部屋に駆け込み、扉を閉めて、しばらく互いに笑いを堪えた。
そしてあのプールは、私たちが小学校4年生の夏休みのことだった。
エイはある日の午後、突然走ってきて、一緒に泳ぎに行こうと言い出した。
水着を持ってくるように、と。
いや、水着じゃない。
私はあのころ、水泳パンツをはいていた。
私は当時、水泳というものにさほど熱意はなかったが、友達が行くというなら行く。
そう思い、戸棚からあの青い水泳パンツを引っ張り出し、彼女のあとに続いて山野公園まで歩いていった。
あのころはまだ、あのプールは営業していた。
券売所はプールの側面にあった。
あの小さな黒板に、白いチョークで書かれた「小人半額」の文字を、今も覚えている。
筆跡は歪んでいたが、ちゃんと読めた。
夏のプール。
浅い方は子どもでごった返し、深い方もしずかではなかった。
水面は始終ざあざあと騒ぎ、叫び声や笑い声が混ざり合い、ときどき誰かが飛び込んでは、大きな水飛沫を上げた。
エイは水着に着替えて出てくると、私に「似合う?」と訊ねた。
あのころの私は、この手の質問への対処法を、一律に頷くことに定めていた。
頷かないと、彼女はもっと仔細に、もっと答えにくいことを訊いてくるからだ。
だから私は頷いた。
そして彼女と一緒に、水のなかに飛び込んだ。
水は温かく、かすかに消毒の匂いがした。
だが陽射しが降り注ぎ、水面に細かな光が砕けて、きらきらと揺れていた。
あの光が手の甲に当たる感触は、今もまだ覚えている。
私たちはそこで、まるまる午後いっぱい遊んだ。
プールの放送がまもなく閉場時間であることを告げるまで、名残惜しそうに服を着替え、公園の門を出て、夕陽を踏みながら帰路についた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




