204. 黒晶の影
馬車はさらに前方へと進み続けた。誰もここで足を止めようとはしなかった。
戦火のただなかに一分でも長く留まれば、それだけ死に遭う確率が増すことを、彼らはよく理解していた。
しかし、天はいつも人の思い通りにはならない。
彼らの馬車が燃え盛る廃村へと差し掛かったとき、突如として一隊の兵士たちに包囲された。
兵士たちは崩れかけの民家の影から一気に飛び出して来た。
数はざっと三、四十人。
長槍と盾を掲げ、その鎧にはまだ生乾きの血痕がべったりとこびりついている。
先頭で馬を駆る男の胸元には、勲章が一つ揺れていた。
だが、すべてが瓦礫と化したこの地獄の路上において、その栄誉の証はあまりにも皮肉で、悍ましく映った。
彼らは有無を言わさず、五台の馬車の御者と、お頭たち五人の商人を荷台から引きずり下ろした。
尋問もなく、言い訳を聞く耳も持たない。
まるで道端に落ちている持ち主のない荷物でも放り込むように、彼らを地面にねじ伏せ、荒縄で手首を縛り上げた。
縄が皮膚に食い込み、鋭い痛みが走る。
彼らは無造作に縛られたまま、村の広場へと放り込まれた。
広場には、すでに捕らえられた大勢の村人たちが押し込められていた。
彼らは互いに身を寄せ合っていたが、その瞳からは、生きていくための光がすでに完全に消え失せていた。
まるで吹き消された蝋燭のようだった。
それは絶望というよりも、絶望のその先にある「精神の麻痺」だった。
そのなかにいた一組の母娘が、お頭の目を引いた。
小さな娘は、見たところ八歳か九歳ほどだろう。
温泉町で見かけたあの健康な農家の子供たちに比べれば、その身体は痛々しいほどに細かった。
成長期特有の細さではない。
長期間にわたる飢えがもたらした、骨の浮き出るような細さだ。
彼女はひどく痩せこけた母親にしがみつき、その胸元に頬を押し当てて目を閉じていた。
眠っているのか、それとも恐怖で泣いているのかは分からなかったが、小さな身体は微かに震え続けていた。
母親の顔にも、苦痛と諦念が深く刻まれていた。
彼女の目は見開かれているものの、焦点はどこにも合っておらず、ただ本能的に、愛娘を自分の背後へ隠し通そうと、細い腕でいっそう強く抱きしめていた。
彼女は理解していたのだ。
自分たちが今日、ここで殺されるのだということを。
そのとき、茶褐色の粗末な麻服をまとい、手に干し草用の熊手を握らされた一人の男が、二人の兵士に引きずられるようにして、その母娘の前に突き出された。
そして兵士は男に、「その母娘を殺せ」と冷酷に命じた。
その男は、明らかに周辺の村から無理やり徴用されただけの農民だった。
彼の手のひらや指の節には、分厚い肉マメがびっしりと作られている。
それは長年、耕作のために農具を握り締めてきた証であり、戦うために剣を握る者の手の擦れ方とは、位置も形もまったく違っていた。
これがこの戦争の悪辣な理屈だった。
農民に農民を殺させ、同じ土に生きる者同士で手を汚させ、傍観者を強制的に血の海のなかへ引きずり込む。
そうして彼らを「肉挽き器」の二度と逆回転することのない歯車に変えてしまうのだ。
ただの徴用兵にすぎないその男に、人殺しの度胸などあるはずがなかった。
男と、目の前で震える母娘の間に、一体どれほどの違いがあるというのか。
どちらもただ、土に生きてきた農民ではないか。
男は熊手の柄を握り締めたまま、激しく震えていた。
熊手の先はたしかに母娘に向けられているのに、どうしても、最後の一歩を踏み出すことができなかった。
男が顔を向けると、母親はすでに震える手で娘の目を覆い、自らもまた固く目を閉じていた。
まるで、訪れる運命を受け入れる覚悟を決めたかのように。
娘の目を塞ぐ細い手は、激しく震えながらも、決して離されることはなかった。
だが、熊手が振り下ろされることはついになかった。
代わりに静寂を破ったのは、肉体が地面に崩れ落ちる鈍い音だった。
いつまでも手を下さない男に痺れを切らした背後の兵士が、苛立ちに任せて、その背中を剣で容赦なく切り裂いたのだ。
男の背から真っ赤な鮮血が噴き出し、身体が何度かびくりと痙攣したあと、二度と動かなくなった。
息絶えたその手のなかには、まだ熊手が握られていた。
その先は、最期の瞬間まで、あの母娘を傷つけることはなかった。
直後、一人の兵士がゆっくりと母娘に歩み寄り、手にした長剣を無慈悲に振り下ろした。
二人は、あっけなく血の海のなかへと沈んでいった。
広場の生存者たちも、それを取り囲む兵士たちも、誰も声を発しなかった。
感情が失われたからではない。声を上げること、それ自体がここでは命取りになる「贅沢」だったからだ。
母娘の呼吸が途絶えるのを見て、お頭は激しい怒りに駆られ、縄を引き千切ろうと暴れた。
だが、その足掻きは虚しく、彼も、そして彼の仲間たちも、あの母娘と同じように冷たい剣刃によって泥土のうえに斬り倒された。
お頭は、最後の一人として泥土に倒れた。薄れゆく視界のなかで、血の海に横たわる母娘の影をじっと見つめ、魂の奥底にひとつの祈りを刻み込んだ。
兵士たちはすべての殺戮を終えると、吐き捨てるように鼻を鳴らし、転がった死体を見下ろした。
そして、一人の兵士が、斬り落とされたあの少女の幼い頭部を、靴の先で無造作に蹴った。
少女の頭は砂埃を上げて二度ほど転がり、大きく見開いた虚ろな瞳を、ただ虚空へと向けたまま静止した。
兵士たちはすぐに獲物を物色し始め、奪い取った五台の馬車の荷台から、酒や肉を次々と下ろした。
今回の戦果は当然、軍に報告せねばならなかったが、その前に上質な酒と肉を自分たちだけでたらふく平らげるのが、彼らの暗黙のルールだった。それを咎める者など誰もいない。
口を挟もうとした者は、これまで例外なく、何らかの方法で永遠に口を封じられてきたからだ。
酒壺が荷台から乱暴に投げ落とされ、地面にぶつかって鈍い音を立てる。
肉は兵士たちが持参した麻袋のなかへ、雑に放り込まれていった。
そんななか、一人の兵士が積荷の奥から、精巧に作られたあの木馬の玩具一式を見つけ出した。
彼はそれを物珍しそうに眺めたあと、隣の仲間へと放り投げた。
二人は下卑た笑い声を上げながら、それを乱暴に手あそびを始める。
あの木馬には、騎士の鎧に細かな文様が刻まれていた。
それを我が子のために買い求め、滑らかな手触りを嬉しそうに確かめていたあの父親は、いまや無残な肉塊となって、冷たい血の池に浸かっていた。
だが、欲望に狂う兵士たちが気づかないところで、死体の山に異変が起きていた。
音もなく黒い霧が立ち昇り始めていたのだ。
霧は虚空を漂いながら、次第に、深い闇を湛えた無数の細かな結晶体へと凝固していく。
それらは砂粒のように小さく、最初は傷口の周りに散らばっていたが、やがて目に見えない引力に導かれるようにして、四方八方からある一点へと急速に集束し始めた。
それは、まるで凍てつく夜のあいだにひっそりと霜が降りるような、完全な静寂のなかで行われた。音も気配もなく、ただ黒い粒子が連なり、形を成していく。
その異様な光景に気づく者は、まだ誰もいなかった。
兵士たちは村の公会堂に集まり、重い鎧を脱ぎ捨てると、奪った酒と肉をテーブルに並べて、騒がしい祝宴を始めていた。
殺戮を終えたあとの奇妙な弛緩と、どんちゃん騒ぎのなかの忘却。
立ち込める酒気と、炙られる肉の香りが公会堂の扉の隙間から漏れ出し、外の焦土の臭いと混ざり合って、この世の不条理を象徴するような悪臭を作り出していた。
夜更け。
あの黒い結晶の塊は、夜陰のなかで最終的な形を得ていた。
最初はただの不揃いな結晶片にすぎなかったものが、線となり、面となり、肉体を包み込むようにして、ついに一人の「人間」に似た輪郭へと結晶化した。
二本の脚、二本の腕、そして一つの頭部。
体躯は通常の人間よりも一回り大きく、全身が深い輝きを放つ黒い結晶で構成されている。
その輪郭は鋭く角ばり、月光を浴びて不気味なきらめきを散らしていた。
鉱物のように冷たく硬い質感を持ちながら、同時に、得体の知れない生命としての気配を漂わせている。
全身を黒い結晶で鎧った人型の怪異は、その手に、同じく黒い結晶でできた大剣を握り締め、公会堂へと向かって静かに歩き出した。
その歩みはひどく緩やかだった。
しかし、それは鈍重さからくるものではない。
そこには、恐ろしいほどの迷いのなさがあった。
生き物の意志というよりは、あらかじめプログラムされた精密機械が、一分の狂いもなく粛々と稼働しているかのような。
感情の揺らぎすら存在しない、冷徹な律動だった。
結晶の怪異は、公会堂の重い扉を無造作に押し開けた。
「どこの馬鹿だ、俺たちの宴を邪魔しに来た奴は。」
中から上がった怒声は、最期まで紡がれることはなかった。
代わりに響いたのは、金属が肉を引き裂く不快な音と、杯や皿が粉々に砕け散る轟音だった。
「ぎゃあああっ!」
「ば、化け物……っ!」
一瞬の静寂ののち、凄まじい刃光が奔った。
公会堂になだれ込んだ黒い結晶の剣は、一片の感情も、虚飾もない、冷酷な斬撃を繰り出した。
武術と呼ぶにはあまりにも無機質で、まるで伸びた雑草を刈り取るかのように、少しの無駄もなく、正確無比な力加減で兵士たちの命を収穫していく。
残された兵士たちは、突如現れた悪夢のような存在に完全に肝を潰され、戦う意志を失った。
壁の隅へ這いずって逃げる者、机の下に潜り込んで震える者、そして夜の闇のなかへ一目散に飛び出していく者。
誰もが方角すら確かめる余裕もなく、ただこの地獄から遠くへ、少しでも遠くへと逃げ惑った。
だが、その黒い結晶の怪異は、武器を持たない者。
兵士たちに暖を取らせるため、あるいは慰み者として捕らえられていた若い娘たちには、一切手を下さなかった。
娘たちは、自分たちが標的ではないと悟るや否や、そして自分たちを蹂躙していた兵士たちが怯えきっているのを見るや、服を整える間も惜しんで公会堂から一斉に逃げ出した。
彼女たちが屍体の山の横を、結晶の異形の傍らを駆け抜けていくときも、異形は振り返りもしなかった。
ただ彼女たちを無言で去らせ、その空虚な眼窩は、別の標的だけを見据えていた。
この戦火にまみれた帝国のなかで、逃げ出した娘たちが生き延びられるかどうかは誰にも分からない。
彼女たちの運命は、もはや女神オリビアの慈悲に祈るほかなかった。
翌朝、陽はいつもと変わらずに昇った。
東の空から溢れ出した朝の光が、あの黒焦げた平原を照らし、道端に放置された屍体を照らし、燃え尽きて崩れた民家の壁だけが残る村を照らし出した。
そして、村の廃道をただ一人歩む、黒い結晶の異形をも、等しく照らした。
黒い結晶の異形は、機械的な足取りで歩き続けていた。
目的もなく彷徨い、その瞳は、ただ前方の虚空を虚ろに見据えている。
朝の風が瓦礫のすき間を通り抜け、舞い上がった黒い灰が異形の肩にそっと舞い降りては、また風に流されて消えていく。
村のなかには、もう息を吸う者は一人も残っていなかった。
生きていた者は皆、昨夜のうちに闇のなかへと消え去った。
異形は村の入り口まで来ると、ふと足を止めた。
その頭部がゆっくりと持ち上がり、遠くの地平線を見据える。
白く濁った空の彼方からは、幾条もの煙が立ち昇っていた。
それが誰かの生活の営みを示す炊煙なのか、それともまた別の場所で今まさに上がっている戦火の黒煙なのか、見分ける術はなかった。
それはただ、そこに立ち尽くしていた。
身じろぎもせず、言葉を発することもない。
黒い結晶の指先が、かすかに曲がり、また開き、そして静かに握られる。
それが何を待っているのか、そもそも、その結晶の身体に「待つ」という概念が存在するのかすら疑わしかった。
陽はますます高く昇り、それでもなお、異形は同じ場所に立ち続けていた。
全身の黒い結晶が午前の陽光を鋭く屈折させ、廃墟のなかへと一本の長く深い黒い影を落としていた。




