235. 礼服の母、そして異世界への扉
「 もう ひとつある」
父が言った。
「戻ってきたあと、エドアルドのもとで学び始めてもらう」
「エドアルド?」
私はわずかに固まった。
「彼は……公爵邸に?」
「先週、着いた」
父が言った。
「馬車を手配して送ったのは、お前だろう。忘れたのか」
「……忘れてません。ただ、こんなに早く身を落ち着けたとは思わなかっただけです」
「あの迷宮のなかに半月もいて、何もなかったからな。帰ってきて一番やりたかったことは、まともなベッドで眠ることと、フィオナとじっくり話をすることだったらしい」
父の口調には、なんとも言い表しがたいものが滲んでいた。
「フィオナが彼を連れて公爵邸で数日過ごした。それから彼は、ここに留まった」
私は心のなかでこの話の筋を素早く整理した。
エドアルド・ペスは精霊族の学者で、古代魔法に通じ、ヘイティとは師弟関係にあり、フィオナとも旧知の仲。
流浪迷宮のなかで半月を耐え抜き、出てきたときには魔力を使い果たして回復が必要だったが、精神状態は悪くなかった。彼は今、公爵邸にいて。
「彼が自ら、私に教えたいと言い出したんですか」
私は訊いた。
「彼が自ら言い出した」
父が言った。
「彼はグリンマンランク帝国の剣が動いたときの魔力の波動を見たと言っていた。お前の全属性適性も見た。古代魔法への理解を踏まえて、お前に教えられることがいくつかあると。とくに広域大魔法、超高消費の大規模魔法の類だ」
私は、流浪迷宮で彼が放ったあの大禁呪の光景を思い出した。
区域全体の水分を蒸発させ、泥地を焼き尽くしたあの古代魔法。あの次元の魔法の行使は、ただ魔力が多ければ足りるというものではない。まったく異なる魔力構築の論理を必要とする。
「分かりました」
私は言った。
「花の国から戻ったら、彼のもとへ行きます」
父は頷き、茶碗を手に取って一口啜った。それから極めて淡々としているが、決して聞き流せない口調で、最後に一言。
「今回の旅では、やたらに買い物をするな。役に立つものだけ持ち帰れ。役に立たないものは積むな。お前が前回持ち帰ったあの積み木の山は、母が化粧台の横に飾り物として置いてある」
「……あれはレゴです。れっきとした玩具です」
「とにかく、用途不明の四角いものをあまり持ち帰るな」
私は笑いを堪え、頷き、椅子から立ち上がった。
出発の前日、私とユーナは部屋で荷物の整理をひと通り済ませた。
「今回は、あなただけでなく、奥様も連れて行くのね」
ユーナが畳んだ上着を収納の腕輪にしまい込みながら、顔も上げずに言った。
「奥様、初めてだけど、何に気をつけたらいいかしら」
「おそらく、通りで斧を取り出さないこと」
ユーナは一瞬固まり、それからとても真面目に言った。
「後で、お伝えしておくわ」
「本気にしたの」
「奥様は本気にします」
それは。たしかに、もっともな懸念だ。
母ヘレナは気品もあれば振る舞いも優雅だが、その本質は冒険者だ。
突発事態に遭遇したときの第一反応は思考ではなく、武器の取り出し。
現代人だらけで、魔法は存在せず、彼女にはまるで理解できない騒々しい交通機関が溢れかえる都市に彼女を放り込む。
あの世界で、母に簡単な文明適応の講習を開く必要があるかもしれない。
「まずは花の国に連れて行くわ」
私は言った。
「あそこなら比較的見つかりにくい。それに、十分な人脈もあるから、何とか便利な証書類も手に入る。母の適応力が私の予想を上回れば……」
「奥様の学習能力なら、大丈夫です」
ユーナが言った。
「昔、戦艦の建造を覚えるのに、どれだけかかりましたっけ」
「三ヶ月」
「じゃあ地下鉄と携帯電話に慣れるのに、一週間もかからないでしょうね」
少し考えてみたが、ユーナの言う通りだった。
母はたしかに、新しいものに大量の時間をかけて適応しなければならない人ではない。彼女の核心的な論理は、このものの原理は何か。最も効率的な使い方は何か。
この二つの問題さえ片づければ、いかなる道具も彼女の手にかかれば、極限まで使いこなされる。
唯一の変数。花の国の通りには、目がくらむほど多くの目新しいものたちが溢れている。そして母の好奇心。
ユーナはしばらく黙り込み、最後の荷物を収納の腕輪に入れ、腕輪の蓋の留め金を閉じて身体をまっすぐに立てると、窓の外の春の午後の陽射しを見つめた。
「何にせよ、奥様に、あなたが昔住んでいた場所を見てもらえるのは、いいことですよね」
私はすぐには答えず、ただベッドの端に腰掛け、窓の外を眺めた。
アムニットの街には、春の特別な色がある。雨に洗われた石畳の路面が濃い色に変わる。
道端に新しく伸びた雑草が石の隙間を薄緑に埋め、遠くの学院の鐘楼の尖塔の上では、一群の鳥が旋回していて、翼が陽射しのなかで光を弾いている。
前世、私は現代都市で三十年を生きた。その都市の姿は、記憶のなかで明瞭だ。
だがいつの頃からか、その明瞭さのうえに、薄く一枚の窓ガラスを隔てたような距離感が生まれていた。
忘れたわけではない。ただ、遠くなっただけ。
そして目の前のこの街。この石畳の道。この数人。
「いいことよ」
私は言った。
「見に行かせてあげよう」
ユーナは多くを語らず、ただ軽く「うん」と声を漏らし、収納の腕輪を手首に巻き直した。
明日、出発する。
出発の日の朝、空模様は現実感を疑いたくなるほどに良かった。
春の終わりの公爵邸の庭では、桃の花がまだ散りきっていない。
枝先に残った数輪の淡い桃色の花弁が、朝風のなかで揺れている。
陽射しが東の城壁の上から差し込み、中庭の地面の石畳をほんのりと温め、空気には土と青草の混ざり合った気配が漂っている。
雨のあとにしかない、清々しい匂いだ。
私は廊下に立っていた。
「準備、できた?」
ユーナが廊下の向こうから歩いてきた。今日は薄い青の外出着。
女中服ではない。花の国で買い揃え、公爵邸の仕立屋が手を加えた普段着で、見た目はごく普通の隣の家の少女だ。桃色の髪にさえ注意を向けなければ。
「だいたいね」
私は麻の布袋の紐をしっかりと結び目を作って縛った。
「母は?」
「奥様はもう、密室で待っています」
ユーナは一拍おいた。
「今日の奥様は、最高格式の礼服です」
「……最高格式の礼服?」
「あの、濃い青で、銀の刺繍の入った」
私は目を閉じた。
あの礼服はヘレナが公爵邸クラスの晩餐会に出席するときに着るもので、帝国伯爵世家長女としての最高格式社交装束に分類される。
胸元にはエリクソン家の盾の紋章が留められ、背中には一面の金色の丸い光面。
何でも、貴族としての身分を表す象徴的な装飾のひとつで、光を受けると金色の円い暈を反射するのだそうだ。
私は母に普段着でいいと言った。
はっきりと「動きやすい服で十分よ。改まった場の装いは必要ないから」と言った。
そして彼女は礼服を着た。
「あとで私が話すわ」
私が言った。
「止められません」
ユーナの口調はとても静かだった。
「もう試しました」
「いつ試したの」
「今朝、奥様が部屋を出てきたときです。奥様、もっと動きやすい服に着替えられてはいかがでしょう、と言ったら、奥様は、これは改まった場だ、と」
「別の世界に行くのが、外交訪問とは……」
「奥様の原句は」
ユーナが咳払いをして、優雅で落ち着いていながら、一切の反論を許さない声音を真似た。
「未知の文明の地に初めて足を踏み入れにあたり、私はエリクソン公爵家とクリスト伯爵家の二重の面目を背負っている。普段着で臨むのは、相手への不敬だ」
三秒、沈黙が続いた。
「……一理あるわね」
私は最終的に、それを認めた。




