229. 水煮じゃがいも、そして厨房の再訪
流浪迷宮を離れたあと、私は温泉町の管理担当者を捕まえて、エドアルド教授を公爵邸へ送るための馬車を一台手配した。
時刻は実習最終日。今日の授業は料理だった。
もちろん、冊子を見て初めて知ったことだが。
温泉町の社会実習はよく階層化されている。一日目の農業区は労働体験、二〜三日目の商業区実習は経済の論理を学ぶこと。
温泉区の実習はサービス業の流れ、そして最終日。一人ひとりに、自分の手で自分だけの料理を一品作らせる。
私は冊子を最終ページまで捲り、その小さな文字の並びを数秒間見つめた。
心のなかで最初に浮かんだのは期待ではなく、苦笑いだった。
なぜなら、この料理教室の場所はユーアホテルのサービスセンターの食堂。
そして数日前、私はそこで厨房に踏み込み、半数近い料理人を解雇したばかりだった。
食材を無駄にしたのはあの料理人たちが先だが、とはいえ犯行現場に再び足を踏み入れる感覚は、なかなか微妙なものがある。
ましてや、私が自ら料理人を入れ替えた翌日に、厨房で料理を学ぶとは。
この絵面は……。
「どうしたの」
ユーナが横から冊子を覗き込んだ。
「料理教室。いいじゃない」
「いいと思う?」
「うん。じゃがいものおいしい作り方、覚えたいわ」
彼女は真面目くさった顔で言った。
「昨日の晩に食べたじゃがいもの煮込みがすごくおいしかったんだけど、作り方が分からないの」
「……相変わらず、食い気に関しては筋金入りだね」
「それ、長所だから」
私はため息をつき、冊子を閉じた。
ここまで来たら、とにかく外に出て集合し、一歩ずつ進むしかない。
集合場所は、別荘群の外れの小さな広場。
今日の集合速度は妙に速かった。普段はぐずぐずして二、三分の遅刻が当たり前なのに、今日に限ってほとんど全員が時間前に揃っている。
しかも皆、普段より元気そうだった。顔を寄せ合って、何を作るつもり?と訊き合う声がひっきりなしに響いている。
理由は、だいたい察しがついた。
ここ数日、ホテルに泊まっているあいだ、ホテルの食堂は毎日新しい料理を出していた。厨房が総入れ替えになったあとも、新メニューは量が十分なだけでなく、味も以前よりずっと豊かになった。
何度か食べているうちに、十二、三歳の子どもたちの心のなかには、とっくに自分も作ってみたいという気持ちが芽生えていたのだろう。
料理教室が最終日に組まれているのも、悪くない締めくくりだ。
フィオナ先生は今日、無駄口を一切叩かなかった。全員を点呼し終えると、そのまま隊列を率いて、山下のホテルのサービスセンターへと歩き出した。
距離が近いから、馬車を呼ばなかったのだろう。
この判断は、理屈の上ではまったく合理的だ。
だが理屈と実際のあいだには、ときに深い溝があることも事実だ。
この十二、三歳の子どもたちは、普段から馬車のなかにじっと座っていることすらできない連中だ。
車内で押し合いへし合いし、窓越しに叫び合い、ヘイティ先生とフィオナ先生はほぼ毎回、道中で秩序の維持に奔走していた。
そんな彼らを今日、自分の足で歩かせる。花があり草があり、小さな虫や奇妙な茸まで生えている、こんな山あいの小道を。
結果、フィオナ先生は道中、少なくとも七人の道端の珍しいものを覗きに行った生徒を襟首を掴んで隊列に戻した。
ヘイティ先生は今日、別の班を連れて温泉の水質調査に行っている。こちらの引率はフィオナ先生一人だけだ。
私は歩きながら心のなかで密かに計算していた。フィオナ先生は学院教師から、小学校の体育教諭の職務へと華麗にクラスチェンジを遂げた。
彼女の表情は始終よく保たれていたが、サービスセンターの玄関に着いたときには、呼吸の頻度が無意識のうちに少し速まり、両頬にも淡く赤みが差していた。
「フィオナ先生、お疲れさま」
ユーナが隣を歩きながら、小声で言った。
「……同情はいらないわ」
私が言った。
「あの人が必要なのは、この子たちが十歳年を取ることよ」
「あんたに制御できることじゃないわ」
「だから『ままならない』って言ってるの」
サービスセンターの玄関に着くか着かないかというところで、中から正面の扉が内側から押し開かれた。
ぴしっとした黒い礼服を纏った中年男性が、早足で迎えに出てきた。
歩調は速く、ほとんど小走りのまま玄関まで来ると、私たちの三歩手前で立ち止まり、標準的すぎるほど標準的な、営業用の作り笑顔を浮かべた。
高級ホテルで幾度も見てきて、すっかり身体に染みついた、一片の真情も含まれていないが不快にも感じさせない、あの笑顔だ。
「ようこそ、皆様。ユーアホテルのサービスセンターへ……」
挨拶が始まった。
おそらく「本日はご来訪いただき光栄です。皆様にはこの数日、当ホテルのお料理を」といった社交辞令の類だ。
私は半分だけ注意を彼の話に向け、もう半分でこっそりと彼の表情を観察していた。
彼の視線が人混みのなかを一通り走査し、それから私とユーナの上でぴたりと止まった。
一瞬、顔色が変わった。
嬉しいのでも、怒りでもない。「ああ、彼女も来ていたのか」という動揺。
一瞬にも満たないうちに、彼はその表情の層を押し殺し、再び営業用の笑顔に切り替え、話を続けた。
私は心のなかで、彼に拍手を送った。
客の前でここまで感情を管理できるとは、本当に飯の種のために命を懸けている証拠だ。
エプロンに着替え、厨房へ入った。
厨房は広かった。想像以上に広く、おそらく複数班が同時に作業できる規格で設計されているのだろう。
調理器具は一通り揃い、食材区は野菜、肉、調味料に分けられて整然と並び、清潔に整えられていた。
数名の料理人が、それぞれの持ち場の横に控えて待っている。彼らの表情は、今日は補助教員として来ているのであって、腕前を披露しに来たわけではないという、抑制の利いた態度だった。
ルールはフィオナ先生が集合時に明言していた。食材の選択、切り方の大小、火加減の長短、調味料の配合。すべて私たち自身で決める。
危険な手順、包丁を使う、火元を扱うことだけは、横にいる料理人が補助として実行する。
このルールの核心は、号令を発するのは私達、手を動かすのは彼ら、ということ。
最終的にこの料理が旨いか不味いか、責任は私たちにある。
前世ではそれなりに料理をしてきたから、この論理は私にとってさほど馴染みのないものではなかった。
食材を選び始めていいという号令が落ちるや否や、子どもたちはスタートの合図を聞いたかのように野菜棚へと殺到した。
根菜、葉物、様々な色。キャベツを予想以上の大きさで抱え込んで、どこから手をつければいいのかまったく分からないという顔の子も何人かいた。
私は殺到しなかった。
私とユーナ、ニーナ、チャーリーの四人は、ゆっくりと棚の一番端の区域へと歩いていった。じゃがいもとトウモロコシが並ぶ棚だ。
棚はあまり賑わっていなかった。
大半の子どもが最初に目を留めるのは、色鮮やかな野菜だ。じゃがいものような見かけの派手さがほとんどない丸い球に興味を示す者は少ない。
だが私には、じゃがいもに思い入れがある。
そういえば、このじゃがいもは数ヶ月前、私が自ら花の国から持ち帰った種を、公爵領で試験栽培に成功させ、それから温泉町の農業区に移植したものだ。
いま棚に並ぶこれらは、すべて農業区の木属性魔法使いが促成したもの。
種の導入から棚に並ぶまで、私は全工程を見届けたことになる。
ひとつ手に取って、軽く量る。
十分な重みがあり、表皮は引き締まり、柔らかくなっている兆候はない。品質管理は悪くない。
じゃがいもを横の小さな籠に入れ、ついでにトウモロコシも二本入れた。淡い黄色で、粒がよく詰まったものだ。
ユーナは隣で、トウモロコシを一本じっくり観察し、戻して、少し大きいものに替えた。
チャーリーとニーナは棚の横に身を寄せ合い、二人でひとつのじゃがいもをしばらく研究したあげく、結局それぞれがひとつずつ手に取った。
ニーナはじゃがいもを手のひらに載せて裏返し、裏返してはまた元に戻し、まるで健康診断でもしているかのようだった。
チャーリーは指で直接じゃがいもの表面をつつき、何やら首をひねりながら、おそらく硬さを評価しているのだろう。
「チャーリー、じゃがいもの作り方、分かる?」
ユーナが訊いた。
「……茹でるんじゃない?」
「どうやって茹でるの」
「水に入れて……火を通せば?」
「それから?」
「……それから……茹で上がる?」
チャーリーが小首を傾げた。
「それだけ?」
「それだけ」
「そんな簡単なものでいいの」
「簡単なものこそ、ちゃんと作ればおいしいんだよ」
チャーリーは考え込むように、手のなかのじゃがいもを見つめ直し、それからゆっくりと頷いた。どうやら納得したらしい。




