247. 花の城の百貨店
シャワーヘッド、恒温バルブ、石鹸置き、排水口、そしてこの世界の「日常」のなかでは取るに足らないが、ヘレナにとってはまったく馴染みのない一連のシステム。
私はやむを得ず浴室に入り、手取り足取り、湯温の調節と水の噴き出す方向の切り替え方を教えた。
「このつまみを左に回すとお湯、右に回すと水です」
私は手本を見せた。
「あまり左に回しすぎないでください。火傷します」
母は浴室のなかに立ち、ホテル備え付けの白いバスローブをまとい、金色の長髪を肩に散らしている。
私がここまで説明したところで、ふと、口を止めた。
彼女がとても平静な、これ以上の説明を一切必要としない目つきで、私に頷いていたからだ。
「分かった」
彼女が言った。
「この装置の構造は、魔法陣のなかの『混合回路』に似ている。二種類の異なる属性の魔力が交差点で調節されて比率を制御され、安定した結果を出力する」
……そうか。
なぜ私は「部品」や「物理原理」で説明しようとしたのか。
「魔法回路」という彼女がすでに熟知しているものに類比すればよかったのに。
「母上はすごいです」
私は心から言った。
彼女はかすかに口元を上げた。
その笑みには、ほんの一筋の、ごくかすかな、ほとんど見えない得意が滲んでいた。
風呂が終われば、就寝の時間だ。
前述の通り、私とユーナが一つのベッド、母が単独で、もう一つのベッド。
このあいだに小さな挿話があった。
母はあの追加のベッドを見たとき、三秒ほど沈黙し、それからとても平静な口調で言った。
「娘よ、本当に私と同じベッドで寝ないのか」
「……母上、私は十三歳です」
私が言った。
「おお、そうだった」
彼女は思い出し、それからとても自然に洗面所へ行き、着替え、自分のベッドに横たわった。
灯りを消したあと、部屋にはエアコンの低い唸り音と、窓の外の遠くから聞こえる花の国の都心の夜の交通騒音だけが残った。
私はベッドに横たわり、天井を長いこと見つめていた。
明日、母の身分証が届く日だ。
翌朝。
私とユーナが予約した部屋には朝食が二名分含まれていたので、一階のレストランへと食べに行った。
母の朝食は、昨日、コンビニで多めに買ったおにぎりと飲み物がいくつかあるので、寝室で済ませてもらう。
食事を終えて部屋に戻ろうとしたところで、昨日、チェックインを担当してくれたあのフロントの若い女性が、小走りでエレベーターの前まで追いかけてきて、私達を呼び止めた。
彼女の手には、厳重に封がされた白い封筒がひとつ。
封筒には端正な花の国の文字で受取人の情報が一行で書かれている。
その一行を私は読める。書かれているのは私の偽名。
「申し訳ございません、お客様」
彼女はかすかに一礼した。
「こちら、今朝、速達で届いたお荷物でございます。配達の方が、必ずご本人様にお手渡しするようにと」
彼女は言い終えると、その封筒を前に突き出した。
なかになにが入っているかは、だいたい察しがついた。
沖田は、母の花の国の身分証は「一両日のうちに」用意してホテルに届けると言っていた。
日数を数えれば、今日。
私は微笑みを浮かべ、彼女の手からその封筒を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
彼女は二度目の礼をし、それから小走りでフロントへと戻っていった。
ホテルの部屋に戻り、私は封筒を机の上に置いた。
「母上、速達です」
私が言った。
母は寝室から出てきた。
すでに昼間の服に着替えている。
淡いクリーム色の長袖シャツに濃い色のワイドパンツ。
金色の長髪は後ろで低いポニーテールに結われ、きびきびとしていて、それでいて優雅さを失っていない。
彼女は机の前まで歩き、収納の腕輪から、ずっと腕輪の空間のなかに隠していたペーパーナイフ、刃のとても薄い、一目でこの世界の工芸水準ではないと分かる小刀、を取り出した。
「本当に腕輪のなかの刃物で、現代の封筒を開けるつもりですか」
私は思わず一言。
「……違いがあるのか」
彼女はうつむいて手にした小刀を見て、それから机の上の封筒を見て、それからとてもあっさりと刃物をしまい、代わりに爪で封筒の糊づけを剥がした。
封筒から取り出されたのは、書類だった。
いや、正確には、赤い革表紙の小さな手帳。
母はその小さな手帳を取り出し、手に取って裏返し、しげしげと観察した。
赤い表紙、金箔押しの文字、小さな判型。
「これが、お前の言っていた、この世界の人間が自分を証明できるもの、か」
母がそう訊いた。
私は頷き、応えた。
「そうです。これがあれば、母上は花の国で合法的にホテルに泊まり、新幹線に乗り、銀行口座まで開けるようになります」
母はあの赤い小さな手帳を開いた。
なかには彼女の証明写真が一枚、貼られている。
それは私たちが都心の快速写真館で撮影したもので、出来上がった写真は意外なほど美しかった。
「ふふ」
彼女は声に出して笑った。
「何を笑っているのだろうな。私はいま、魔法のない世界で、一枚の合法的な身分証を、手に入れたのだ」
彼女は小さな手帳を閉じ、慎重に収納の腕輪の中へとしまった。
それから彼女は、私が意外に思う一言を発した。
「シングルをもう一部屋、取る」
「……は?」
「お前たち子ども二人は一つのベッドでいい。私は大人で、自分の用事がある」
彼女がこの言葉を発したとき、表情はとても真面目だった。あまりに真面目で、何かを示唆しているのではないかと疑うほどに。
だが彼女を一目見て、私はその考えを捨てた。
「分かりました」
私は言った。
「階下のフロントで手続きできます」
そこで母は階下に降り、ホテルのフロントでシングルをもう一部屋取った。場所は、私たちの部屋の真向かい。
新しい部屋のルームカードを手に戻ってきた彼女は、私たちの部屋の前で一瞬、立ち止まり、振り返って私に言った。
「娘よ、今日は買い出しに出るのか」
「はい。百貨店に行きます」
「ならば、私も行こう」
彼女は言い終えると振り返り、向かいの部屋のドアをカードで開け、中へと入っていった。
扉が閉まる前に、とてもかすかな、深呼吸のような音が聞こえた。
緊張しているのか。
それとも、興奮か。
あるいは、両方か。
エリクソン公爵領の現代化建設には、大量のこの世界の物資が必要だ。
省エネ照明から農業工具まで、衛生設備から建築材料まで、通信機材から……
よし。
まだ具体的に何を買うか決めていないものもあるが、とりあえずまずは見に行く必要がある。
事前に沖田に話をつけておいたので、ここ数日は彼が車を一台出して私たちを移動中に送迎してくれる。
これで地下鉄に乗らずに済む。
地下鉄に乗ることも一種の文化体験ではあるが、今日の買い出し量を考えれば、地下鉄は明らかに現実的ではない。
ホテルの階下に降りると、すぐにロビーのなかで、黒いスーツを着て、襟元に「沖田」の文字の入ったピンバッジを留めた中年男性を見つけた。
彼は窓際のソファに座り、手には花の国の新聞。
私たちが気づき、手にした新聞を置き、立ち上がり、私たちに善意の微笑みを浮かべた。
「お嬢様、お出かけのご準備でございますか」
彼はそう訊いた。
私は頷き、それ以上は応じなかった。
これは沖田の手下と付き合うなかで、私が少しずつ身につけてきた習慣だ。
多くを語らず、多くを聞かず、感情を露わにしない。
これらの男たちは皆、沖田が丹念に選んだ、口が堅くプロフェッショナルな「古風な」給仕たちだ。
彼らにとって、雇い主の沈黙は冷淡ではなく、格だ。
すぐに、彼はソファから立ち上がり、私達を別のエレベーターの前へと案内した。
そのエレベーターは、昨日、私たちが使ったあの公共エレベーターではなかった。
もっと小さく、内装はもっと良く、エレベーターの内壁には濃い色の木目の化粧板が貼られ、上のほうには暖色のスポットライトがひとつ。
エレベーターはゆっくりと下降し、地下にあるホテルの駐車場へと至った。
沖田が今日、私たちのために用意した車は、ごく普通の黒い車。
普通だと言うのは、花の国の尺度に立てばの話。
この車のブランドもモデルも、この国では非常に大衆的で、路肩に停まった十台のうち、だいたい二、三台は同じ型を見かける。
目立たない。
注意を引かない。
まさに現在の目立たずに行動するという私たちの需要に合致している。
「お嬢様、本日はどちらへ」
彼は運転席に座り、キーを差し込んでエンジンをかけると、振り返って後部座席の私に訊いた。
「今日は、ここで一番有名な百貨店に行きましょう」
私は言った。
以前にも一度行ったことはある。花の国に来て間もない頃、佐藤健が一度連れて行ってくれた。
だが、前回は明らかに資金が十分ではなく、しかも当時の主目的は環境に慣れることであって、物資の調達ではなかった。
だから、私たちはまだ何かを見落としているかもしれない。
そして百貨店なら、私たちが欲しいものの多くを買える。
あるいは、突破口になるかもしれない。
なにしろ百貨店は、様々な種類の店舗を集約している。
ハイエンド家電から日常雑貨まで、衣料品から調理器具まで、工具から……
うん。
今はまだはっきりと言えないものもあるが、現場に行けば自然に見つかるものだ。
「かしこまりました、お嬢様。それでは、花の城で一番の百貨店へ参りましょう。当家の主も、あそこにはVIP会員の権利がございますので」
運転手がこの言葉を言ったとき、口調にはかすかな、ごくかすかな、ほとんど気づかれないほどの誇りが滲んでいた。
私は頷き、彼の提案を受け入れた。




