202. 危うき旅路、そして五つの影
それは五階建ての煉瓦と石造りの建築物で、外壁はこの地方で採れる青灰色の石材で美しく積み上げられていた。
何しろ温泉町にあるのだから、ケイヤ・ホテルにも当然ながら温泉が引かれている。
もっとも、一部屋に一つの源泉を持つ超高級なユーヤ・ホテルに比べれば、このケイヤ・ホテルが随分と安普請に見えるのは否めなかった。
あちらの湯が、地下から直接引き揚げた贅沢な源泉かけ流しで、一度浸かれば髪の先から足の爪先まで濃厚な硫黄の香りに包まれる極上のものなら、ケイヤ・ホテルの湯は、全館でたった一つの源泉を分け合うようにして、屋上の大浴場へ導かれているに過ぎなかった。
しかも、男女の時間帯を分けて交代で開放される仕組みだ。
だが、まさにその工夫こそが、宿泊料金を極限まで抑えることを可能にしていた。
温泉町のなかでも優れた立地、安い値段、そして高級宿にも引けを取らないきめ細やかなサービス。
それらが噛み合い、宿は毎日満室を維持していた。
言い換えれば、ここは普通の旅人がこの温泉町のなかで、数少ない「手の届く宿」だった。
そのとき、ホテルの片隅にある酒場は。
そこはさほど広くはなかった。
低い木の梁が渡る天井から、三つの魔導ランタンが吊り下げられ、黄みがかったあたたかな灯りの暈が、辛うじて一人分の高さを照らし出している。
照らされなかった部屋の隅々は、深い影のなかに沈んでいた。
壁には温泉の景色を描いた安っぽい油絵が何枚か掛けられていた。
筆致は粗く、描かれた山並みはどれも、山というよりは膨らんだパンのように見えたが、ここに酒を飲みに来る客たちは明らかに、そんなことはまったく気にしていなかった。
五人の中年大男が円卓を囲み、大きな木製ジョッキでエール酒を酌み交わしながら、大根の酢漬けを肴に、最後の夜の宴を楽しんでいた。
彼らの顔にはどれもほろ酔いの赤みが差しており、話すときの呂律は素面のときほどはっきりとはしていなかった。
だが、その目つきだけは、妙に醒めきっていた。
あまりにも多くの死線をくぐり抜けた末に研ぎ澄まされた、あの独特な醒め方だ。
どれだけ酒を浴びても、決して濁ることのない、諦念と警戒の混ざった眼光だった。
机の上のジョッキはもう何度もお代わりを重ね、大根の酢漬けの皿も二度、底をさらしていたが、五人の誰一人として、お開きにしようと言い出す者はいなかった。
まるで、この温かい酒場のなかにいるうちは、過酷な明日の旅路がまだ始まらずに済むと、自分に言い聞かせるかのように。
彼らはハーランド帝国のとある商会の商人たちだった。
明日、彼らはハーランド帝国の首府——ハーランド城へと戻る帰路に就く。
それは同時に、帝国の西北の果てに残された、戦火に侵されていない最後の一片の浄土である「エリクソン公国」から、血と混乱に塗れた帝国のただなかへと、再び踏み込むことを意味していた。
エリクソン公爵領は、ハインツの撤退後、皇帝エイドリアンとの臣従条項を完全に解消し、正式に「エリクソン公国」として完全独立を果たした。
しかし、この報せが公布された翌日、エイドリアンが次なる対抗措置を発表する間もなく、帝国では凄惨な内戦が勃発した。
ハインツは南方貴族を率い、皇帝に忠誠を誓う帝国中央の貴族、そして北方貴族に一斉に攻勢を仕掛けたのだ。
たった一日で、エイドリアンとその麾下に属する多くの貴族たちの領地が、ハインツの率いる魔人軍団に蹂躙された。
それらの領地の町のなかには、城門を閉じる時間すら与えられなかった場所もあり、なかには城壁すら未完成だった場所もあった。
そうして一夜のうちに、地図の上から、まるごと姿を消した。エイドリアンは当然ながら、公国の独立を構っている余裕などなく、全軍を率いてハインツの大軍の位置する方角へと急行せざるを得なかった。
今では、エイドリアンの魔人部隊も戦闘力を整え、序盤にハインツが築き上げた優勢は、少しずつ押し戻されつつあった。何しろ、魔人兵士を製造するための聖水の原料。
その最も重要な『悪魔の毛髪』は、ハーランド城の主教宮でしか生産できない。
ハインツの手持ちの聖水は、戦うごとに減る一方だった。
もしあのエリクソンとの決戦の前に、エイドリアンから相当な量をゆすり取っていなければ、今頃はとても持ち堪えられなかっただろう。
一ヶ月に及ぶ対峙を経て、両陣営の戦線は今、ある程度の膠着状態にあり、いわゆる「肉挽き器」の段階へと突入していた。
肉挽き器。
その恐ろしい言葉が脳裏をよぎり、男の一人は思わず身震いをすると、手にしたジョッキの底に残ったエール酒をぐいと煽り、喉へと流し込んだ。
彼は「肉挽き器」と呼ばれる戦場がどんなものかを、この目で見たことがあった。
十年前のことだ。あの頃、彼はまだ商会の物資を護送する雇われの護衛に過ぎず、ある反乱鎮圧の戦跡のそばを通りかかった。
ぬかるんだ平原に、数えきれない屍体が横たわっていた。
人間のものと家畜のものが泥のなかで混ざり合い、秋雨に打たれて腐り果てた悪臭は、風下へと何キロメートルも漂っていた。
彼はその道中、まったく食事が喉を通らず、三日間ぶっ通しで馬を駆り、ようやくその地獄の臭気から逃げ出したのだ。
そして、彼らが今回の帰路で通ろうとしているのは、まさにその激戦区のすぐ傍の道だった。
彼らは今回の旅が九死に一生を得るようなものだと痛感していたが、それでも商会の意向に逆らえないことも、痛いほどよく知っていた。
彼らはどうしても、エリクソン公国で買い付けた穀物を、帝国の首府へと運び届けねばならなかった。
「くそっ、お頭、本当に戻らなきゃいけねえんですか。俺はまだ、死にたくねえよ……」
隅に座る一人が、絞り出すように言った。
声は低かったが、静まり返った卓の全員にっきりと届いた。
お頭と呼ばれた男は、ゆっくりと首を横に振った。
眉間に深い苦渋の皺を刻み、口を開く。
「上の連中の指図だ。俺たちに逆らえると思うか」
そう言って、彼は自身の首筋を指で叩いた。
魔導ランタンの淡い光のなかで、そこに刻まれた『奴隷紋』がはっきりと浮かび上がった。
喉仏から指三本分ほど下に位置する、銅貨一枚ほどの黒い紋様。
その細かな術式は、普通の刺青には決して真似できない、まるでどす黒い呪詛が皮膚の内側から直接滲み出ているかのようだった。
残りの男たちの首筋にも、全く同じ紋様が刻まれている。
これは商会が、彼らのような末端の労働者が売上金を持ち逃げするのを防ぐために施した、冷酷な禁制だった。
もし商会が定めた帰還期限を過ぎれば、この紋様の魔力が発動し、彼らを容赦なく絞殺する。
それも一瞬ではない。
見えない手に喉をぎりぎりと締め上げられるように、ゆっくりと、内側から肺を潰していくのだ。
その苦痛は、剣で心臓を貫かれるよりもはるかに耐え難いものだと噂されていた。
「ああ……これも仕方のねえことだな。何しろ俺たちは、こんな世界に生まれちまったんだからよ」
お頭は重い溜息を吐き、どうしようもない無力感を湛えた目で、天井を見上げた。
魔導ランタンの光が揺れ、木の梁に歪んだ影を落としている。
誰も口をきかなかった。
五人はそれぞれ、自分の吐く息の音と、酒場の反対側の卓から聞こえる賑やかな笑い声だけを、静かに聞いていた。
あちらの卓にいるのは地元の商人たちのようで、温泉町特有の訛りをべらべらと交わしながら、今年の収穫やこれからの商売の話に花を咲かせている。
彼ら五人を取り巻く凍りついた沈黙とは、あまりにも残酷な対比をなしていた。
「……でもよ。もし来世ってやつがあるなら、俺はやっぱり、エリクソン公国の人間になりてえな」
一人がぽつりと呟いた。
その口調は驚くほど穏やかで、ずっと前から胸の奥で温め、慈しんできた大切な夢を、ただ素直に言葉にしただけのようだった。
残りの四人も、静かに、だが深く深く頷き、その言葉に同意した。
この温泉町は、たしかに公国全土でも最も名高い観光地であり、一等地の地価や宿代はそれなりに張る。
しかし、日常生活に必要な品物の物価は、どれも驚くほど安かった。
風の噂によれば、あのクローディア商会が、系列の先進的な工場で日用品の大量生産を行い、歯ブラシや食器、衣類といった生活必需品のコストを、これまでの常識では考えられないほどにまで引き下げてくれたのだという。
だからこそ五人は今日、商業エリアで少なからぬ衣類や玩具を買い込み、首府に残してきた子どもや妻への土産として、大事に荷物に抱えていた。
それは、死地へと戻るこの恐ろしい旅路のなかで、彼らの心をわずかに温めてくれる、唯一の救いだった。
お土産を選ぶのには、丸一日を費やした。
一人の男は、家に残してきた七歳の娘にぴったりの毛織りのワンピースを選ぶために、六着も七着も品定めをして、露天商をほとほと困らせていた。
もう一人の男は、息子が喜びそうな小さな木馬の玩具を見つけるために、市場を端から端まで歩き回った。
その木馬は、本当に見事な作りだった。四本の脚がそれぞれ独立して動き、馬の背には小さな騎士の人形までちょこんと乗っている。
騎士の鎧には細かな文様が手彫りで施されており、どこを触っても、ささくれ一つない滑らかな手触りだった。
「そうだな。なんと言っても、ここの領主様は……本当に、小さな奇跡を起こしてくれたんだな」
しばしの沈黙ののち、静かにそう言ったのは、木馬を買った男だった。
彼の視線は、机の上の空になった木製ジョッキへと落とされていた。
その声には、名状しがたい、ずっしりとした憧憬が滲んでいる。それは安易な「羨ましさ」などではなく、自分たちの現実の冷たさを知っているからこそ、胸の奥で静かに祈るように育まれた、根を下ろすことのない希望の光だった。
「さあ、みんな。そろそろ部屋に戻って休もう」
お頭が立ち上がり、仲間たちに声をかけた。
その声はいつもの落ち着きを取り戻しており、まるで重しの石のように、卓の上に漂っていたどこか感傷的な空気を静かに押さえつけた。
「明日は少し早めに出発するぞ。そうすりゃ、運が良ければ暗くなる前に、あの戦線を通り抜けられるかもしれねえ」
暗くなる前に。
その言葉の裏にある恐怖を、全員が理解していた。
陽が落ちた戦場跡の闇に、一体何がうごめいているのか、知る者など誰もいないのだから。
男たちは互いに計画を確認し合うと、最後の一滴までジョッキのエール酒を飲み干した。
そして、一日の疲れと緊張で固くなった体を支え合うように肩を貸し合い、上階の客室へと歩いていった。
廊下の魔導灯はすでに薄暗く絞られており、階下の酒場には地元の商人たちが残って、まだ陽気に酒を飲み続けていた。
彼らの笑い声が、扉の隙間からかすかに漏れ、夜風に冷たく溶けて消えていく。
五つの影は、黄色い灯火に細長く引き伸ばされながら、一歩、また一歩と階段を昇り、廊下の角の向こうへと、静かに消えていった。




