236. 粉砕のフィギュア、そして初めての異世界
公爵邸の地下密室は、公爵邸の主建築の地下、二層ほどの位置にある。
密室とはいっても、実のところは専門の改造を施した地下室に近い。
空間はさほど広くなく、だいたい一般教室ひとつぶん。
床には精密な魔力伝導の配列が敷かれ、中心点を円心として外側へ向けて数十筋の複雑な魔力の文様が放射状に広がっている。
これらの文様の素材は、普通のインクや顔料ではない。
粉砕した魔晶鉱の粉末に特殊な魔力の粘結剤を混ぜて描かれたもので、かすかな光の下では、幽かに青白い蛍光を帯びている。
密室の照明は、四方の壁に取り付けられた魔導火灯。
光属性魔力の充填を必要とする、あの種のもの、が担っている。
私はここに来る前に、あらかじめ微弱な光魔力で全部を充填しておいた。
今、室内は明るく、魔導火灯の光は安定して柔らかく、空間全体を死角なく照らし出している。
ヘレナは密室の中央、魔力配列の傍らに立っていた。
ユーナの言った通り、彼女はあの濃い青の最高格式の礼服を身につけている。
銀の刺繍が裾に沿って這い上がり、胸元の位置でエリクソン家の盾の紋章を形作っている。
縦長の盾、そのなかに銀の樫の枝と星が嵌められている。
背後の金色の丸い光面が灯りのなかで柔らかな金色の暈を反射し、全体がまるで古い油彩画のなかから歩み出てきたようだった。
金色の長髪は今日、一本の銀の簪で後ろに留められ、すらりと伸びた首筋と、あの特徴的な優しい杏の目が露わになっている。
立ち姿はまっすぐ、両手は自然に体側へ垂らしている。
これは冒険者時代の戦闘立ちの姿勢の名残だ。
礼服を着ているときですら、完全には消えていない。
私が密室に入ると、彼女はちょうど指先で壁の魔力の文様をそっと撫でているところだった。表情は真剣で、好奇心に満ちている。
「母上」
「うん」
彼女が振り返った。顔には彼女特有の、優しさと吟味のあいだの微笑みが浮かんでいる。
「来たわね。荷物は揃ってる?」
「揃ってます」
私は言った。
「でも母上」
「着替えを勧めるなら、やめて」
彼女が遮った。口調は穏やかだが、そのなかに一切の妥協を許さないものが滲んでいる。
「もう決めたから」
「……分かりました」
正直なところ、別の角度から見れば。
身長百七十センチ、金色の長髪、華やかな礼服を纏い、背中に金色の暈を自ら帯びた精霊族の貴族女性が、まもなく花の国のどこかのアパートに出現する。
その絵面は、たしかに壮観だ。
だが壮観であることと、私の考えていることは別問題だ。
つまり、格式があるかどうか、ではなく、誰かの狭い六畳間にこの格式が収まるかどうか、ということ。
この件は後で。今はもっと逼迫したことがある。
私は収納の腕輪から、ひとつのものを取り出した。
豌豆粒ほどの大きさの、淡い青の珠。表面は滑らかで、灯りの下でかすかな蛍光を帯びている。
「これは?」
ヘレナが首をわずかに傾げた。
「翻訳用です」
私は言った。
「耳に入れる魔導器。原理はとても簡単で、極小の魔力共振器です。周囲の音声を魔力化し、あらかじめ記録された言語データベースを通じて翻訳したうえで、あなたにお返しする。聞こえる声には少し反響が混じりますが、基本的には相手の言語を正確に復元します」
「魔力共振?」
ヘレナはその珠を受け取り、指先でくるりと回した。
「あなたが作ったの?」
「いいえ。この世界の魔導器の原理をもとに、花の国の電子翻訳機器の設計思想を組み合わせて改良したものです」
私は言った。
「純粋な魔力駆動の翻訳機で、外部からのエネルギー供給は不要。魔力消費は極めて低く。母上の体内に蓄えられた魔力で、連続して数ヶ月は稼働します」
「いつ作ったの」
「昨年です」
ヘレナが私を一瞥した。その視線の内容は、この十三年のあいだに私がすっかり慣れ親しんだものだ。翻訳するなら「また隠れてこそこそやってたのね」。
「初めてのご訪問なら、必要かと思いまして」
私は慌てて補足した。
「花の国の言語体系はここからはまったく異なります。発音の仕方から文法構造まで。特に彼らの文字は表音文字体系で、ここの文字のように表意文字ではなくて……」
「あなた、小教室でユーナにこれを教えてたわね」
ヘレナは珠を耳の横に当ててみせた。
「傍聴してたから」
「なら、なぜ必要かはお分かりですね」
「ええ」
彼女はその豌豆粒大の珠を右耳の耳孔の入り口に貼りつけた。
珠は耳介の皮膚の上でかすかに一度震え、それから静かになった。
「どんな感じ?」
私が訊いた。
「少し……ぶん、というか」
彼女は首を傾げた。何かに慣れようとしているときの仕草だ。
「耳のなかに、とてもかすかな風の音がするような。それから、消えたわ」
「それが通常の作動状態です」
私は言った。
「ぶんというのは魔力共振の初期調整段階で、だいたい三秒から五秒続きます。今はもう待機モードです。向こうに着いて、花の国の言語に触れた時点で自動的に翻訳機能が起動します」
「私が話すときも、翻訳してくれるの」
「はい。双方向翻訳です」
私は言った。
「あなたが話す一言一言が、すべて同期して花の国の言語へと変換されて出力されます。ただし声調にはわずかな違いが出るかもしれません。魔力共振器の声紋模擬とあなたの原音は完全には一致しませんが、差異はごくわずかで、相手が気づくことはまずありません」
ヘレナは頷いた。表情は真剣だ。
彼女はどんな新しいものに対しても、こういう態度を取る。
まず原理を理解し、信頼性を評価し、最後に受け入れて使う。
ユーナに翻訳の魔導器は必要ない。
彼女が前世の記憶を取り戻したあと、エイの二十数年の言葉と経験はすでに頭のなかに安らかに住み着いている。
聞く、話す、読む、書くのすべてに通じ、この前世の記憶の断片をかき集めてやりくりしている私より、ずっと本場だ。
「もうひとつ、問題があるわ」
彼女は手を上げ、耳のなかの見えない珠を指さした。
「これは、防水かしら」
「……はい」
「ならいいわ」
彼女は言った。口調はとても淡々としていて、まるでごく日常的なことを確認しただけのように。
だが彼女のそれまでの冒険者人生では、たしかに様々な極限環境での活動が頻繁に必要だった。
「ただ、確認したかっただけ。向こうで万一、何かあったときのために」
「花の国で水中の危険はありません」
「さあ、どうかしらね」
彼女がそう言ったとき、口元がかすかに上がった。
私は立ち上がり、深く息を吸って、最後の手順に入った。
魔力の注入。
光属性の魔力が、体内から掌を伝って床の配列へと流れ込んでいく。
文様は魔力の灌注を受けてどんどん輝きを増し、青白さが徐々に純白へと変わり、密室全体が真昼の陽射しを直に受けた部屋のように照らし出された。
配列の中心の位置に、かすかな空間の歪みが現れ始める。
肉眼ではあまり見分けがつかない。
だがその位置をじっと見つめれば、そこの空気が軽く震えているかのように感じられる。
それから、歪みの中心に光が現れた。
光属性魔法の白い光ではない。空間魔法特有の、透明で、だが刺すようで、水面に反射した陽射しのようなあの光。
転送門が形をなした。
「行きましょう」
私が言った。
転送の感覚は、もし言葉で無理に表すなら。
巨大な洗濯機のなかに放り込まれ、コンマ三秒ほど攪拌され、それから引き揚げられるような。
無重力感はたしかにあった。だが長くは続かなかった。
転送の全過程はせいぜい二、三秒だが、私ははっきりと感じ取った。
身体が一度、無から有への移行を経験したことを。
前半はとても不思議な浮遊感。何か見えない力に支えられ、包まれ、ある種の媒質のなかを進んでいくような。
後半は急激な落下感。あの力に突然解き放たれ、自由落下。
それから。
ドカン、と。
底に着いた。
正確に言えば、私の足がひとつの硬いものの上に着いた。
だがその硬いものは砕けた。
なぜなら、その硬いものの耐荷重は、明らかに大人一人の体重に転送で生じた運動エネルギーを載せるには足りなかったからだ。
もっと正確に言えば。
私はひとつのものを踏み砕いた。
転送の輝きから視覚が回復したとき、私が最初に目にした光景は。
高さ三十センチほどの、精巧なつくりで色彩の鮮やかな樹脂素材の人形が、ひどく惨めな形で私の足元に砕け散っているところだった。




