246. 電子レンジの奇跡
私はうつむいて、自分がさっき差し込んだあの一束の紙幣を見た。
ざっと百枚くらいか。
換算してだいたい数十万円。
これで上限に達するのか。
「一台の機械は、一日にこれだけしか預けられないんです」
ユーナが私の横で低い声で言った。
ちょうど私の疑問を見抜いたかのように。
「紙幣カセットが十分に大きくないからです」
私は手にした黒い手提げ鞄を見、それからあのATMを見た。
たしかに、機械のなかを札でいっぱいにしてしまいそうだ。
「……なら、何台も回ればいい」
私が言った。
それで私たちは走った。
ホテルの階下のコンビニから、二区画先の地下鉄の駅まで、さらにあの商業街の三つの異なる銀行のATMまで。
現金を複数の機械に分散して預け入れた。
母はキャッシュカードを手に、異なる機械のあいだを行き来した。
これは私がわざとそう手配した。
彼女にこの世界の「基本操作」にもっと触れさせるためだ。
なにしろ彼女は、これからしばらくこの世界で生活するのだから。
いつまでも何もかも私とユーナに頼るわけにはいかない。
だが、事実が証明したように、一度もATMを見たことがない人にATMを操作させるのは、多大な忍耐を要する作業だった。
「娘よ、この機械がカードを呑み込んだ!」
母が一台目のATMの前で、小さな声の悲鳴を上げた。
私は駆け寄って見た。ああ。
カードを裏返しに入れていた。
「母上、チップが上です」
私はカードを取り出し、もう一度、手本を見せた。
「……チップ?」
彼女はその言葉を繰り返した。
表情は複雑だった。
十台。
ATMを十台分、上限まで使い切り、ようやくあの現金の大半を預け終えた。
この、すでに「ストライキ」を起こしたATMの前に立ち、私は不意に、とてもシュールな感覚に襲われた。
一袋の金銀宝石と引き換えに得た金を、この世界では、これほど機械的で、反復的で、ほとんど不器用とすら言えるやり方で、一枚一枚、預け入れなければならない。
あらかじめ口座番号を渡して、直接、送金してもらえばよかった。
「送金」というものが存在したことすら思い至っていなかった自分に、私は憤然と額を叩き、心のなかで「しまった」と叫んだ。
もちろん、今さら額を叩いても遅い。
すべての金をようやく預け終えたときには、時刻はもう夜の九時に近かった。
三人の腹の虫が期せずして声をあげた。
花の国のこういうコンビニ文化のなかでは、夕食を片づける方法はたくさんある。
だが効率の面から言えば、最も手間が省けるのは、コンビニで弁当を買うことだ。
私たちは白熱灯の明るい、小さなコンビニへと入っていった。
店内は明るく、棚には整然と商品が並んでいる。
おにぎり、弁当、巻き寿司、サラダ、飲み物、菓子。
五色とりどりの包装が蛍光灯の下で、なんとも言い表せない、現代の商業社会に属する「冷静な喧騒」を漂わせていた。
母は入るなり、壁側に並べられて冷気を立ち昇らせているあの冷蔵ショーケースに視線を奪われた。
彼女はケースの前まで歩き、うつむいて、透明なガラス扉の向こうに並ぶ弁当を見つめた。
「冷たい食べ物を、どうやって食べるんだ」
彼女は困惑した声で訊き、同時に手を伸ばして、指先で冷蔵ケースのガラス扉にそっと触れた。
冷たい。
彼女の指がガラスに触れた瞬間にすくみ、それから彼女はますます困惑した表情で、振り返って私を見た。
「あとで母上にも分かります」
私が言った。
「ふふ。本当に、何も知らない世界に来てしまったものだな」
言い終えると、彼女はそれ以上追及せず、向きを変え、冷蔵ケースのなかの弁当をひとつひとつ、真剣に見始めた。
包装の文字は読めない。
だが彼女はどうやら、見た目を観察することで、なかにどんな食べ物が入っているかを推測しようとしているらしかった。
この光景には、なんとも言えないあたたかさがあった。
異世界から来た強力な冒険者が、今、現代のコンビニの冷蔵ケースの前に立ち、生まれて初めて母親に連れられてスーパーに来た子どものように、自分がまったく理解できない食べ物を、真剣に見つめている。
私、ユーナ、母。
それぞれが弁当を二つ三つと、飲み物をいくつか選び、それからレジへと会計に向かった。
店員は制服を着た若者だった。
彼は私たち三人の組み合わせ、白金色の長髪の少女、桃色の髪の少女、気品溢れる金色の長髪の若い女性を目の当たりにして、視線が一瞬止まった。
それからとてもプロフェッショナルに微笑みを回復させ、品物をひとつひとつスキャンし始めた。
「合計三千四百円になります」
彼が言った。
私は財布から数枚の紙幣を引き出して差し出し、それから釣り銭と買い物袋を受け取った。
全過程は二分とかからなかった。
だが母は始終、店員の動作を見つめていた。
スキャナが「ピッ」という音を立て、レジの画面に金額の数字が跳ねたとき、彼女の目がかすかに見開かれた。
ホテルの部屋に戻り、私は買い物袋を机の上に置いた。
「これで、食べられます」
私は言った。
それから袋から弁当をひとつ取り出し、部屋の隅にある電子レンジの前まで歩いた。
そう、このホテルの各部屋には小型の電子レンジが一台ずつ備えつけてある。
弁当の外包装のフィルムを破って剥がし、電子レンジのなかに入れ、二分に設定し、スタートボタンを押す。
電子レンジが「ブーン」という低い唸り声を発した。
母は全過程を目撃した。
彼女の視線は電子レンジのガラス扉から、私の顔へと移り、再び電子レンジへと戻った。
なかの弁当がターンテーブルの上でゆっくりと回転している。
炎はどこにもない。
魔法陣もどこにもない。
彼女の魔力感知が捉えられる温度変化すら、どこにもない。
だが二分後、私が弁当を取り出したとき、熱かった。
湯気が弁当箱の隙間からゆっくりと立ち昇る。
「こ……これは」
母が未完の音節を発した。
「電磁波で食べ物のなかの水の分子を振動させ、熱を生み出すんです」
私は言い終えたあと、すぐに気づいた。これは彼女にとってまったく意味をなさない。
そこで私はため息をつき、「魔学知識を参照枠にして」説明する方法に切り替えた。
「母上は、魔力が伝導の過程で障害に遭ったとき、何が起きるかご存じですよね」
彼女は頷いた。
「魔力の流れが遮断されると、蓄積されたエネルギーが、爆発か、熱放射の形で放出される」
「そうです。この世界の人は、似たような原理を使っています。彼らは『電子』というものを金属の線のなかで流し、電子が障害に遭ったときに、大量の熱を発生させる」
「……電子?」
「まあ、つまり、とても微小な魔力粒子のようなものです」
私は曖昧にこの概念を持ち越した。
電子とは何かを本当に説明するには、少なくともまるまる午後いっぱいとホワイトボードが必要だ。
母はしばらく考え込み、それからうつむいて、まだ余熱を放つあの弁当を見つめた。
「つまり」
彼女はゆっくりと言った。
「この四角い鉄の箱は、なかに炎もなく、魔法陣もなく、魔力源もない。ただ、あの『電子』というものをぶつけ合わせて、それで私の弁当が温まったというのか」
「……そうです」
私は頷いた。
彼女は数秒沈黙し、それから不意に笑った。
「娘よ」
彼女が言った。
「お前がこれから私に教えねばならぬことは、私が思っていたより、ずっと多いようだ」
私達三人は居間のローテーブルを囲んで座り、それぞれの弁当を開けた。
私が選んだのは生姜焼き弁当。
ユーナが選んだのは照り焼きチキン弁当。
母が選んだのは……うん、彼女は自分が何を選んだのか分かっていなかった。
ただ、包装にとても美味しそうな巻き寿司の写真が印刷されている弁当を選んだ。
結果、開けてみたらオムライスだった。
だが彼女は失望しなかった。
むしろ、彼女はとても真剣な態度で、最初の一口のオムライスを口に運んだあと、全身の表情が変わった。
「母上」
私は生姜焼きを噛みしめながら言った。
「これからスーパーやデパートで、この世界の『日常』をもっと目にすることになります。そのとき、分からないことがあったら、なんでも聞いてください」
「うん」
彼女は頷き、それからとても自然に、話題を本題へと切り替えた。
「そうだ。お前が言っていた『クレジットカード』と『送金』というやつは、どういう仕組みだ。今日、あの金を直接、お前のカードに送金できたなら、十台の機械を走り回ることもなかったのか」
「……そうです」
私は再び、言い知れぬ脱力感に襲われた。
最初から、その手があったのに。




