232. 帰路の車輪、そして置き土産の正義
あの男が結局、酒場で愉しむことはできなかった。
この話の全貌を私が知ったのは、完全に後日のことだ。
一部はユーナから、一部はチャーリーが帰りの馬車のなかで唾を飛ばしながら再現した復唱から、そしてもう一部は、翌日温泉町を発つときにあの酒場の前で起きた出来事そのものからだ。
まず正面対決の部分から。
あの脂ぎった男は私に公爵領の法律で押し返されたあと、表面上は引き下がり、白々しく目尻を拭いながら「悲しいなあ」などと言った。
だが本当は、最初から諦める気などなかった。
この判断は私の直感ではない。
ユーナのものだ。
私たちが背を向けて走り去ったあと、彼女は一度だけ振り返った。
男の顔に貼りついていたわざとらしい悔しさが、瞬間に消え去るのをはっきりと見た。
代わりに現れたのは、ひどく下品で貪欲な表情で、私たち四人の背中をじっと見つめていた。
「料理の皿でも見てるみたいだったわ」
ユーナは非常に正確な比喩を使った。
それから男は酒場に戻り、麦酒を一杯注文した。
酒場に居合わせた他の客の後の話によると、やがて声高に愚痴り始めたという。
「くそったれのエリクソン公爵め。ここの品物はたしかに安くていいが、なにしろ締め付けがきつすぎる。ああいう男女の営みの場所すらなくてよ、通りにもああいう連中が一人もいやしねえ」
そんなことを言った。酒場中に聞こえるほどの声で。
それから酒をあおりながら、ぶつぶつと呟き続けた。
「さっきの小娘、妙に抜け目がなかったな。もうちょっと間抜けなら、まんまと引っかかったかもしれねえのに。そしたら今夜は楽しめたものを」
そのときだった。
「筋骨隆々の男が四人、異変に気づきました!」
チャーリーは馬車のなかで、物語の語り部のような口調と大げさな身振りで復唱した。
「彼らは立ち上がり、手に持った酒杯を手に取り、ゆっくりとあの中年男に近づいていきました!」
「あんた、なんでそんなに興奮してるの」
ニーナが隣で小声で言った。
「だってここから先が、すごくスカッとするんだもの!」
現場の目撃者の証言によれば。温泉町のような場所では、どんな人間もいれば、どんな出来事も目にしてきた。
「子どもに手を出そうとする」ことは、たいていの商人隊や無頼漢の掟では、最も下劣な行為に分類される。
四人の男は中年男の背後に立つよりも先に、まず手際よく彼の下っ端二人を片づけた。
下っ端二人は殴り倒され、便所に放り込まれた。
具体的な過程を見た者はいない。あるいは、見ようとした者がいなかった。
人々が我に返ったとき、その二人はすでに席を外しており、便所へ続く廊下からは、かすかな呻き声が聞こえてきていた。
中年男は、何も知らない。
なおも今夜、本来なら起こり得たはずの「愉しい物語」を高らかに語り続けている。
声はどんどん調子づき、内容はどんどん胸糞が悪くなる一方で、しまいには周囲の客たちも黙って彼の席から距離を取り始めた。
そのおかげで、四人が彼の周りに立つための十分すぎる隙間が生まれた。
準備万端整ったところで、大きな手のひらがひとつ、彼の肩に置かれた。
「小僧、お兄さんたちと一緒に一杯どうだい。お兄さんたち、君のこと気に入っちゃったんだよ」
太く逞しい男の声が背後から響いた。
中年男が振り返る。
筋骨隆々の漢が四人、満面の笑みで、はるか頭上から彼を見下ろしている。
「な、なにをするつもりだ」
「君が子供たちにしようとしたことと、同じことをしようと思ってね」
「断ってもいいか」
「いいや、断れないね!」
声が落ちると、一発の重い打撃が彼の頭に叩き込まれた。
中年男は一瞬で昏倒した。
それから酒場のなかで、目撃者によれば割れんばかりの拍手が沸き起こった。
皮肉でも、囃し立てでもない。心の底からの、まるで英雄を見送るかのようなあの拍手。
四人の漢は昏倒した中年男を肩に担ぎ上げ、喝采のなかを酒場から出ていった。
向かう先は宿屋ではない。すぐ横の、人気のない路地だ。
路地で何があったかは……。
私はあとでユーナに聞いた。
ユーナは、走り去ったあともうっかり二度目の後ろを振り返ったという。
四人の漢が男を担いで路地の奥へ消えていく背中と、そのうちの一人が振り返って酒場のほうへ親指を立てたのを、見たそうだ。
「それでおしまい」
ユーナは言った。
「私達、そのまま走り続けたから」
翌朝、誰かがその男を発見した。
路地の隅で、ひどく見苦しい姿勢のまま、酒場の外壁の根元に抱きついて、ぼんやりと座っていた。
頭のてっぺんには無視できない大きさの瘤。
身体には目立つ外傷はないが、全身から漂う雰囲気は。
何かに、あるいは誰かに、世界観を根本から叩き直された人間のそれだった。
そのあと彼が何を言い、何をし、温泉町から大人しく元来た場所へと転がるように去っていったかどうかは、もはや私の情報範囲ではない。
この一連の出来事が私に残した最も強い印象は、実のところ、馬車のなかでのチャーリーの総括だった。
彼女が生き生きと物語の全容を復唱し終えると、ニーナはすでに顔を本の後ろに埋めていた。
耳の先は、まるで火でも灯ったかのように真っ赤だ。
ユーナは横で蜜のナッツの袋を抱え、食べながら聞き、顔にはたいそう満足げな表情を浮かべている。
それからチャーリーは、これまでにない正義感をみなぎらせた声で宣言した。
「というわけで、お友達のみんな。この物語が教えてくれる教訓は、温泉町は何もかも素敵な場所だけど、変なおじさんに遭ったら絶対に逃げること。逃げたら、四人のマッチョなお兄さんが代わりに片をつけてくれるから!」
車内に三秒の沈黙。
「……あんた、今後そういう変な読み物をちょっと控えたら」
私が言った。
「これ、私がこの目で見たんだからね! まあ、この耳で聞いただけだけど! まあ、ユーナからの中古検証だけど!」
この小さな出来事は、そうやって記憶のさして目立たない隅っこに留まることになった。
やがてさらに多くの出来事に何層も覆われたその隅っこには、温泉町での最後の夜の、すべてのぼんやりしていて、それでもあたたかなかけらたちが仕舞われている。
それから、私たちはアムニットへと帰った。
帰りの馬車は、行きよりも揺れた。
道をやや急いだからかもしれないし、秋の終わりの道が秋の始まりの頃よりぬかるんでいたからかもしれない。
私は車内の壁にもたれかかり、車輪がひとつひとつ穴ぼこを踏み越えるたびの小さな揺れを感じながら、窓の外の山路がゆっくりと後退していくのを見つめていた。
温泉町の輪郭が、丘陵の曲がり角の向こうに消えた。
車内では、ニーナが本を抱えて読んでいる。
彼女の読書の仕方は一貫して真面目で、ページを繰る速度はゆっくり。
どのページにも、細い鉛筆で書き込まれた彼女の注釈が見られる。
向かいの席のチャーリーはまったく正反対で、窓辺に頭を預けて眠っている。
口はほんの少し開き、呼吸は安定している。
ユーナは私の隣に座り、ナッツの袋はとっくに底をつき、いまは空の袋を握りしめて窓の外をぼんやりと見つめていた。
「何、考えてるの」
私は小声で訊いた。
「温泉」
彼女は言った。
「どの温泉」
「ぜんぶ」
彼女は少し考えて、付け加えた。
「とくに最後に入ったあの温泉。楕円形の石造りの浴槽で、山茶花の抽出液が入ってて、色がほんの少しだけ白っぽかった」
私は横目で彼女を見た。
「よく覚えてるね」
「いいものは、特によく覚えてるの」
彼女は首を傾げて、私を見た。
「とくに、あなたが一緒に入ってきたときは」
「……あれはあんたが無理やり引っ張り込んだんだ」
「でも、入ってきたじゃない」
私は答えなかった。
車輪がまた一か所の穴ぼこを越えた。車内がかすかに揺れた。
チャーリーが夢のなかで「うー」と声を漏らし、反対側へずり落ちかけた。目は覚めていない。
ニーナは指一本で、滑りかけたチャーリーの肩をそっと支えた。
目は本のページから離れていない。
前世で、長距離バスにはずいぶん乗った。夜明け前から日が暮れるまで走る、あの長距離便。
前後左右はみな他人で、窓の外は真っ暗な高速道路、反射式の道路標識がたまにちらりと過ぎるだけ。
あの感覚は孤独だった。でも、なんとも言えない静けさもあった。
いまのこの馬車とあのバスには、共通するところなど何もない。
速度も違えば、揺れ方も違い、匂いも違う。
だが、どこかへと帰っていくというあの感覚だけは同じだった。




