221. 迷心花、そして雨林の守り手
迷宮の入り口。
白い石英柱が朝の光のなかで柔らかな輝きを放っている。
フィオナ先生はすでにそこに立っていた。
服装は昨日とほぼ同じ、濃い色の動きやすい長衣に長ズボン、茶色の髪は簡単に後ろで束ねられている。
表情は相変わらず淡々としており、まるで教室で学生を待つ教師のようだった。
だが彼女の手には、新たなものがひとつあった。
掌ほどの大きさの革の手帳。
表紙はすでに擦り切れ、角は白っぽく色あせている、何度も何度もめくられてきた古いノートのようだ。
「それは?」
私が訊いた。
「迷宮の記録帳よ」
フィオナ先生は手帳を開き、中にびっしりと、様々な色のインクで書き込まれたメモを見せた。
「学院の在庫にある流浪迷宮の歴史記録の抜粋よ。昨夜、一晩かけて整理したの」
彼女の視線がノートから外れ、私を見た。
「流浪迷宮がなぜ『流浪』と呼ばれるか、分かるかしら?」
「……移動するからですか?」
「移動だけじゃないわ」
フィオナ先生は手帳を閉じた。
「流浪迷宮は固定された内部構造を持たないの。時間帯によって異なる区域を生成するのよ。昨日あなたたちが見た洞穴、青い蛍光層、あれは迷宮の『昨日』の配置よ。今日入れば、まったく別の姿になっている可能性があるわ」
私は黙って頷いた。
「ただ、ひとつだけ確かなことがある。」
フィオナ先生は振り返り、白い石英柱のあいだの光の幕を見つめた。
「最終層の入り口。ボス層に現れる白い光の転送陣、あれは挑戦者を迷宮の現在の核心区域へ転送するわ。その区域の内容は、迷宮がこのあいだに何を『収集』したかによって決まるの」
「『収集』……ですか?」
「流浪迷宮は、通過した場所から魔物と地理環境を収集するのよ」
フィオナ先生の声は平静だが、目つきが鋭くなった。
「考えてみて——昨日私たちが遭遇した寒氷蠑螈は、どうして温泉町近くの洞穴に現れたのか。あの生態環境は氷河地帯のもので、温帯の山間部ではないはずでしょう?」
「……迷宮が収集したから、ですか」
「そう。流浪迷宮がどこかの氷河地帯を通過したとき、蠑螈を根こそぎにして、自分の洞穴層へ放り込んだのよ」
フィオナ先生の茶色い瞳がわずかに細められた。
「つまり、最終層には、迷宮がもっと遠くから収集した、もっと強力な存在がいるかもしれないわ」
彼女は一拍おいた。
「本当に行くの?」
「行きます」
私とユーナはほぼ同時に答えた。
フィオナ先生は私たちを一瞥した。
呆れたような、あきらめの表情がまた浮かんだ。
「わかったわ。じゃあ行くわよ」
三人は光の幕のなかへと足を踏み入れた。
白い光の転送陣の輝きは、想像以上に強烈だった。
前回迷宮に入ったのは外の石英柱の光の幕を通してだった。あれは穏やかで、水のカーテンをくぐるような感覚だった。
だが白い光の転送陣はまったく異なる。光が身体に触れた瞬間、まるで巨大な手にぐいと掴まれ、回転する光の渦のなかへと一気に引きずり込まれるような感覚。
耳元には唸るような風切り音。
視界いっぱいに、絶え間なく回転する白い斑点。
それから。
足の裏が地面に着く感触。
湿っていて、ふかふかしていて、腐葉土の匂いがする泥地。
私は目を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、空を覆い尽くすほどの深い緑だった。
巨大な樹冠が幾重にも折り重なって頭上を覆い、陽射しを無数の細かい光の斑に切り刻んで降り注がせている。
一本一本の木が途方もなく太い。一番細い幹でも三、四人でようやく抱えられるほどだ。
太いものに至っては、小さな見張り台のようだった。
空気は濃厚で、甘ったるく、胸がやけるほどの花粉の匂いが立ち込めている。
温度は急激に上昇した。昨日の洞穴の身を刺すような冷気から、一転して蒸し暑さへ。
私の服は十秒と経たないうちに背中に張りつき、汗が背骨を伝って流れ落ち始めた。
「……ジャングル」
ユーナの声が隣から聞こえた。
驚きが滲んでいる。
「ただのジャングルじゃないわね」
フィオナ先生は一番前に立ち、視線で周囲を警戒している。
表情は硬かった。
彼女はしゃがみ込み、掌を地面に押し当てた。
数秒後、顔を上げる。
「地下の魔力濃度は、昨日の洞穴の最深部の三倍以上よ」
彼女は言った。
「それに土の層の下の魔力の流れは、すべて同じ方向を指しているわ。南東方向よ」
立ち上がると、指でその方角を示した。
幾重にも重なる蔓と巨大な羊歯のあいだから、ぼんやりと、南東方向の光がより暗くなっているのが見える。樹冠がいっそう密集し、陽射しすらも完全には届かないかのように。
「あそこが、この区域の核心のはずよ」
フィオナ先生が言った。
「行きましょう。この方角に沿って進むわ。ただし警戒は怠らないで。この魔力濃度の環境だと、魔物の実力は普通のダンジョンの同じランクの個体をはるかに上回るから」
三人は南東方向へと進み始めた。
密林のなかの道、もし道と呼べるならば、ほとんど存在しない。
巨大な木の根が地面からせり上がり、のたうつ大蛇のように這い回っている。
蔓が頭上から垂れ下がり、腕ほどに太いものもあれば、蜘蛛の糸のように細いものもあり、すべてがぎっしりと絡み合って、天然の障壁となっていた。
一歩進むごとに、手か魔法で目の前の植物をかき分けなければならない。
空気のなかの花粉の匂いはどんどん濃くなっていく。
ユーナが鼻をこすり始め、私も喉の痒みを感じるようになった。
「花粉に気をつけて」
フィオナ先生が突然立ち止まった。
声を潜めている。
「迷宮の記録帳に、雨林区域の入り口地帯に存在する魔物が載っているわ、迷心花。幻覚性の花粉を放出し、吸入すると方向感覚の錯乱と軽い目眩を引き起こすの」
「危険なんですか?」
ユーナが訊いた。
「訓練を受けた魔法使いには、ほぼ脅威にならないわ」
フィオナ先生は言った。
「でも準備のない一般人なら、雨林のなかをぐるぐる回って出られなくなり、最後には力尽きるわね」
「つまり……選別のようなものですか」
「そう。多くのダンジョンは、入り口にこういう門番型の魔物を置くの。殺すためじゃない、選別のため——『この先の相手はあんたじゃ倒せないから、とっとと引き返せ』という合図よ」
フィオナ先生の言葉が終わるか終わらないかのうちに、前方約二十メートルのあたりで蔓が急に密集した。
一本の天を衝く古木が、真正面に聳え立っている。
その幹は太すぎて、それ自体が一つの「生態系」を持っているほどだった。
様々な蔓、苔、小さな羊歯がびっしりと表面に取り憑き、垂直の緑の壁を形作っている。
そしてこの壁の中央に。
一輪の花があった。
いや、巨大な……器のようだった。
直径三メートルほどの巨大な花。
花弁は磁器のように白く、表面には淡い紫の墨紋が広がり、まるで誰かが白玉の上に毛筆で水墨画のような線を描いたかのようだ。
花心は柔らかく、淡い金色の球状の構造。
私の角度から見ると、それはぼんやりと、半ば開いた目のように見えた。
蔓が花の底部から伸び、繊細に、脆く、古木へと絡みついている。
花全体から感じられるのは脅威ではなく、不思議な、目を離せなくなるほどの、美しさだった。
「これが迷心花ですか……」
ユーナが二歩ほど近づいた。
「迷心花」
フィオナ先生はその場から動かずに言った。
「記録に載っている名称よ。植物系の幻惑型魔物。危険ランクは最低クラス」
彼女は振り返ってユーナを見た。
「試してみるかしら?」
ユーナは一瞬、固まった。
「……私が、ですか?」
「そうよ」
フィオナ先生の口調は淡々としており、学生に黒板の問題を解きに来いと言うかのようだった。
「昨日の洞穴では、あんたはほとんど遠距離支援と迎撃に回っていたでしょう。今日のこれはランクは低くても、仕組みは簡単じゃないわ。花粉の幻惑、蔓の束縛、花弁の反撃。成長期の炎使いには、悪くない練習相手よ」
ユーナの目が輝いた。
彼女は私を見、それからあの巨大な迷心花を見た。
唇がわずかに引き結ばれる、決意を固めるときの、彼女の癖だ。
「私がやります」
彼女は数歩前に進み、迷心花から十メートルほどの距離で足を止めた。
桃色の長髪が湿った微風にそよぐ。
右手を上げると、指先に橙赤色の炎が一筋灯った。
「炎は迷心花に対する絶対的な天敵よ」
フィオナ先生は私の横まで下がり、腕を胸の前で組み、教師が学生の実技を見守る姿勢でユーナを見つめた。
「理屈のうえでは、正確な大火球ひとつで数秒のうちに枯れるはず。でも……」
彼女は一拍おいた。
「大事なのは、相手の妨害を受けた状態で、その一撃を成し遂げられるかどうかよ」
言い終わるか終わらないかのうちに、迷心花が動いた。
直接的な攻撃はしてこない。
だが白い花弁が一斉に軽く震え始めた。花弁が翼のように上下に羽ばたき、大量の淡い紫の花粉が花芯から放たれ、色のついた風のようにユーナへと流れていく。
「来たわよ!」
フィオナ先生の声に揺らぎはない。
ユーナは一歩下がった。
左手を上げ、指先により大きな炎を凝縮させると、目の前の空気に向けて一振りした。
炎の熱波が横一文字に薙ぎ払い、迫り来る花粉を焼き払った。
「いいわね」
フィオナ先生が頷いた。
彼女が喋ると同時に、迷心花の花弁の振動数が急激に加速した。
さっきまで微風のように漂っていただけの花粉が、二秒のうちに、視界を完全に遮るほど濃密な淡い紫の霧の壁へと変わった。
ユーナに正面から襲いかかった。
「くっ……!」
ユーナが花粉の霧の壁に、真正面から包み込まれた。




