195. 温泉の夜、そして木の札
それはチャーリーたちが泊まる棟より少しだけ大きな独立した建物で、同じく手入れの行き届いた中庭が付いていた。
ただ、中庭の花は山茶花に差し替えられていた。
私の一番好きな花だ。
私は鍵を差し込み、軽く捻った。
扉がカタリと開く。
淡い白檀の香りが、ふわりと顔の周りを包んだ。
別荘の内装はふんだんに木の素材を使っていて、温かく、自然な安らぎを感じさせる。
居間の中央には心地よさそうなソファが一式、その脇には暖炉がある。
今はまだ使わないが、冬になればきっとここはとても暖かくなるだろう。
「わあ……」
ユーナが思わず声を漏らした。
私は彼女の手を引いて寝室へと歩いた。
寝室の窓は中庭に面していて、窓の外には一面の青々とした山茶花の海が広がっている。
陽の光が薄絹のカーテンを通して差し込み、床のうえに斑模様の影を落としていた。
「気に入った?」
私がそう尋ねると、ユーナは勢いよく頷き、それから不意に振り返って、私に抱きついた。
「クローディア……」
彼女の声はくぐもっていて、かすかに震えていた。
「私……本当に、本当に嬉しい」
私はそっと彼女の背を叩いた。
何も言わなかった。
彼女が何を言っているのかは分かっていた。
あの頃のエイも、私のことを好きでいてくれた。
それなのに、私はそれを知らなかった。
私が死んだあと、彼女はきっと、自分の想いがこの先二度と伝えられないのだと知って、どれほどの悲しみを味わったことだろう。
そして今、天は再び私たちに、もう一度だけ生まれ変わる機会を与え、二人をこうして、同じ場所に立たせてくれたのだ。
この失ってから取り戻した幸福は、誰だって、涙が溢れて止まらなくなるだろう。
「はいはい」
私は彼女をそっと押し離し、指で目尻の涙を拭ってやった。
「もう泣かないの。そんなに泣いたら目が腫れちゃうからね」
ユーナは泣き笑いの顔で、こつんと私を軽く小突いた。
「いじわる」
私は笑いながら彼女の手を引いた。
「さあ、行こう。私たちの温泉を見に」
別荘の裏手には、独立した温泉の池が一つ、竹垣にぐるりと囲まれて、誰の目も遮っていた。
温泉の池はさほど大きくはないが、三人か四人なら十分に浸かれる広さはあった。
湯は淡い乳白色をしており、水面からはゆらゆらと湯気が立ち昇っている。
私はしゃがみ込んで、手で湯加減を探ってみた。
「ちょうどいい」
私は満足げに頷いた。
「夜になったら一緒に浸かろう。旅の疲れも取れるし」
ユーナの顔が、ぱっと赤くなった。
私は一瞬きょとんとしてから、彼女が何を考えているのかを理解して、思わず自分も頬が熱くなるのを感じた。
「あの……」
私は咳払いを一つした。
「別々にって意味でね……もちろん、一緒でも構わないけど……」
「クローディア!」
ユーナは羞恥と怒りが入り混じった声を上げた。
顔はさっきよりももっと赤い。
私は大声で笑いながら、逃げるようにして彼女の手を引いて温泉の池をあとにした。
居間に戻ると、机のうえに書類挟みが一冊置かれているのに気づいた。
開いてみると、今回の社会実習の詳しい日程表だった。
「どれどれ……」
私は素早く内容をざっと読み飛ばした。
「一日目は農業区での収穫補助、二日目は商業区での調査、三日目は温泉区での接客体験……」
私は眉をひそめた。フィオナ先生、これは私たちをタダ働きの労働力として使おうってわけね。
ユーナが身を寄せてきて覗き込み、それからその中の一行を指さして言った。
「クローディア、これ見て」
私が彼女の指の先を追うと、そこには小さな文字でこう記されていた。
「特別任務:クローディア班は農業区の全収穫作業の十分の一を担当すること」。
「十分の一?」
私は目を剥いた。
「農業区の、全部の十分の一? それ、いったい何反あると思ってるのよ!」
ユーナも心配そうな顔を浮かべた。
「フィオナ先生……もしかして、仕返ししてません?」
私は沈黙した。
さっき別荘を割り当てるときの、フィオナ先生のあの悔しがる顔を思い返せば、ユーナの推測はかなり当たっている気がした。
「あの根に持つ女め……」
私は奥歯を噛み締めて低く呟いた。だが、すぐにまた笑みが零れた。
「まあいいや。どうせ私たちにだってできないことはないし。体を鍛えると思えばいいわ」
ユーナは私を見つめた。
その目にはまだ心配の色が濃い。
「でも……」
「大丈夫」
私は彼女の手を握った。
「私がついてるから」
ユーナは私の迷いのない目を見つめて、ようやく頷いた。
窓の外では、夕陽の残光が山茶花のうえに落ち、白い花びらを金色に染め上げていた。
遠くからは他の学生たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる。
どうやら誰もがこの温泉町への旅に、大きな期待を寄せているらしかった。
私は深く息を吸い込み、空に満ちる花の香りと、温泉特有の硫黄の匂いを胸いっぱいに感じ取った。
七日間という時間は、長いと言えば長く、短いと言えば短い。
だが、どうあれユーナと一緒にこの時間を過ごせることそれ自体が、何よりも大切な贈り物だった。
フィオナ先生の「特別任務」など。
「ふん」
私は心のなかで冷たく笑った。
「私に挑戦しようって? そんなに甘くないんだから」
私は書類挟みを閉じ、ユーナの手を引いて食堂へと向かった。
夕食は簡素な家庭料理だったが、その味は思いのほか悪くなかった。
食後、私とユーナは別荘の中庭を散歩した。
月光が山茶花のうえに降り注ぎ、白い花びらを銀色に輝かせていた。
遠くからは他の学生たちの楽しげな話し声が聞こえ、ときおりカールハインツの太い声も混じっていた。
「クローディア」
ユーナが不意に足を止めた。
「あの温泉……やっぱり、一緒には入れない?」
私は彼女の方を振り返った。
ユーナのピンクの長い髪が、月光の下で柔らかな光を放ち、あの琥珀色の目には期待と、ほんの少しの狡さが滲んでいた。
「ユーナ」
私は溜息を吐いた。
「分かってるでしょ。私は今……身体は女の子だけど、心のほうはまだ……」
「まだ、なに?」
ユーナは小首を傾げた。
「まだ、前世のエイのままだと思ってる?」
私は黙り込んだ。
たしかに前世の私は三十歳の男で、エイは私の一番の親友であり、そして……私を密かに想ってくれていた人だった。
今では私たち二人ともこの異世界に転生し、彼女は私の専属のメイドとなり、それから恋人となった。
この関係の変化は、ときに私をどうしていいか分からなくさせる。
「クローディア」
ユーナは私の前に立ち、そっと私の両手を握った。
「まだ慣れてないのは、分かってる。でも……私たち、もう一緒になってるんだよ。そうでしょ?」
彼女の声はとても軽く、かすかな痛みが滲んでいた。
「ただ、もっとあなたと近づきたいだけ。前世じゃ、一度もできなかったみたいに」
私は彼女を見つめた。
胸の奥に、複雑な感情が込み上げてくる。
前世のエイは、いつも黙って私の後ろをついてきて、決して一線を越えず、決して告白もせず、私が不意の事故で命を落とすまで、あの「好き」の一言を、口にすることはなかった。
その後彼女もまた交通事故でこの世を去り、そうして私たちはこの異世界で再び巡り会ったのだった。
正式な手続きを経て、彼女はようやく、堂々と、自分の想いを表現できるようになった。
「ユーナ……」
私はそっと言った。
「もう少しだけ、時間をくれない?」
ユーナは私を見つめて、それから頷いた。
「うん。 待ってる」
だが、彼女の目のなかのあの狡い光だけは、彼女がまだ何も諦めていないことをはっきりと告げていた。
私たちはそのまま石畳の小道を歩き続けた。
道の両脇の石灯籠が柔らかな灯りを放ち、行く先を照らし出している。
遠くからは他の学生たちの楽しげな笑い声が聞こえていた。
「クローディア、見て。あそこの花、すごく綺麗」
ユーナが不意にそう言った。
私が彼女の指さすほうを見ると、そこには夜香木が一面に咲いていた。
白い花が月光の下で、ほのかな、奥深い香りを放っている。
「夜香木だ。夜にしか咲かないから、その名前がついたんだよ」
「不思議……」
ユーナが花に近づき、深くその香りを吸い込んだ。
「いい香り」
私は彼女の横顔を見つめた。
月明かりの下で、彼女の輪郭はとりわけ柔らかく映えていた。
ピンクの長い髪が夜風にそよぎ、幾筋かの髪が頬に張り付いて、たまらなく美しく見える。
「ユーナ」
「ん?」
「ありがとう」
私はそっと言った。
「ありがとう……待ってくれて」
ユーナは振り返って私を見つめ、それから笑った。
その笑顔は春の陽射しのように温かく、私の胸のなかの不安を、少しずつ溶かしていった。
「さあ、帰ろう」
彼女は言った。
「私も、ちょっと疲れちゃった」
「うん」
「クローディア、先に入ってて」
「絶対に入ってきちゃダメだからね」
「うん、うん」
ユーナはとても素直に応じた。
私は彼女のその素直な様子を見つめ、心のなかに疑いの念は残りつつも、とにかく彼女を信じることにした。
「じゃあ、本当に入るからね」
私はもう一度確かめた。
「うん、早く行って」
ユーナは笑って私の背を押した。
「私、絶対に入らないから」
私は半信半疑のまま温泉の入り口へと向かい、振り返った。
ユーナはまだその場に立ったまま、私に手を振っていた。
温泉の入り口は木造の佇まいで、その上には暖かな黄色い灯りの提灯が一つ掛かっていた。
扉を押し開けると、中は小さな脱衣所になっていて、壁には清潔な浴用タオルと浴衣が掛かっていた。
私は身に着けた衣服を脱ぎ、畳んで傍らの棚に置き、それからそばの木の柄杓で湯を汲んで全身を流した。温かい湯が皮膚を伝い、心地よい暖かさが広がる。
思わずほっと息が漏れた。今日一日の疲れが、お湯と一緒にすべて流れ落ちていくようだった。
身体を洗い終えると、私は浴用タオルを羽織り、もう一つの扉を押し開けて、露天の温泉へと歩いた。
温泉の池は私の想像より少しだけ大きく、三人か四人なら十分に浸かれそうだった。
湯は淡い乳白色で、水面からはゆらゆらと湯気が立ち昇っている。
池の縁は自然のままの石で組まれていて、見るからに素朴で自然だった。
私は恐る恐る足先を湯に沈めてみた。温度はちょうどよく、熱すぎず、ぬるすぎもしない。
それで私は浴用タオルを傍らの棚に掛け、ゆっくりと湯のなかへと身体を沈めていった。
温かな湯が全身を包み込み、言葉にできないほどの心地よさが広がる。
私は思わず満足げな溜息を漏らし、池の縁に凭れて、空を見上げた。
今夜の月はとても丸く、銀色の月明かりが降り注ぎ、周りのすべてを幻想的な色合いで染め上げている。
遠くの山並みは月明かりの下で濃淡さまざまな輪郭を描き出し、まるで一幅の水墨画のようだった。
思わず前世に、地球にいた頃の日々を思い出した。
あの頃、私も友人と一緒に温泉へ行ったことがあった。
だが、こんなふうにまったく異世界の環境のなかで、大自然の静寂と美しさに浸ることは、一度もなかった。
「ユーナもここにいればなあ……」
私はぽつりと呟いた。
だがすぐに首を振って、その考えを頭のなかから追い出した。
だめだ、クローディア、一線は守らなければ。
身体は女性でも、心はまだ男なのに、女の子と一緒に温泉に入るなんて……おかしすぎる。
私は深く息を吸い込み、目を閉じて、温泉が与えてくれる心地よさに身を任せた。
——ユーナ視点——
入るなと言われて、入らないわけがないじゃない。
私はにんまりと笑いながら、ゆっくりと温泉の入り口に入っていくクローディアの背中を見つめていた。
彼女の姿が入り口の向こうへ消えるのを確かめてから、私はこっそりと彼女のあとを追った。
何年もの片想いを抱えてきた私が、木綿城からアムニット市まで追いかけてきた私が、この心のなかの執着を、そう簡単に手放せるはずがなかった。
だが、私は慌てて飛び込んだりはしなかった。
入り口の前に立ち、数分が経つのを待ってから、ゆっくりとあとに続いた。
温泉は露天で、四方を高い塀に遮られ、他のどこからも視線が届かない。
そのため、プライバシーは十分に保たれていた。
私は脱衣所の入り口に身を潜め、クローディアがなかで身体を清め、それから温泉へと入っていくのをじっと見守った。
温泉のなかのクローディアが、地球から持ってきた歌を鼻歌で口ずさみながら、頭上のあの明月を見上げている。
そのとき、私はこれが好機だと確信した。
私は素早く自分の衣服を脱ぎ捨て、水魔法でさっと身体を清めてから、温泉へと一目散に走った。
クローディアはおそらくあまり気を配っていなかったのだろう。
私が彼女の真後ろに立つまで、ようやく彼女は私がもう中に入っていることに気づいた。
彼女は上から下まで、一糸まとわぬ私の身体をじろじろと眺め、顔をトマトのように真っ赤にして、何を言えばいいのか分からなくなっていた。
「あ、あ、あんた、入らないって言ったじゃない!」
彼女は両手で目を覆い、大声で喚いた。
だが私はまったく取り合えず、片足でそのまま温泉へと踏み込み、彼女の隣に腰を下ろし、それから両手で彼女を抱き上げて、自分の膝のうえに座らせた。
肌と肌が直接触れ合うその感触が、彼女の表情をたちまちさらに不自然なものに変えた。
「ちょっと! 何するの! ユーナ!」
彼女は怒ったようにそう言った。
胸のなかの恥ずかしさを隠すために、全身の最後の一片の力までも振り絞ったかのようだった。
「男女の別ってものを分かってるの? 私たち、まだ結婚もしてないのに、一緒にお風呂なんて、やりすぎだよ!」
クローディアは怒りながらそう言った。
「ふふん、男女の別ならもちろん分かってるわよ。でも、ここには男の人なんて一人もいないじゃない」
私は得意げな顔で言った。
「私がそうじゃないの」とクローディアは怒りに任せてそう反論した。
彼女はどうやら自分がもうすでに女性の身体になってしまったことを、いまだに受け入れておらず、ずっと男性のつもりでいるらしい。
私も彼女の選択は尊重していたが、とにかく彼女を少しからかってみたかったのだ。
「私はそうは思わないなあ。男の人がこんなのを持ってるはずないもの。それに、男の人ならここに何もついてないはずないでしょ!」
言い終わるか終わらないうちに、私のもう一方の手が、クローディアのそのまったく無防備な場所へと伸びていた。
まるで奇妙な感触を感じたかのように、クローディアが変な叫び声を上げた。
そして、私はクローディアに浴槽のなかから放り出された。
温泉から放り出されたその瞬間、私の頭のなかはまっさらになった。
それまで包み込んでくれていた温かな湯が、一瞬のうちに消え失せ、かわりに夜のひんやりとした空気が全身を抱きしめた。
石畳に叩きつけられた尻の痛さに、私は思わず歯をむき出しにして顔を歪めた。
「クローディア! 何するのよ!」
私は悔しそうに叫んだ。だが、返ってきたのはクローディアの怒り狂った咆哮だけだった。
「ユーナ! この大馬鹿!」
私が反応するより早く、一筋の魔力の波動を感じた。
次の瞬間、一枚の木の札が宙空に現れ、そこには四つの大きな字が書かれていた。
「私は痴女」
「ちょっと待って、クローディア、話を聞いて。」
「必要ありません!」
クローディアの声が温泉のなかから響いてきた。
その声には、明らかな羞恥が滲んでいた。
「門の前に正座して反省してなさい! 一晩中!」
「一晩中!?」
私は目を見開いた。
「風邪、引いちゃうよ!」
「あんた、火魔法、使えるでしょ。自分でなんとかして!」
「でも——」
「でももへちまもありません!」
私は口を開きかけて、まだ何か言おうとしたが、クローディアの全身から放たれる強大な魔力の波動を感じ取って、素直に口を閉じた。
今のクローディアは、本気で怒っている。
私は溜息を吐き、地面に落ちた木の札を拾い上げて首に掛け、それから別荘の門の前に歩いていき、正座した。
夜風が肌を撫で、冷たさが走る。
私は身震いを一つして、慌てて魔力で体の表面に薄い水の膜を作った。
保温もできれば、体も清潔に保てる。
まったくもう……ただ、もっと触れ合いたかっただけなのに。
でも、正直なところ、私は後悔なんてしていなかった。
さっき温泉のなかで、クローディアを抱きしめたあの瞬間。
私は彼女の体温を、彼女の鼓動を、そして彼女の身体からほのかに漂う山茶花の香りを、はっきりと感じていた。
あの感触、あの親密さは、前世の私が夢に見ながら、決して手に入れることのできなかったものだ。
今こうして罰として正座させられているのだとしても、それだけの価値はあった。
私は顔を上げ、空の月を見上げた。
月光が身体のうえに降り注ぎ、静かな安らぎをもたらしてくれる。
「クローディア……」
「前世の私ができなかったことを、今度こそ、絶対にやり遂げるから」
「あなたに、ちゃんと私を受け入れてもらう。私たちの関係を、ちゃんと受け入れてもらう」
「それにどれだけ時間がかかったとしても、私は待つから」
夜風が吹き抜け、遠くから山茶花の香りを運んできた。
私は目を閉じ、静かに正座したまま、夜明けの訪れを待った。
そして、温泉のなかではクローディアが池の縁に凭れたまま、頬のほてりが、いつまでも引ききれずにいた。
「あの馬鹿……」
彼女は低くそう罵った。だがその声には、どうしようもなさと、かすかな愛おしさが滲んでいた。
彼女は顔を上げ、空の月を見上げて、心のなかで固く誓った。
いつかきっと、自分は新しい自分自身を、完全に受け入れるだろう。
ユーナの想いを、完全に受け入れるだろう。
でも……それは、今日ではなかった。




