225. 鉄の騎馬隊、そして淵潮の吐息
空気の腐敗臭は、魔力で呼吸を濾過しなければ到底耐えられないほどに濃くなっていた。
少なくともフィオナ先生と私はそれを行っていた。
ユーナは鼻先に小さな炎を一筋灯し、熱で異臭を追い払っている。
それから、私たちは目的地に着いた。
核心区域の光景は、先ほどの雨林とはまったくの別物だった。
木という木がここですべて姿を消している。
代わりに広がっていたのは、黒い泥に覆われた開けた沼沢地だった。
沼の面積はサッカー場7、8面ほど。表面は暗緑色の不気味な光沢を帯びている。
沼の中央からやや東寄りの位置に、泥の底から大量の気泡が湧き上がっているのが見えた。
地下水脈が泥層の下を流れている証拠だ。
空気中の魔力濃度は極めて高く、肌に鳥肌が立つほどだった。
「ここです」
エドアルド先生の声は、極限まで潜められていた。
彼は沼の中央を指差した。
そこには、巨大な……
いや。
ひとつの黒い山のような物体が、沼の中央に鎮座している。
それが山ではないと気づくのに、二秒かかった。
蛇だ。
地淵巨蛇。
その巨体は何重にも渦巻いて、沼の中央の約三分の一の面積を占めている。
黒岩質の鱗甲が全身を覆い、鱗と鱗の隙間は湿った泥と緑の水苔で埋まっていた。
沼の水分に触れている部分では、鱗甲の表面が一層の微かな青い光を帯びている。
体長五十メートル。胴の太さは百年級の古木ほどもある。
扁平なワニのような頭部は渦巻きの一番外側に静かに載せられ、口元の両側の長い触鬚が泥水のなかでかすかに揺れていた。
眠っているように見える。
だが本当に眠っているとは、私には思えなかった。
「やつの感知範囲は沼区域の全域を覆っています」
エドアルド先生の声は、ほとんど息音だけで発せられていた。
「私たちが核心区域の縁に足を踏み入れた瞬間から、こちらに気づいているはずです」
「なのに、なぜ攻撃してこないのですか?」
ユーナの声も同じくらい潜められていた。
「気にしていないからです」
エドアルド先生は言った。
「この環境に天敵はいません。数匹のちっぽけな虫が迷い込んだところで、わざわざ力を費やす価値もないという判断なのでしょう」
彼の視線が沼の縁を走り、それから北東方向の、やや乾いた岩の高地を指した。
「私はあそこで詠唱します。あそこが一番高く、泥土も薄く、地下水脈も深い。地淵巨蛇が能動的に近づくことはまずない場所です」
「でも、万一近づかれたら……」
フィオナ先生が訊いた。
「それが君たちの仕事です」
エドアルド先生が微笑んだ。軽い笑みではない。
「私ができることはすべてやった、あとは頼んだ」という笑みだ。
彼は向きを変え、ほとんど無音で沼の縁を移動していく。
足取りは現実離れするほどに軽やかだった。
フィオナ先生は彼の遠ざかる背中を見送り、それから私とユーナに向き直った。
「準備はいい?」
ユーナは深く息を吸い、力強く頷いた。
私は収納の腕輪からグリンマンランク帝国の剣を取り出した。
剣身が腕輪から浮かび上がった瞬間、黒い霧が剣から猛然と湧き出た。封印された力が解放されるときに溢れ出る余燼のようだ。
黒い霧は空気中に立ち込め、渦を巻き、冷たく圧迫感を帯びた気配を放っている。
フィオナ先生の視線はその剣に吸い寄せられた。
彼女の目がわずかに細められる。
それは恐怖ではない。極めて純粋な、学術的な好奇心だった。
「この剣は……」
彼女は低い声で言った。
「黒い気配を放っているわね。学院で習ったどの文献でも、この手の魔力反応を見たことがないわ」
彼女は一拍おいた。
「けれど、とても危険な感じがするわね」
「危険です」
私が言った。
「使うときは細心の注意が必要です」
フィオナ先生は私を一瞥した。
それ以上は追及しなかった。この局面で素性の知れない黒い魔剣を問い詰めることは、明らかに最優先事項ではないからだ。
「始めます」
私は言った。
帝国の剣を、胸前にまっすぐ構える。
目を閉じる。
それから……剣を抜く。
ブリュンヒルデの槍のように魔力を注ぎ込んで装身する必要はない。
帝国の剣の使い方はより直接的だ。
剣を鞘から抜き離した瞬間、黒い霧は猛然と膨張し、剣身から四方へと拡散した。
黒い霧は空気中に凝集し、ぼんやりとした巨大な輪郭を次々と形作っていく。
金属のぶつかる音、ガチャ、ガチャ、ガチャという硬質な響きが霧の奥から聞こえてくる。
それから彼らは、霧のなかから歩み出てきた。
鉄甲聖騎兵。
十騎の、全身を厚い黒い鉄の鎧で包まれた騎士たち。
同じく鉄の鎧を纏った高大な軍馬「鉄肩」に跨り、黒い霧のなかから次々と姿を現した。
鎧の表面に紋様も装飾もない。
鏡のように滑らかで、沼の幽かな光を反射している。
面甲はない。
というより、彼らに顔はないのだ。
兜の正面は一面の空白で、ただ一本の細い隙間があるのみ。
その隙間の奥には、何もないことがぼんやりと分かった。
彼らは生き物ではない。
だが、戦うことはできる。
「……これは何なの?」
フィオナ先生の声も変わった。依然として冷静だが、彼女のなかで聞いたことのない感情が混ざっていた。
恐怖ではない。
驚嘆だ。
「ずいぶん昔のものです」
私は短く答えた。この場面で詳細な説明をすることは、明らかに最優先事項ではない。
鉄甲聖騎兵たちは二列に整列した。
鉄肩の軍馬たちが沼の縁で落ち着きなく蹄を踏んでいる。
だが彼らは怖がっているのではない。
命令を待っているのだ。
私は身を翻して馬に跨った。一番前の鉄甲聖騎兵の肩甲の上に座る。
幅広の鉄の肩は冷たく、かつ安定していて、前回ブレン関門にいたときと寸分違わぬ感触だった。
「あの上に乗るつもりなの!?」
フィオナ先生の声には、少しばかりの信じがたさが滲んでいた。
「……これが、その使い方です」
私が言った。
フィオナ先生は口を開きかけて何かを言おうとしたが、結局は飲み込んだ。
彼女はただ深く息を吸い、それから極めて専門的な口調で言った。
「分かったわ。あんたがどう動くにせよ、エドアルド先生の詠唱が終わるまで、あの蛇を近づけてはいけないわよ」
「了解」
私は鉄肩の肩甲を軽く叩いた。
鉄甲聖騎兵が動いた。
十騎が並陣を組み、沼の中央のヴォルソーンへ向かって一斉に突き進む。
鉄の蹄が泥沼を踏みつけ、大量の黒い泥を跳ね上げる。
金属のぶつかる音、ガチャ、ガチャ、ガチャ、と十個の鉄の缶詰が同時に転がっているかのような大音量が静まり返った沼に谺した。
この音はあまりに大きく……
大きすぎて……
沼の中央の山が動いた。
地淵巨蛇の頭部が、ゆっくりと持ち上がった。
あの灰緑色の濁った眼、泥水に千年漬かってきた石のような瞳が、こちらの方角を向いた。
やつは私達を見た。
それから……まるで興味がないといった様子で視線を外した。
あの目はただ淡々と一瞥しただけで、再び頭を低くした。
「数匹の蟻がいるだけだ」と言いたげに。
この蔑みが、ほんの一瞬だけ、私に怒りを覚えさせた。
だが怒りは、すぐに一層深い緊張感にとって代わられた。
興味がないということは、つまり、現在の私たちの脅威度は、まだやつに警戒させる段階に達していないということだ。
言い換えれば、鉄甲聖騎兵の物理攻撃力は、本当に「痒いところを掻く」水準にも満たないのかもしれない。
「フィオナ先生!」
私は叫んだ。
フィオナ先生はすでに動いていた。
彼女の靴の踵が猛然と泥地に突き刺さった。
泥沼の表面が、魔力伝導の瞬間にバキリと砕ける音を立てる。
彼女の魔力は泥層を貫き、さらに深い硬質な地盤へと伝導していく。
土竜術。
しかし地淵巨蛇に向けて放ったのではない。
彼女は地淵巨蛇と私たちのあいだの泥面に、ずらりと尖った土の錐を並べた。
攻撃用ではない。障壁を作るために。地淵巨蛇が正面から突っ込んでくれば、まずはこの土錐を踏み潰さなければならない。
「今です、ユーナ!」
ユーナは両手を前方に突き出した。
火属性の魔力が彼女の掌に凝集し、一面の広い炎の網となり、それから弧を描く軌道で前方へと敷き広げられていく。
炎の網は直接ヴォルソーンへと飛んではいかない。
そいつの周囲の泥沼の表面に降り注いだ。
炎が泥水に触れた瞬間、ジュッという音が上がる。
泥沼表面の水分が蒸発し、大量の白い蒸気が噴き出した。
ヴォルソーンの周囲の泥沼が乾き始める。
この過程はとても遅い。地淵巨蛇の身の下の泥土と水分はあまりに多く、ユーナ一人の炎では、短時間で焼き尽くすことなど不可能だ。
だが蒸気の立ち昇りが、地淵巨蛇の鱗甲の表面から、あの幽かな青い光の層を一時的に消し去った。
その反応が来た。
怒りではない。「邪魔をされて苛立った」という反応だ。
地淵巨蛇の頭部が、再び持ち上がった。
あの灰緑色の目が、今度は私たちを……いや、ユーナをはっきりと見据えた。
それから口を開いた。
一筋の黒い液体が、その口から噴き出した。
水柱ではない。
土の元素を混ぜ合わせた、粘性の高い、腐食性を帯びた黒い水——淵潮の吐息だ。
「散って!」
フィオナ先生の叫びは、黒い水柱の発射とほぼ同時だった。
鉄甲聖騎兵は私の指揮で素早く分散した。十騎は二手に分かれ、左右両翼へと回避する。
淵潮の吐息は私たちのあいだを貫き、後方の泥沼面に叩きつけられた。
泥沼の表面は、黒い水が落ちた瞬間にぐつぐつと煮立ったようになった。
気泡が狂ったように泥底から吹き上がり、刺すような酸性の悪臭を放っている。
もしこの一撃が命中していたら、鉄甲聖騎兵の鎧が持ち堪えたかどうかは二の次だ。
何より問題は、鉄肩の上にいる私が、直に吹き飛ばされていたということだった。




