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25. 野外弁当の恨みと、土鍋粥の奇跡

結局、私とユーナはピクニックに戻れなかった。


泥だらけ、草だらけのぼろぼろ姿で集合場所に戻ると、チャーリーとニーナが仁王立ちで待ち構えていた。


——ふたりとも、全身に土汚れと草くずを張り付けて、まるで沼から這い出てきた泥人形みたいだったけど。


「ちょっと! トイレで迷子にでもなったの? それとも異次元にでも飛ばされた?」


チャーリーが両手を腰に当て、仁王立ちのまま詰め寄ってくる。


「こんなに待たせておいて、料理まで全部冷めてるんだけど!」


(まあ、確かにそれは……申し訳ない)


俺は頭をぽりぽりと掻いた。ユーナはこっそり泥だらけの手を背中に隠している。どう見ても弁解できる状況じゃなかった。


そこへ、ヒールの音をカツカツと響かせながら近づいてくる人影がひとつ。


ベナ・アマドール——チャーリーのお母さんだ。


腕を組んで立ち止まり、俺たちをじっと見つめてから、深くため息をついた。


「ふたりとも……昼間にこっそり消えて、女の子ふたりをずっと待たせるなんて。もうちょっとで泣き出しそうだったわよ?」


「あの、ベナさん、実は——」


「言い訳はいいわ」


ぴしゃりと遮られた。


「そのみっともない格好、見れば森の奥まで行って遊んできたのがバレバレよ。まったく……今回だけは大目に見てあげる。でも次にこんなことしたら、ふたりともここに置いてって魔狼の餌にするわよ」


「お母さんの言う通り! 次は絶対待たないから!」


チャーリーがすかさず母親の隣に並んで、ぷりぷりしながら乗っかってくる。


ベナさんは苦笑いしつつ、手をひらひらと振った。


「はいはい、口喧嘩はそこまで。時間も遅いし、さっさとアムニット市に戻るわよ」


俺たちは五人で馬車に乗り込んだ。


窓の外、遠ざかっていくピクニック会場を眺めながら、俺はぼそりと呟いた。


「……くそっ、ローブ会め。俺のピクニックを返せ……」


せっかく友達と楽しむつもりだったのに、あの連中のせいで全部台無しだ。


歯ぎしりしたくなる気持ちをぐっと噛み殺しながら、俺は窓枠に頬を預けた。


アムニット市内の借家に戻ると、客間のローテーブルの上に一通の封書が置いてあった。


ユーナが手環から取り出した銀白色の封書切りナイフ——ミスリル製の細身の一品——で封を切り、中の便箋を引き出した。


「……お嬢様、アルフレッド様からのお手紙です。お屋敷に一度お戻りいただきたい、とのことです」


「父上から?」


俺は便箋を覗き込む。達筆で、でも短い。用件だけが簡潔に書かれていた。


(急ぎの用、か。何かあったんだろう)


汚れた服を着替える暇もない。玄関の前には、すでに準備を整えた馬車が待機していた。


俺たちは泥だらけのまま乗り込み、アムニット市外へ向かった。


エリクソン公爵邸に戻ると、まず使用人に案内されて浴室へ通された。


(父上と会うのに、この格好はまずい)


そう思って、俺は普段よりかなり早めに入浴を済ませた。


本当なら広い私室の浴場でゆっくり湯に浸かりたかったが——今は用件が先だ。


湯上がりに淡いグリーンの礼服ドレスを纏い、老齢の女中に案内されて西側の廊下を進む。


「こちらでございます、お嬢様」


老女中が立ち止まった先は、彫り細工の施された重厚な大扉。


俺は一度息を吸い込んでから、ゆっくり扉を押し開けた。


暖色の灯りに照らされた室内で、父上と母上がソファに並んで座っていた。


「おかえり、クローディア」


父上が口を開く前に、俺は軽く一礼した。


「父上、母上。ご連絡いただきありがとうございます。急ぎ戻りました」


父上はにっこりと笑って、大きな手で俺の頭をくしゃっと撫でた。


「実はな——ヘイティが子供を産んだんだ」


「……え?」


「お前の魔法の師匠だぞ。生まれたばかりだ。顔を見に行ってやれ」


「男の子ですか、女の子ですか?」


「女の子よ、エディスって名前にしたそうよ」


母上が柔らかく微笑む。


(エディス……小さい師匠か。それはちゃんと会いに行かないと)


「わかりました、すぐ参ります。——ユーナ、贈り物の準備をお願いできる?」


「はい、お嬢様。すぐに」


ユーナが静かに礼をして部屋を出る。実はこのくらいの備えは、もう前もって用意してあった。急な呼び出しにも対応できるよう、あらかじめ押さえておいた品がある。数分もあれば整うはずだ。


ヘイティ先生の部屋の扉は薄く開いていた。


コンコン、と軽くノックすると、中から穏やかな声が聞こえてきた。


「どうぞ」


扉を押し開けると——先生がベッドの縁に腰掛け、小さな命を胸に抱いていた。


赤ちゃんは静かに眠っていた。小さくて、ぷっくりとした頬が林檎みたいに赤い。


「先生! 会いに来ました」


俺はできるだけ静かな声で呼びかける。


先生がゆっくり顔を上げて、目尻を下げた。


「あら、私の小さな王女様が来てくれたの。ちょうどよかった——未来の妹弟子、紹介しなきゃ」


先生はそっと赤ちゃんの小さな手を持ち上げてみせた。


俺はそっと指先で触れてみる。


(……やわらかい。綿菓子みたいだ)


なんだろう、この感覚。前世でも赤ちゃんに触れたことはあったけど、この身体で触れると、不思議なくらい胸の奥が揺れる。ホルモンのせいか、それともこっちの血がそうさせるのか。


「エディス……って名前にしたんですね」


「ええ」と先生は静かに笑った。「昨日生まれたばかり。医者には健康って言われたけど、よく泣くって」


しばらく三人で——正確には四人で——静かに話した。


ユーナが気配なく贈り物をベッドサイドに置いていく。さすが、気の利かせ方が板についている。


「それでは、ゆっくり養生されてください。またすぐ来ます」


先生の部屋を辞して廊下に出ると、扉のそばで待っていた女中が「旦那様がお呼びです」と告げた。


父上の執務室。扉は使用人の手でぴしゃりと閉じられた。


俺とユーナが椅子に腰を下ろす。ユーナは背筋をぴんと伸ばして、まるで武人のように座っている。俺はというと、椅子の背もたれにどっかりともたれかかりながら、父上の顔を眺めた。


「ひとつ、話しておかなければならないことがある」


父上が指先で机を叩く。


「人手が足りなくなってきた。お前に、少し力を貸してほしい」


「父上が頼むなら断りませんよ。私は父上の娘なんですから、領地のために動くのは当然です」


父上は少し苦い顔をした。


「本当は巻き込みたくなかったんだが……最近、アムニット市の周辺が不穏でな」


「知ってます」


俺はぼそっと言った。


「皇帝——エイドリアン・フォン・ハーランドが、我が領地の実力増強を不快に思っているんでしょう。だからローブ会を使って妨害工作を——」


言葉の途中で、俺はどん、と強く机を叩いた。


「……あいつらのせいで、ピクニックが台無しになったんですよね」


父上が片眉を上げた。


「ピクニック?」


「大事なことです」


俺は真顔で答えた。


(友達と一緒に野外で飯を食う機会なんて、この異世界でどれだけ貴重だと思ってる。それをあいつらが……!)


「チャンスがあれば、必ずお返しします」


俺は拳を握り締めて宣言した。父上は少しあっけにとられたように見えたが、すぐに苦笑いへ変わった。


用件の後半では、商会が新しい品物を仕入れたこと、明日にでも母上と一緒にアムニット市へ見に行くといいという話もあった。


(まあ、それはそれで楽しそうだけど……今はもっと大事なことがある)


執務室を出た後、俺はユーナを連れて公爵邸の厨房へ向かった。


「調理長さんたち、少しだけお邪魔していいですか。新しい料理を作ります——見学していただけますか?」


料理人たちが顔を見合わせ、すぐに場所を開けてくれた。


(さて、まず道具の問題だ)


適切なサイズの鍋がない。と言っても、ここは魔法の世界だ。


俺は土魔法で周囲の陶土を手のひらに引き寄せ、成形し、ぽんぽんと両手で形を整えていく。厚みのある丸い鍋、蓋も一緒に。最後に火魔法でじっくり焼き固めれば、立派な陶鍋の完成だ。


(砂鍋を作れれば一番よかったけど、前世の俺はただの社畜だ。陶器の製法なんか知らない)


いいか、今あるもので勝負しよう。


ラハル麦を一掴み鍋に入れ、たっぷりの水を注いで火にかける。


次は海鮮の処理だ。


公爵邸の内陸に位置するこの街で海鮮が手に入るのは、手環のおかげだ——収納した瞬間から時間が止まる、この世界随一のずるアイテム。今日も新鮮な海老と貝を引き出してみせた。


生姜を薄切りに、葱を刻んで、厨房にある白ブランデーを少し——下処理した海鮮を別鍋でさっと湯がいて、臭みを飛ばしてすぐ引き上げる。


粥が八分通り炊けたところで、下処理の海鮮を投入。仕上げに塩少々、挽きたての黒胡椒を軽くひと回し。蓋をして、静かに待つ。


——開蓋。


湯気が一気に広がった瞬間、料理人たちが全員で鼻をひくつかせた。


「すごい香りですね……」


「これは、なんという料理ですか?」


思わず前に出てくる人もいる。俺は蓋を鍋の脇に置き、軽く笑って答えた。


「海鮮砂鍋粥です。——ラハル麦と海鮮の旨みが溶け合ってます。ヘイティ先生への差し入れ用なので試食は少しだけですが、せっかくだから感想を聞かせてください」


十数人の料理人が一椀の粥を分け合う光景は、なかなかカオスだった。一人あたりスプーン一、二杯分だったが、全員が黙り込んで目を輝かせている。


(豆板醤か甜麺醤があればもっと跳ね上がるんだけどな……前世の俺に、発酵食品の作り方を知っておけと言い聞かせたい)


粥を少し冷ましてから、使用人に鍋ごと先生の部屋へ運んでもらった。


ヘイティ先生の部屋に粥が届いた。


先生はひと口すすって——そのまま、静かに涙をこぼした。


「……美味しい。体の中から温まるみたいで」


泣きながら食べる先生を見て、なんだか俺も胸がじんとした。


産後で疲れているはずなのに、その顔はとても穏やかだった。


(よかった。喜んでもらえた)


その後の話は、俺が知ったのはひと月後のことだ。


あの日、使用人のひとりが外出した際に海鮮粥のレシピを街の人間に話してしまい、それがあっという間にアムニット市内に広まった。


王女レストランがいち早く再現に動き、あっという間にその日の看板メニューになったという。


さらには周辺領の漁師たちへの需要が一気に増え、エリクソン領の漁村の収入が二倍近くに跳ね上がったとも聞いた。


「最近、ラハル麦のお値段が上がったような気がしてたんですよね……」


アムニット市内を再訪した日、王女レストランで友人たちと食事しながら、俺はぼやいた。


チャーリーは首を傾げる。「え、なんで?」


「海鮮粥のせいですね」


ユーナが静かに補足した。


「海鮮の需要が上がったことで漁師の収入が増え、食材の消費も増えて……結果的にラハル麦の需要も連動して上昇したようです」


「……つまり私が料理したせいで食材が値上がりした、と?」


「お嬢様がおっしゃる通りです」


「なんで私ばかりこういう目に遭うんだ……」


チャーリーとニーナは顔を見合わせてから、声を揃えて笑った。


(まあ……領地の収益が上がったんだから、文句は言えないか)


俺は苦笑いしながら、目の前のスープを口に運んだ。


王女レストランのその日のメニューには、しっかり「海鮮ラハル麦粥」と書かれていた。


値段は一杯銀貨二枚。そして美味しかった。

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