208. 流浪の迷宮、そして土竜の一撃
「やっぱり来たわね」
フィオナは私をちらりと横目で見た。その声には、「どうせ来るだろう」と諦めが滲んでいた。
「先生は、なんでもお見通しなんですね」
私は彼女たちのすぐそばまで歩み寄り、顔を上げて、あの二本の石英の柱をまじまじと見つめた。
柱の太さは、大人が二人でようやく抱えられるほど。
全体が乳白色の石英でできていて、表面は鏡のように滑らかだ。
その内側には、何かの文様がゆっくりと流れているのがかすかに透けて見えた。
魔力が石英の内部を循環している痕跡だ。
二本の柱の間は十メートルほど離れており、その中央にあの菫色の光の幕が掛かっていた。
幕の表面は薄い絹の布地のように微かに揺れ、ときおり明確な波紋がさざなみのように広がっていく。
「先生、これは何の迷宮ですか」
私は二本の石英の柱が放つ菫色の光の幕を指差した。
これが迷宮の転送門であることは一目瞭然だった。
だというのに、ここにはそれほど濃密な魔力の凝集が感じられない。
そんな場所に、こうして不意に迷宮の入り口が出現したのだ。
ヘイティ先生が教えてくれた『魔力薄膜理論』によれば、迷宮の形成には、大量の魔力が一定の領域に消散しきれずに集積し、長い時間をかけて蓄積されなければならないはずだった。
そしてここ——温泉町の近くの山——は、これまで一度として魔力の異常な集積など観測されたことはなかった。
ましてや、こんな短い時間のうちに、忽然と一つの迷宮が生み出されるはずがなかったのだ。
「これは、流浪迷宮よ」
「流浪迷宮……?」
フィオナが頷き、その来歴を語り始めた。
大まかに言えば、流浪迷宮とは数ある迷宮の中でも最も奇妙な部類の迷宮で、それは常に存在する位置を変え続けるのだという。
通常の迷宮とは異なり、特定の領域における魔力の堆積によって生み出されるのではない。
むしろそれは、風に吹かれて舞う一輪のタンポポのようだった。
地に根を持たず、その存在それ自体が、終わりのない宛てなき旅なのだ。
「ときには、ハーランド帝国の街外れにある荒野で入り口を見つけて、そこから出たときには、もうグリンマン帝国の東の国境に立っていた、なんてこともあるわ」
フィオナがそう語る口調は、ひどく淡々としていた。
まるで、自分がもう何度も経験してきた事実を、ただそのまま並べただけのように。
「入り口が移動するだけでなく、内部の空間もシフトする。それどころか、探索の最中に階層構造そのものが変化することだってあるの。そこが、流浪迷宮の最も厄介なところよ」
ヘイティが傍らからそう補足した。
その声は普段よりずいぶん小さかった。
おそらく迷宮の話になると、学院から迫害されたあの暗い過去が、どうしても脳裏をよぎるのだろう。
だが、彼女はすぐに顔を上げ、眼鏡の位置を直してからもう一言を付け加えた。
「でも、だからこそ流浪迷宮の中には、通常の迷宮では決して出会えないような、希少な魔物や素材が出現することも多いの。世界を流浪する過程で、あらゆる場所からさまざまなものを『拾い集めて』くるからね」
「それで、先生たちはこれを探索するおつもりなんですか」
彼女たちは私の問いを聞くと、深く頷いた。
「でしたら、ぜひご一緒させてください」
目指すところが同じならば、当然、一つのパーティを組んだ方がいい。
フィオナとヘイティの実力も、私やユーナの水準とさほど変わるところはないはずだ。
連携において大きな問題はあるまい。フィオナが頷き、ヘイティもまた同意した。
「ええ、小さなクローディアの実力もかなりのものだもの。先生と一緒に迷宮へ行く分には、こちらとしても心配はいらないわ」
ヘイティはそう言い終えると、顔にほんの少し、満足そうな笑みを浮かべた。
それは教師が自分の生徒の成長を見届けるときの喜びだった。
もっとも、その笑顔は緊張のせいで、どこかこわばって見えたけれど。
かくして私たち四人は、ゆっくりとあの菫色の光の幕へと向かって歩き出した。
幕に近づいた瞬間、皮膚の上にごく薄い魔力の遮断膜を通り抜けるような感触があった。
痛みはない。ただかすかに、ピリピリとしている。
まるで手をぬるま湯に浸してから、上げたあとの皮膚に残る、あの奇妙な余韻に似ていた。
長く続いた眩い光が目を眩ませたあと、私はようやく目の前の光景をはっきりと視界に捉えた。
……これまでと同じように、私たちは一面の枯れ果てた草地の中に立っていた。
そして、絶えず私たちに迫り来るゴブリンの群れ。
足の下の草は枯れて疎らで、踏むたびにサクサクと頼りない音を立てる。
空気は乾いており、土と腐った落ち葉とが混ざった匂いが漂っていた。
遠くには歪に曲がった枯れ木が二、三本、幹には灰緑色の苔が絡みつき、この荒涼とした草地にたった一つの装飾品のように佇んでいる。
そしてこの草地のあちこちから、何十匹ものゴブリンが、草むらから、枯れ木の後ろから、土くれの陰から、不気味に顔を覗かせていた。
まったく、ゴブリンというのは本当に勤勉な生き物だ。
どの迷宮にも、遅刻せず律儀に出勤してくるのだから。
彼らの姿は、以前アムニット市の北の森にある迷宮で遭遇したものと、何一つ変わっていなかった。
矮小な体躯、灰緑色の肌、尖った耳、小さな目。
手には不揃いな棍棒や石ころ、乱暴に打ち拵えただけの粗末な短刀を握っている。
最も図体の大きい、群れを率いる一匹が最前線に立ち、口を歪めてでこぼこに並んだ黄色い牙を剥き出していた。
あざ笑っているのか、それとも挑発しているのか。
しかしどういうわけか、彼らの視線は、フィオナ先生に対してことさら多く注がれていた。おそらく、たとえ先生がもう三十路を——
まだ私が思考を完了するより早く、脳天に凄まじい衝撃が叩き込まれ、私はそのまま意識を飛ばしかけた。
「ごんっ!」
痛みすら感じる暇もなかった。
意識はまるで、誰かの手で唐突にスイッチを切られたかのように、一瞬のうちに深い闇へと突き落とされた。
私が意識を取り戻したときには、わずか二、三秒が経過していただけだったが、自分がまるで急停車した列車から放り出されたように感じられ、頭の中はガンガンと鳴り響き、視界にはまだ白い閃光の残像が焼き付いていた。
「……手が、勝手に動いたのよ」
フィオナは衝撃を受けた様子で、自身の右手がひとりでに手刀の形を作り、クローディアの頭へと振り下ろされた軌跡を見つめていた。
その表情は、驚愕と「私は悪くない」という釈明が入り混じったものだった。
衝撃的だったのは、自分の手がたしかに自律的に動いたからだ。
悪気がなかったのは、彼女自身に私を打つつもりなど微塵もなかったからである。
だが、その手に込められた威力の方は、決して無罪放免とはいかなかった。
現に、私の頭には立派なたんこぶが急速に成長している。
私はユーナに身体を支えられながら、痛む頭を押さえて草地から這い上がった。
この世界の女性には、誰しも、傍らの人間が少しでも不敬なことを考え始めると、無意識に手刀が自動発動してしまうような防衛本能でも備わっているのだろうか。
私は頭のたんこぶを揉み解しながら、この問題をそれ以上追及するのはやめることにした。
少なくとも今は、そんなくだらないことを考えている場合ではなかった。
あのゴブリンの群れが、もう私たちのいる場所へと、ぐっと包囲を狭めてきていたのだから。
「目障りよ!」
フィオナは、群れの中でも明らかに彼女めがけて突っ込んでくる一団の、さらに前方の地面をめがけて、容赦のない一撃の蹴りを叩き込んだ。
ハイヒールの金属製の踵が、乾いた土の中へと深々とめり込む。彼女の動きには一片の無駄も、余分な予備動作もなかった。まるで彼女の身体そのものが、「地面を蹴る」という動作そのものに、完璧な筋肉の記憶を刻み込んでいるかのようだった。
踵が土を穿ったその刹那、土属性の魔力がもたらす凄まじい衝撃波が、接触点を中心に同心円状に広がっていった。
直後、ゴブリンたちの足元の地面に、どうにも押し止めようのない巨大な亀裂が走り始めた。裂け目は中心から四方へと走り、土くれが踊り、砕けた石が派手に飛び散る。
そして——一頭の、土色の巨竜が、大地の底から咆哮とともに姿を現した!
その土塊の巨竜は全長十メートルほど。
全体が圧縮された土と岩石で構成され、何層にも重なり合った強固な鱗をまとい、両の眼窩には鈍い土色の怪光が宿っていた。
それが巨大な顎を開いた瞬間、私はその喉の奥で渦巻く、狂おしい土の精霊の奔流を見ることができた。
あれこそが、フィオナの魔力がこの精密な「殺戮機械」を駆動している核心だ。
巨竜はその一帯のゴブリンを、文字通り丸ごと口の中へと呑み込んだ。
悲鳴もなく、もがく暇さえ与えられず。
巨竜が口を閉じたその刹那、ゴブリンたちはすでにこの世界から綺麗さっぱり消滅していた。
獲物を貪ったあと、巨竜の頭は再び地の底へと潜り込み、まるで最初から何もなかったかのようにすべてが終わった。
地面は再び塞がり、引き裂かれた亀裂すらもピタリと埋め戻されている。
これほどの精確なコントロールは、長年の苛烈な実戦経験がなければ、決して身につかない神業だった。
残されたゴブリンたちはこの光景を目にして、当然ながら完全な恐慌状態に陥り、一目散に逃げ出そうとした。
だが、敵わないと見るや背を向けるような手合いを、みすみす見逃してやる義理は私たちにはなかった。
今度はヘイティが魔術の詠唱を始めた。
彼女の詠唱は、私のアプローチとはいくぶん異なっていた。
私が魔法を放つときは、どちらかと言えば直感のままに膨大な魔力を一方向へと解き放つことに近い。
だが、ヘイティはある種の厳格な韻律に従って呪文を紡いでいた。
一つひとつの音節が、魔力の正確な流れの「節目」と完全にシンクロしているのだ。
彼女の声はとても静かだったが、この静寂の戦場においては恐ろしいほどはっきりと鼓膜に届いた。
それはまるで、古い叙事詩の、美しい最初の数小節を聴いているかのようだった。
次の瞬間、一塊の真っ赤に燃える雲がゴブリンの群れの頭上に立ち込めた。
その雲は厚みこそなかったが、色彩だけは極めて濃厚だった。
まるで、どれほど濃密に凝縮されたか分からない夕焼けの色のようだ。
雲の層の下方から真っ赤な光の粒が結集し始め、それは瞬く間に増殖し、密集し、ついには天を埋め尽くす火球の雨となった。
無数の火球が逃げ惑うゴブリンたちへと容赦なく降り注ぎ、その身を余すところなく焼き尽くしていく。
火球が地に衝突する音は、まるで狂ったように爆竹を鳴らしているかのようで、辺り一面に激しい破裂音が響き渡る。
空気には焦げ臭い匂いが立ち込め、焼け焦げた草の葉の臭いと混ざり合って、独特の焦げ臭い硝煙の匂いを作り上げていた。
これが、ヘイティとフィオナ先生の、本当の実力。
私のように魔力の塊をただ力任せに叩きつける手法に比べれば、二人の魔法は明らかに優雅で、そして美しかった。
彼女たちの魔法には、「精確無比だからこそ美しい」という機能美が備わっている。
一つひとつの所作、一句ごとの詠唱、一筋ごとの魔力の波動が、すべて過不足なく、一片の無駄すら存在しない。
一方、私はといえば……私は自分の手のひらを見下ろした。
私が攻撃魔法を放つたびに、頭の中で考えていることといえば、ただ「当てろ」の三文字だけだった。
どんなプロセスで命中させるか、着弾したあとに味方を巻き込まないか、魔力の消耗効率は最適か。
そんな問題は、私が手を突き出すその刹那、ことごとく検討の範囲外へと追いやられている。
単純で、乱暴で、だが確実。
これもおそらく、直感型の天才と、体系型の職人との違いなのだろう。
天才は本能に頼り、職人は洗練されたシステムに頼る。地道なシステムとは違い、本能という代物はときに恐ろしい冴えを見せるが、ときに……うん、あまり当たらない。
そこで私は、遠くで極度の恐慌に陥り、右往左往している数匹のゴブリンへと視線を定め、光属性の魔力を収束させた。
光の精霊が私の掌の上に集い、最初は散漫な光の粒子だったものが、私の意志によって急速に圧縮され、鋭利に形を変えていく。
ついには、数本の細長い光の矢へと成形された。
一本一本の光の矢の鏃は鋭い白光の暈を帯び、矢柄は凝固した光の精霊そのもの。
尾羽のあたりには淡い白銀の軌跡が引かれていた。
ひゅんひゅんひゅんと、何条もの空を切る鋭い音が耳元を駆け抜け、純白の光で形成された矢がゴブリンめがけて撃ち放たれた。
それは瞬く間に距離を詰め、彼らの身体を容赦なく貫いた。




