表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
250/273

248. 黒金の個室

 車がホテルの地下駐車場を出たのは、ちょうど午前十時頃だった。


 花の国の都心の午前中の交通はさほど混んでいない。


 黒いセダンは広い車道を安定して走っていく。


 私は後部座席に座り、窓の外の街並みが次々と流れ去るのを見つめていた。


 高層ビル、ネオンの看板、電信柱、路肩に停められた自転車、そして急ぎ足で行き交うスーツ姿の会社員たち。


「母上、外を見て」


 私は肘で、隣に座る母をそっとつついた。


 彼女は私の視線を追って窓の外を見た。


 その瞬間、彼女の表情を私は丸ごと捉えた。


 それはとても複雑な表情だった。


 好奇心もあれば、茫然もあり、驚嘆もある。


 異世界から来た人間が、現代都市の街路に立ち、自分がまったく理解できない高層ビルや看板を見つめている。


「娘よ」


 彼女はしばらくしてようやく口を開いた。


 声はとても軽い。


「この世界の人は、魔法を使わないのか」


「はい。ほぼ使いません」


 私が言った。


「ならば、何で戦うのだ」


「……その問題は、これからゆっくり説明します」


 私はまたしても、あの膨大な現代科学技術知識体系の講義計画を先送りにした。


 母は「うん」と声を漏らし、それから視線を戻して、静かに窓の外を見つめ続けた。


 彼の口にしたその百貨店に着くまで、私は金の力というものを、思い知らなかった。


 車は百貨店に着くと、地下駐車場へは向かわず、百貨店の上階へと向かった。


 てっきり、ただ駐車用の建物があるだけで、特段変わったことはないだろうと思っていた。


 豪華に装飾され、走行用の地面にすら高価な大理石のタイルが敷き詰められた駐車場に車が停まるまでは。


 自分がどれほど見当違いだったかを思い知った。


 この駐車場は、照明から地面、壁面から天井に至るまで、細部のすべてが一つのメッセージを発している。


 普通の人は、ここには来ないでください。


 駐車フロアには専属の係員がいるらしく、彼らは濃い青のスーツを着て、手には白い木綿の手袋をはめて、立ち姿はまるで観兵式に参加しているかのように真っ直ぐだった。


 車が停まると、彼らは私たちが自分でドアを開けるのを待つこともせず、慌ただしく車の横に走り寄り、私たちのためにドアを開けてくれた。


 この種のサービス。


 私は五つ星ホテルの玄関でしか見たことがない。


 あのときも、ある会社の社長を接待したときだ。


 前世の記憶では、ごく普通の社畜だった私だが、重要な取引先を迎えるために派遣されたことがあった。


 あの社長の車がホテルの玄関に停まったとき、私はもともと車を降りて彼のためにドアを開けようと思っていたのだが、ホテルのスタッフが機転を利かせて、とうに開けてしまっていた。


 トランクの荷物まで、全部、出してしまっていた。


 当時の私は気まずさのあまり、苦笑いを浮かべてその社長を見送るしかなかった。


 そして今、私自身が、ドアマンにドアを開けてもらう側になっている。


 車を降りて、私は車の横に立つあの若いドアマンを観察した。


 歳は若く、二十歳そこそこ。


 顔立ちは端整で、体格は均整がとれている。


 濃い青のスーツのカッティングはぴたりと体に合い、白い手袋には汚れの一つもない。


 彼はどうやら私の視線に気づいていたらしく、失礼のない微笑みを、私にひとつ、向けた。


 まるで視線でそっと「何かお手伝いできることは」と問いかけているかのように。


 私は微笑みをひとつ返しただけで、運転手に続いて百貨店の入口へと歩いた。


 だがこの短い数秒のあいだに、ひとつの細部に気づいた。


 あのドアマンの視線は、私の上に一秒も留まらず、それから母の上に移り、二秒ほど留まり、最後にユーナの上に移り、一秒留まった。


 彼の視線には、軽視もなければ、好奇心もない。


 ただ、訓練された評価だけがある。


 彼は私たちの身分を評価している。


 それから彼は判断を下した。


 この人たちは、自分の最も標準的な礼節で遇するに値する。


 百貨店のなかに入ってようやく、運転手の前方に、もう一人、青いスーツを着た女性が私たちを案内しているらしいことに気づいた。


 彼女は四十歳前後。


 髪はきちんとした束ね髪にまとめられ、歩みは軽やかで安定している。


 全身から漂うのは、ゆったりとした落ち着き。


 私たちの目的地は、どうやら百貨店のなかの特定の一店舗ではないらしい。


 道すがら、多くの店舗を通り過ぎた。


 高級革製品を売る店、宝石を売る店、化粧品を売る店。


 だが案内の女性は、どの店の前でも立ち止まらなかった。


 途中、数人のきちんとした身なりの女性たちが、あの青いスーツの女性を見たとき、後ろに従う私たちをじろじろと眺め、信じがたいという表情を浮かべた。


 その表情には、羨望と同時に、一片の驚きが混ざっていた。


 まるで「なぜあんたたちが、この人と一緒に歩いているの」とでも言いたげに。


「あの案内の人を、警戒しているのか」


 母が声を潜めて私に訊いた。


「うん、まあ、そんなところです」


 私は低い声で答えた。


「あの人は、おそらくこの百貨店で、かなり上のレベルの顧客担当マネージャーです」


 最後の確証は、彼女があの黒金の金属製の大扉を開けたあと、訪れた。


 あの扉の材質は見るからに重厚で、把手には細やかな模様が刻まれ、扉枠の縁には何かの暗色の金属が嵌め込まれている。


 金色ではない。


 もっと控えめで、もっと長持ちする、貴さ。


 扉が開いた。


 なかは、調度品の優雅な個室だった。


 柔らかな照明、濃い色の木製家具、壁には何枚かの見るからに値の張りそうな絵画が掛かり、隅には小ぶりなバーカウンターまで。


 バーカウンターの後ろには、私には銘柄の分からない酒が数本並んでいる。


 先ほどの青いスーツの女性は、私たちを案内し終えると、何をお飲みになるかと小声で尋ね、それから部屋を出ていった。


 このとき、ようやく私はソファに腰掛けたまま、口を開くことができた。


「すみません、私達、百貨店に買い物に来たんですよね。なぜここに」


 運転手は、私たちと一緒に個室まで入ってきたが、ずっと静かに傍らに立っていた。私の質問を聞くと、田舎者を見るような表情は一切見せず、とても自然に説明した。


「お嬢様。当家の主はこの百貨店の最上級である黒金会員でございまして、ここは当然、黒金会員専用のラウンジでございます」


 彼は一拍おき、さらに一言付け加えた。


「商品のご覧分につきましては、後ほど係の者が商品の写真かサンプルをお持ちいたします。お客様が階下を歩き回って商品をお選びになる必要はございません」


 私は驚きの表情を浮かべた。


 この方式では、VIP顧客がラウンジで座っていると、店側が商品を持ってきて選ばせる。


 私の前世の記憶のなかでは、超富裕層の生活を描いたテレビドラマにしか出てこない。


 そして今、私は自分がそのテレビドラマの場面のなかに座っている。


「……これが、金の力か」


 私はぽつりと呟いた。


 ユーナが私の横で、軽く笑った。


 母は私の向かいのソファに座り、背筋を真っ直ぐに伸ばし、両手をきちんと膝の上に揃えている。


 入ってきたのは、中年の女性だった。


 彼女は金色の小型のワゴンを押して、部屋へと入ってきた。


 ワゴンの上段には何本かの細長いガラス瓶が、下段にはいくつかの精巧な包装袋に入った商品サンプルが並んでいる。


 年の頃は四十五歳前後。


 髪はきりりとした束ね髪にまとめられ、身には百貨店の制服の上着に濃い色のエプロン。


 全体にきびきびとしていて、かつ親しみやすい。


 胸には小さな名札がひとつ留められている。


「フレグランス部・沙織」。


「こんにちは、ご貴客の皆様」


 彼女はかすかに身を屈めた。


 声は穏やかで、しかもプロとしての距離感を失っていない。


「フレグランス部の沙織でございます。香水やアロマ製品にご興味がおありと伺いましたが」


 香水。


 この言葉が私の脳裡に浮かんだとき、私の瞳孔はかすかに広がった。


 香水が嫌いだからではない。


 まったく逆、不意に、とても重要なことを、思いついてしまったから。


 エリクソン公爵領の経済構造には、ずっと頭を悩ませてきた問題がひとつある。


 貴族階層が大量の富を溜め込んでいる。


 だがその富の大半は、金貨、宝石、土地という形で、彼らの手元に沈殿し、ほとんど流通していない。


 オリバー商会はアムニット市で勢いよくやっているが、あの老舗貴族たちの財布に、本当に触れられるものは、ごくわずか。


 そして香水、この世界では、香水は極めて希少な贅沢品だ。


 最上級の錬金術師だけが、品質の安定した香料を調合できる。


 そしてそれらの商品の価格は、ひどく法外だ。


 五十ミリリットルの普通の香水が、帝都では二十枚の金貨以上で売れる。


 それは庶民の一家の、十年分の生活費。


 もし私が花の国から香水を大量に仕入れ、商会を通じて異世界へと流通させれば。


 私の脳が、急速に回転し始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ