260. ベランダの決意
しばらくして、彼はその老いた手を持ち上げ、親指の腹で口元に残ったわずかな血の跡をそっと拭った。
それから、何かを決心したかのように口を開いた。
「肺がんだ」
たった一言。
あまりに平静で、私はかえって一瞬、言葉を失った。
「若いころ、煙草を吸いすぎたせいだろうな」
彼は一拍置いて、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「はは、やっぱり若気の至りには、それ相応の代償がついてくるもんだ」
その「はは」は、本物だった。
苦し紛れの作り笑いではなく、いろんなことを経てきたからこそ、この事態をむしろ軽く受け止められるようになった、そんな達観の笑みだった。
だが、達観しているからといって、怖くないわけではない。
彼の手は、あの布袋をまだ握りしめたままだった。
決して離れてはいなかった。
私はしばらく黙っていた。
大丈夫だよ」とは言わなかった。
人を慰めるときによく使われる、実際にはさして役に立たない言葉を繰り返したりもしなかった。
そういう言葉は、彼ももうずいぶん聞いてきたのだろう。
私は少し考えて、手のひらの魔力をそっと動かした。
ごく細い感知の糸が手のひらから伸びていき、洪おじさんの身体を取り巻く生命力の場にそっと触れた。
母の言ったとおりだった。
根元から内側へと崩れていく感覚が、今、私にもはっきりと感じ取れた。
普通の人の生命力は、均一に流れる律動のある波だ。
静かな水面に広がる、さざ波のようなものだ。
だが洪おじさんのそれは、大きく乱れていた。
激しく揺れているのではない。
不規則に、そして持続的に散逸し続けている。
どこかの隅に小さな裂け目があって、そこから絶えず漏れ出している。
どれだけ補っても、漏れる速度に追いつかない、そんな感覚だった。
肺がん。
私は心のなかで、その二文字を噛みしめた。
魔力感知の視界に映る、洪おじさんの胸腔全体を覆う墨黒の領域を思い浮かべながら。
あの色と属性は、闇系魔法のなかでも最も典型的な侵食型構造にきわめて近い。
渦のように、周囲の生命力の場をゆっくりと、しかし確実に呑み込み続けている。
違う世界、違う言葉。
だが、物事の本質は通じ合っている。
悪性の呑み込みは、どこであっても同じだ。
「洪おじさん」
私は顔を上げ、彼を見た。
「まず中に入って、ソファに座ってください。私が少し試してみます。この問題を、どうにかできるかどうか」
洪おじさんは私を見た。
明らかに、少し戸惑っている。
私は彼が考えを整理するのを待たず、直接、手のひらから魔力を一筋引き出した。
木属性と水属性の混合。
二つの属性が織り交ざるとき、それは碧緑と青藍の中間のような色を呈する。
早朝の葉のうえに露が宿っている、あの透き通った色だ。
光の塊が私の手のひらに凝集した。
拳の半分ほどの大きさだが、夜のベランダでは、その輝きははっきりと見て取れた。
洪おじさんの目が、その光に引き寄せられた。
彼は無意識に少し身を前に傾け、顔を近づけた。
魔力とともに放たれた、木属性特有の生命の気配が静かに広がっていく。
それは強い匂いではない。
ごくかすかな、森の早朝の清涼感のようなものが、鼻腔からそっと入り込んでくる。
身体のなかの、すでに消耗しきって乾きかけたどこかの隅に触れ、かすかだが確かな心地よさをもたらす。
洪おじさんの顔が、その瞬間、ほんのわずかに緩んだ。
それは言葉を必要としない、身体が直接返した応答だった。
彼はもう迷わなかった。
背筋を伸ばして立ち上がり、あの布袋をベランダの棚のうえに置いた。
そして向きを変えて居間へと戻り、ソファに腰を下ろした。
背筋をきちんと伸ばして、何かの検査に協力するときのような、そんな姿勢で。
私はベランダの扉をそっと閉め、あとを追った。
居間には灯りがついていなかった。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光がほんのわずか。
そして、私の手のひらのなかの碧緑色の輝きが、洪おじさんの顔に柔らかな緑の陰影を落としていた。
彼はそこに座って、私を待っていた。
手は膝のうえ。
指の節が、ほんの少しきつく曲がっている。
これから何が起きるのか分からない、それでも信じることを選んだ人がとる姿勢だった。
私は彼の向かいでしゃがみ込み、手のひらの光の塊を少しだけ前に差し出した。
あの気配をより広く覆わせて、まずは彼の生命力の場を探る。
それから、次の手を決める。
水属性の感知の糸がゆっくりと浸透し、木属性の修復エネルギーが外縁で穏やかに巡り始める。
これは、結果の見えない試みだった。
地球の病理学に基づく「肺がん」と、この世界の魔法体系とのあいだに、どれほどの互換性があるのか、私には分からなかった。
だが、一つだけ、はっきりしていることがある。
やれることは、明日まで延ばしてはいけない。
あの墨黒の渦は、刻一刻と回り続けている。
魔力による第一層の感知の糸が、私の手のひらからゆっくりと広がっていった。
木属性の感知は、独特の質感を持つ。
火属性のように熱烈で直接的でもなく、光属性のように眩く鋭利でもない。
どちらかといえば、木の根が土壌のなかをじわじわと伸びていく、あの感覚に近い。
温かく、ゆっくりと、しかし浸透力は極めて強い。
感知の糸は洪おじさんの体表の生命力の波動に沿って、一層、また一層と、より深くへと探りを入れていく。
ほどなくして、私は母が昼間に言っていたあの領域に触れた。
私の魔力感知のなかで、それは単なる黒い領域ではなかった。
より正確に言うなら、それは呑み込みの構造体だった。
均一だったはずの生命力の場のなかに一団の何かが逆方向に回転していて、周囲の生命エネルギーをすべて自分の中心へと巻き込んでいる。
巻き込まれた部分は、二度と出てこない。
肺がん。
地球の医学用語では、これは細胞の悪性増殖だ。
正常な細胞の成長制御機構に異常が生じ、制御不能な複製と拡大へと変わり、宿主のエネルギーを消耗し、正常な組織構造を破壊する。
この世界の魔法用語で言い換えても、本質は同じだ。
制御不能な侵食、異常な消耗、加速される生命力の呑み込み。
違う枠組みが、同じものを指している。
私は木属性の修復エネルギーをゆっくりと送り込み、あの渦の外縁を覆ってみた。
侵食構造とのあいだの作用を感じ取るために。
一定の抵抗力はある。
だが、まったく手がつけられないわけではない。
この世界の木系魔法は、本質的に細胞の増殖と修復を加速するものだ。
それは腫瘍の原理と、ある意味で同じ道具を使っている。
違うのは、誰がこの過程を主導しているかだ。
制御不能な病変か、それとも外部からの意識的な修復の意志か。
私はゆっくりと感知の糸を引き戻し、頭のなかで次の手順を整理した。
これは今夜で終わる作業ではない。
たとえ十分な魔力があったとしても、普通の人間の身体に、一度に大量の外来エネルギーを注ぎ込むことはできない。
それは彼本来の生命力の均衡を破壊し、軽ければ衰弱、重ければ逆流を招く。
これには段階を踏み、時間をかけ、複数回の治療が必要だ。
だが今夜は、まず一つだけやれることがある。
侵食によって失われた生命力を補い、消耗の速度を少しだけ緩めてやり、彼の身体にほんのわずかでも息継ぎの余地を与えること。
「洪おじさん」
私は顔を上げ、平静に言った。
「今夜はまず、少しだけ補います。少しでも楽になるように。この先のことは、ちゃんと相談してからにしましょう。不快な思いはさせませんから」
洪おじさんは何も言わず、ただ頷いた。
その頷き方はとても軽く、しかしとても確かだった。
自分を誰かに委ねることを決めた人がする頷きだった。
私は深く息を吸い、手のひらの木水双系魔力をもう一度凝集させ、より細やかでより穏やかな出力に調整して、洪おじさんの胸のあたりにゆっくりと近づけた。
緑の光が、ソファの傍らのこの暗がりのなかで静かに灯っていた。
どこまでできるかは分からない。
だが、何もしないつもりもなかった。
なにしろ、やれることは明日まで延ばしてはいけないのだから。
それにしても、不思議なものだ。
異世界に転生し、魔法を手に入れ、前世では想像すらできなかった力を得て。
その結果、この夜、このありふれた木棉城の古びた居間のなかで、私は初めて心の底からこう思った。
この力は、ここで使うのが正しいのだと。
誰かを倒すためでもなく、領地を守るためでもなく、自分の地位を維持するためでもない。
ただここに座って、一人の老人の身体のなかの渦の回転をほんの少しだけ遅くする。
かつて自分を助けてくれた人を救うこと。
それだけで、もう十分だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




