239. 灰色の一行、そしてホテルへの道
私は彼女が具体的に何を見たのかには気づかなかった。
そのとき、ユーナが横で私の袖を引っ張った。
「クローディア」
彼女が小さな声で言った。
「うん?」
「ちょっと来て」
私はユーナについて部屋の反対側へ行った。
佐藤健と彼のパソコンからは、いくらか離れた位置だ。
「どうしたの」
ユーナの表情は微妙だった。赤面とは違う。
何か確信を持てないものを見てしまった、というあの微妙さ。
「佐藤健のパソコンの画面を見て」
彼女は声を潜めて言った。
私は彼女の視線を追ってパソコンの画面を見た。
ヘレナがそこに立ち、真剣な表情で何かを読んでいる。
「どうしたの。ただのノートでしょ」
「最後の一行を見て」
私は目を細め、画面の最下部の灰色の小さな文字を読み取ろうとした。
距離は少しあるが、視力ならだいたい識別できる。
それは。
「このまま設定資料としてまとめてしまいましょうか?」
私は固まった。
もう一度、よく見る。
画面に表示されているのは、たしかに何かのノート文書だった。
キャラクター名があり、能力の説明があり、出来事の時系列があり、舞台設定がある。
大量の体系化された構造化されたテキスト資料。
もし私の推測が正しければ。
これは物語の設定文書だ。
クローディアについての、物語の設定文書。
つまり、私たちがいま身を置いている、この物語の。
設定資料。
「……」
私はあの灰色の小さな一行を見つめ、長く沈黙した。
ユーナは横で私の表情を見ながら、静かに訊いた。
「あれ、どういう意味?」
私はゆっくりと首を振った。
「分からない」
私は言った。
「たぶん……ひどく偶然の、文字の並びよ」
「偶然?」
「佐藤健が何か同人小説の設定ノートを書いているのかもしれない。花の国には、架空のキャラクターの資料を文書に整理するのが好きな人がたくさんいる。だいたい、そういうものよ」
「でも、私たちのことは……架空じゃないわ」
「分かってる」
「なら、どうして彼は……」
「ユーナ」
私は彼女を遮った。声は静かだった。
「いくつかの問題は、今は追及しないほうがいいわ」
ユーナは私を見つめた。唇がかすかに動いた。迷っているかのように。
だが最終的に、彼女は後ろに続く言葉を飲み込み、ただ軽く一度だけ頷いた。
私は振り返り、パソコンの前に立つヘレナを見た。
彼女はまだあの画面を見つめている。表情は相変わらず平静だ。
どんな新しいものを前にしても、驚きも慌ても見せないあの平静。
だが、彼女の読む速度だけは、少しだけ遅くなっていた。
どこかで立ち止まり、何かを注意深く識別しているかのように。
それから彼女は身体を起こし、振り返って私に向き直った。
「クローディア」
「はい」
「この部屋の人は、何を書いているの」
私は彼女の目を見た。
ヘレナの杏の目は澄んで深く、睫毛は蝶の翅のように濃い。
蛍光灯の光の下で、彼女の瞳孔には部屋全体の逆さまの姿が映り込んでいる。
パソコン、ローテーブル、畳、そして向かいに立つ、表面上は誰よりも落ち着いている私。
「母上」
私は言った。
「何をご覧になりましたか」
「いくつかの文字」
彼女は言った。
「私たちのこと。あなたの、ユーナの、そしてその他の人たちの。とても詳しいわ。誰かが、すでに起きたことを記録しているかのよう」
「……」
「それどころか、まだ起きていないことまで書かれている箇所もある」
彼女は一拍おいた。
「まるで何かの……台本のようね」
部屋が静かになった。
佐藤健は横で私たちの会話を聞き、顔色がひどく目に見える形で変わった。
一度白くなり、それから一度赤くなり、それから上がりもせず下がりもせずの気まずい状態で維持されている。
「あの、その、実は説明できまして……」
「説明は不要よ」
ヘレナが遮った。口調は穏やかだが、反論は許さない。
「誰の部屋にどんな文字があるかは、個人の自由です」
彼女は佐藤健から視線を戻し、再び私を見た。
だが、彼女の目つきが変わった。吟味でも、好奇心でもない。もっと深い層の何か。
彼女の顔で、それを目にすることはとても稀だ。
思考。とても真剣で、ひどく深いところで、すべての既知の情報を並べ替えて組み直している、あの思考。
それから彼女はその思考の結果を飲み込み、とても自然な、まるで何もなかったかのような口調で言った。
「いい部屋ね。少し狭いけれど、よく片付いているわ」
佐藤健は固まり、それから慌てふためいて言った。
「あ、ありがとうございます! 実は普段はあまり片付けてなくて、今日は運が良くて!」
「片付けは習慣であって、運ではないわ」
ヘレナが言った。
「保ちなさい」
私はこのすべてを見つめながら、心のなかで静かにため息をついた。
その後のことは、順番に言うと。
まずは宿泊の手配。
佐藤健の六畳の部屋では、明らかに私たち三人を収容できない。
とりわけ、ヘレナの礼服、背中で絶えず金色の暈を反射するあの装飾、そして彼女がこの部屋に立ったときの空間全体を埋め尽くすあの圧迫感を考えれば。
私はヘレナとユーナを連れて、佐藤健のアパートを出た。花の国の街路に立つ。
春の終わりの花の国。
空気には清々しい、かすかな冷たさを帯びた匂いがある。
街路はきれいなアスファルト舗装。
両側は整ったアパートと商店。
ときどき自動車が前を通り過ぎ、タイヤが路面を擦る音はあの低く沈んだサーッという音。
陽射しは異世界とは少し違う。より明るいわけでも、より暗いわけでもない。質感が違う。
異世界の陽射しには、かすかな魔力の散乱の層が一枚乗っているように感じられる。
花の国の陽射しはずっと純粋で、肌に直接当たると温度を感じるが、あの微妙な魔力の共鳴だけではない。
ヘレナは街路に立ち、顔を上げて向かいのアパートを見上げた。
五階建ての鉄筋コンクリートの建物。外壁はクリーム色に塗られ、各階のバルコニーには各家の洗濯物が干してある。
バルコニーには鉢植えが並び、小さな花を咲かせているものもあれば、ただ青々と茂るだけのものもある。
「鉄筋……コンクリート?」
ヘレナが翻訳機から聞こえた単語を口にした。
「どんな材料かしら」
「人工の混合建築材料です」
私は言った。
「砂利、セメント、水を混ぜて凝固させたもの。石より安く、木より頑丈で、しかも任意の形に流し込める。だから花の国の建物は、私たちの世界よりずっと高い」
「任意の形に、流し込めるの?」
彼女の目が再び輝いた。
「はい」
「強度は?」
「普通の石煉瓦より高いですが、魔導強化石材よりは低いです。ですが花の国には魔導強化の必要がありません。魔物の襲撃リスクがないので」
ヘレナは頷き、続けて通りを見渡した。
彼女の表情はずっと、あの冷静な、分析的な観察だ。
観光客の「わあ、きれい、珍しい」ではない。
冒険者の「この建物の構造はどうか、出口はどこか、視野はどうか、潜在的リスクはあるか」。
これが私の母。
どこへ行っても、本能的に職業的な視点を持ち込む女。
「ホテルに行きましょう」
私は言った。
「花の国には宿泊サービスを専門に提供する施設があります。旅館に似ていますが、布団や洗面具を自前で持っていく必要はありません。すべて揃っていて、金を払うだけで泊まれます」
「金を払う」
ヘレナはその言葉を繰り返し、それからうつむいて自分の手を見た。
彼女は今日、収納の腕輪をつけていない。出発前に私が彼女の収納空間と私のものを連結したからだ。彼女に必要なものは、すべて私の側にある。
だが指輪、父がくれた黄金と宝石の詰まったあの収納の指輪、は彼女の指に嵌まっている。
「そのなかのものを使うの?」
彼女が訊いた。
「はい」
私は言った。
「私が前回、花の国に来たとき、彼らの通貨を使いました。花の国の通貨、略して円です。金属の硬貨も紙幣もあります。帰るときに使い切らず、残りをずっと収納の腕輪に置いてありました。今回はそのままホテルと日常出費に充てられます。父から預かった黄金と宝石は急いで手を付けずに済みます。貴金属は明日、どこかで両替すればいい。花の国には専門の貴金属両替所があるはずです」
ヘレナはそれ以上何も言わず、ただ軽く「うん」と声を漏らし、私とユーナと一緒に通りの方へと歩き出した。
佐藤健が追いかけてきた。
手には携帯電話と花の国の携帯通信機器を持ち、歩きながらうつむいて画面を押している。
「ホテルを探します! こっちの一番近いビジネスホテル、歩いて十分、評価4.2、価格は手頃で、ツインルームが一泊だいたい八千から一万円……」
彼の提示する価格を聞きながら、私は心のなかでそっと換算した。
八千から一万円。
前回、花の国で残したお金で、しばらくは十分に持ち堪えられるはず。
「佐藤、ホテルは身分証明書の提示がいる?」
私が訊いた。
「要りますよ。パスポートか免許証があれば」
彼は顔も上げずに言った。
私は立ち止まった。




