226. 消耗の戦場、そして迫り来る刻限
一面の厚い土の壁が泥沼のなかから立ち昇った。完全に土で作られたものではない。
泥層の下の硬質な岩盤の上に構築されたものだから、通常の土壁よりはるかに頑丈だった。
ユーナの火網も絶え間なく維持されている。彼女はもはや泥沼全体を焼き尽くそうとはしていなかった。
ヴォルソーンの頭部付近に集中して高温区域を作り出し、やつの視界と感知を制限しているのだ。
「エドアルド先生のほうは……!」
私は振り返り、北東方向の岩の高地を確認した。
銀髪の精霊はすでに岩の上に胡座をかいて座り、両手を胸の前で合わせ、唇をかすかに動かしていた。
淡い緑の魔力の光が、彼の身体の表面からゆっくりと立ち昇り始めていた。詠唱がすでに始まっている証拠だった。
よし、順調だ。
だが地淵巨蛇も、その異変に気づいた。
あの灰緑色の瞳のなかで、ある変化が起きるのを私は目撃した。
「無関心」から「警戒」への激変だ。
やつはエドアルド先生の魔力の波動を感知したのだ。
誰かが何かを成し遂げようとしていることを察知した。
それが具体的に何かを知らずとも、この雨林にどれほど長く棲みついてきたかも分からぬ最上位の捕食者として、その野生の直感が告げているのだ。
岩の上に座って魔力を放つ、あの銀髪の精霊は危険だと。
地淵巨蛇が動いた。
とぐろを巻いていた巨体が解け始める。
五十メートルの巨躯が一本の黒い河のように、沼のなかを展開していく。
黒岩の鱗甲が泥水のなかで擦れ合い、重く低い地鳴りのような音を立てた。
やつは私達には向かわなかった。
東、エドアルド先生の方角へと移動を開始したのだ。
「迂回するつもりです!」
私は叫んだ。
鉄甲聖騎兵が方向転換する。私は鉄肩の上から指令を発し、十騎すべてをヴォルソーンの側面めがけて突撃させた。
目的は傷を与えることではない。やつとエドアルド先生のあいだに割り込むことだ。
第一騎が地淵巨蛇の進行路上に突っ込んだ。
鉄肩の前蹄が、地淵巨蛇の胴の一節に勢いよく叩きつけられる。
ガンという硬質な金属音が沼中に響き渡った。
鉄甲聖騎兵の鉄蹄が、ヴォルソーンの黒岩の鱗甲に浅い凹みをひとつ残した。
それから地淵巨蛇の胴体が、かすかに一振りされた。
鉄肩も、その背に跨る鉄甲聖騎兵も、まとめて薙ぎ飛ばされた。
濡れた手拭いで一匹のハエを弾き飛ばしたかのように。
鉄甲聖騎兵は空中で数回転し、派手に泥沼のなかへ叩きつけられた。
鎧に何筋かのひびが入った。だが、まだ動く。泥のなかから必死に立ち上がり、鉄肩がいななきをひとつ上げて、再び突撃に加わった。
「物理攻撃が通っていません!」
フィオナ先生の声が前方から飛んできた。
「外殻の耐性が高すぎます!」
分かっている。
最初から分かっていた。
鉄甲聖騎兵の物理攻撃では、地淵巨蛇の鱗甲は貫けない。拳銃で戦車を撃つようなものだ。
だが私の目的は最初から、傷を与えることではない。
うるさくすること。
鬱陶しがらせることだ。
エドアルド先生へ向かう道すがら、絶え間なく手出しをし、立ち塞がり、この羽虫どもを片付けざるを得ない状況に追い込む。
地淵巨蛇はあからさまに苛立ちを見せた。
やつはエドアルド先生の方角への移動を止めた。
頭を巡らせ、あの灰緑色の目で鉄甲聖騎兵の群れを睨みつける。
それから……
地脈の檻。
私はそれを感じ取った。
空気中の魔力が、一瞬で凍結された。
温度による凍結ではない。
流動の凍結だ。
もともと空気中を自由に流れていた魔力の元素すべてが、一斉に見えない力で制圧され、重く粘りつき、ほとんど制御不能になる。
私の魔力の循環が、その一瞬で半拍遅れた。
鉄甲聖騎兵の動作もいくぶん鈍った。
彼らは古帝国の造物であり、使用者の魔力に完全には依存していないが、その機動力にも地脈の檻の影響が出ていた。
「フィオナ先生!」
「今です!」
フィオナ先生の靴の踵が再び地面に差し込まれた。
彼女の魔力が、ヴォルソーンの作り出した魔力制圧場に猛烈に打ちつけられる。
二つの異なる土属性魔力場が空気のなかで激しく衝突し、逆向きに流れる二つの海流がぶつかり合っているかのようだった。
「穿て!」
フィオナ先生の魔力が、制圧場に裂け目をひとつ抉り開いた。
地脈の檻の圧力が裂け目のところで一瞬弱まる。
しかし、ほんの一瞬だけだった。
ヴォルソーンの魔力場は自動的に修復されていく。
「一時的な緩和しかできません! 完全な解除は不可能です!」
フィオナ先生が叫んだ。
「やつの魔力総量は私をはるかに上回っているわ!」
だが一瞬の緩和で、もう十分だった。
鉄甲聖騎兵たちは行動力を取り戻した。
十騎は異なる方向から、ヴォルソーンへ向けて突撃を開始した。
傷を与えることではなく、接触のみを求めて。
鉄肩の巨体でぶつかり、鉄甲騎士の拳で殴り、蹄で蹴り飛ばした。
可能な限りの騒音と衝撃を生み出していく。
ヴォルソーンはこの「鉄の缶詰ども」に徹底的に煩わされ、本気の反撃を開始した。
やつの尾が猛然と薙ぎ払われる。
ドカン、と爆音が響き、二騎の鉄甲聖騎兵が吹き飛ばされて泥沼のなかに大きな穴を二つ開けた。
鎧は砕け、鉄肩は地面に倒れて起き上がれない。
もう一薙ぎで、三騎目。
それから四騎目。
五騎目。
鉄甲聖騎兵の数が急速に減っていく。
地淵巨蛇の圧倒的な怪力は、一度の攻撃で少なくとも一、二騎を確実に破壊していった。
鉄甲の質は十分に頑丈だが、地淵巨蛇の力量の前では力の差が大きすぎた。
しかし一騎を破壊するたびに、地淵巨蛇の動きはコンマ数秒ほど止まる。
そのコンマ数秒こそが、私が帝国の剣から絶え間なく新たな鉄甲聖騎兵を放出し続けるための時間だった。
帝国の剣から黒い霧が絶えず湧き出る。
一騎、二騎、三騎と、新たな鉄甲聖騎兵が霧のなかから歩み出て、鉄肩に跨って戦場に加わっていく。
一騎倒されれば一騎補充する。
二騎倒されれば二騎補充する。
鉄甲聖騎兵の戦い方は、まるで寄せ寄る波のようだった。
一つの波がくだかれれば、次の波が押し寄せる。いつまでも新しい鉄の防壁が、地淵巨蛇の目の前で鬱陶しく動き続けているのだ。
だがこの戦法が長くは持たないことも、私には分かっていた。
帝国の剣の魔力が足りないからではない。
蓄えられた魔力は、長期戦を十分に支えられるだけあった。
地淵巨蛇が、戦略を変え始めたからだ。
やつはもはや鉄甲聖騎兵を一騎ずつ叩き飛ばしたりはしなかった。巨体全体が、猛然と泥沼のなかへと沈んでいく。
潜地する気だ。
泥沼の表面が数秒ほど激しく渦を巻き、それから不気味な静寂を取り戻した。
鉄甲聖騎兵たちは標的を見失った。
「潜ったわ!」
ユーナが叫んだ。
「炎を!」
私はユーナに向かって叫んだ。
ユーナは即座に反応した。
両手を前方に突き出す。火網ではなく、凝縮された火柱だ。
超高温の炎が直接、泥沼の表面へと撃ち込まれる。
泥沼は炎を受けてジュッジュッ、と悲鳴のような音を上げた。
蒸気が立ち昇り、土壌はひび割れ……
それから、ユーナから五メートルも離れていない場所で、泥沼が猛然と炸裂した。
地淵巨蛇の頭部が泥のなかから飛び出してくる。
巨大な口が開かれていた。
淵潮の吐息。至近距離での放出だ。
「ユーナ!」
フィオナ先生の土の壁が同時に立ち昇った。
だが今回は間に合わない。
淵潮の吐息の射出速度はあまりに速く、距離も近すぎた。
そのとき、橙赤色の閃光が横合いから射し込んだ。
ユーナ自身の炎だ。
彼女は大火球の一撃を淵潮の吐息の軌道上で炸裂させた。
火球と黒い水が宙で激突し、大量の蒸気と激しい音を発生させる。
黒い水の半分ほどは一瞬で蒸発した。
だが、残りの半分はフィオナ先生の土の壁に命中した。
土壁の表面が一気に腐食されたが、何とか貫通だけは免れた。
ユーナは衝撃波に押されて二歩後退したが、しっかりと踏みとどまった。
地淵巨蛇の頭部が泥のなかから姿を現し、灰緑色の目がユーナを正確に狙い定める。
それから、鉄甲聖騎兵がそいつの目の前へ強引に飛び込んだ。
新たな三騎の鉄甲聖騎兵が横合いから地淵巨蛇の頭部に体当たりしたのだ。
鉄肩の前蹄がそいつの吻部の両側に叩きつけられ、耳をつんざく金属の衝突音を響かせた。
ヴォルソーンの頭が、無理やり横へと逸らされる。
やつは一叫びした。鳴き声ではない。
低く籠もった、地底の奥から響いてくるような重低音の轟音が沼全体を震わせた。
それからやつの身体が再び泥のなかから浮上し、尾が猛然と薙ぎ払われる。
今度の薙ぎ払いの範囲は、沼の半分を覆い尽くすほどだった。
フィオナ先生、ユーナ、そして残った鉄甲聖騎兵も、全員が攻撃範囲内に巻き込まれる。
「光よ……!」
私は鉄肩の上から飛び降りた。
空中で掌を下へ向け、一筋の光の障壁を解き放つ。
障壁が宙に展開した。半透明の金色の光の幕が、小さなエリアを覆い隠す。
フィオナ先生とユーナが障壁の後ろにしゃがみ込んだ。
地淵巨蛇の尾が障壁の上を激しく薙ぎ払う。
障壁は砕けなかったが、その凄まじい衝撃で、私は着地の瞬間に激しく体勢を崩した。
「あとどれくらいですか!」
私はエドアルド先生の方角に向かって叫んだ。
彼の姿は見えない。すでに私の視界の範囲外だった。
だが感じ取れる。
あの淡い緑の魔力の波動が、持続的に強まり続けている。
詠唱は順調に進行中だ。
「分かりません!」
フィオナ先生が顔の泥水を拭った。
「でも魔力の波動はまだ上がり続けているわ! 最終段階にはまだ到達していないはずよ!」
地淵巨蛇は再び巨体を固く巻き取った。
やつは今、完全に覚醒していた。
灰緑色の目には、もはや先ほどの怠惰も侮りもない。
凶暴な攻撃性だけで満ち溢れている。
身体の表面には、より強い青い光が深く脈打っていた。
土水共生の魔力が高速で駆動している証拠だ。
やつは確信したのだ。
何かが、己の生存環境を根本から脅かそうとしていることを。
やつが成すべきことは、至極単純だった。
まず目の前の邪魔者を皆殺しにし、それからあの銀髪の精霊の詠唱を止めに行くこと。
戦いは、いよいよ最も過酷な極限の段階へと突入した。




