194. ユーアホテル、そして試泊の代償
馬車はゆっくりと、ユーアホテルの看板の掛かる大門をくぐり、山腹へ向かって進んでいった。
ユーアホテルの敷地に入ると、馬車の外に広がる草花も、それまでの無秩序に繁茂する野趣のままの姿から、手入れの行き届いた、剪定された庭園樹木へと姿を変えた。
ユーアホテルは、徹頭徹尾、私のデザイン言語に従って建てられたものだった。
それはもはや単なるホテルではなかった。
客に仮の休息を提供するだけのホテルではない。
客がこのホテルのなかで、大自然を体感し、大自然のなかへと溶け込み、大自然を感じ取ることができる。
そんな自然庭園の保養施設だった。
ここにはいわゆるメインの建物は存在しなかった。
ただ、敷地のあちこちに点在する別荘だけが、宿泊のために用意されていた。
どの別荘にも、それぞれに専用の温泉が備えられていることこそが、このホテルの最大の特徴だった。
それだけではない。
どの別荘にも、スタッフによって丹念に手入れの行き届いた中庭が設けられ、その中庭は、宿泊客の主寝室の真向かいに位置していた。
目を覚ますだけで、窓の外に一面に広がる緑あふれる中庭が眺められる。
どれほど心地のいい暮らしだろう。
馬車はゆっくりと、一群の別荘が建ち並ぶ区域へと向かった。
ここがおそらく、今回の私たちの宿泊する区画だった。
別荘区の入り口には木製のアーチが架かり、蔓草が一面に絡まって、自然そのままの古びた風情を醸し出していた。
アーチの両脇には一対の石灯籠が立ち、なかには柔らかな灯りが灯されていた。
「あれは花の国から学んだデザインんだ」
私は説明した。
「石灯籠は照明のためだけじゃなくて、装飾の役割もあって、静かで穏やかな雰囲気を作り出すんだよ」
ユーナは頷いた。
「道理で、なんだかとても特別な感じがするわけね。花の国の様式だったのね」
馬車が別荘区のなかへと進むと、道の両側にはさまざまな種類の花が植えられていた。
ユーナの視線が、どの花のうえにもほんのほんの少しずつとどまるのに、私は気づいた。
まるで、それらの美しさを味わっているかのようだった。
「この花たちって……」
ユーナが不意に口を開いた。
「季節に合わせて植えられてるの?」
「そうだけど」
私は少し驚いて彼女を見た。
「よく分かったね。どうして?」
「あっちに梅の花が見えるでしょ。こっちには山茶花があって、それにあっちは……」
彼女は窓の外を指差した。
「あれ、桜でしょ。もう花の時期は過ぎちゃってるけど」
私は笑った。
「ずいぶんよく見てるんだね。そうんだよ、四季の花を基準に庭園をデザインしたんだ。そうすれば、どの季節に来ても花が咲いてるのを見られるから」
ユーナは私を見つめた。その目には、ほんの少しの憧れが浮かんでいた。
「クローディア、あなたは本当にすごいね」
そう褒められて、私は思わず顔が熱くなり、小さく咳払いをして話題を切り替えた。
「もうすぐ着くから、降りる準備をしよう」
ほどなく馬車が停まり、私たちも馬車から飛び降りた。
フィオナとヘイティは、すでに一箇所に揃って立っていた。彼女たちは小さな東屋のなかに立ち、その周囲は一面の山茶花に囲まれていた。
まさに花盛りの季節で、白い花びらが微風のなかを静かに舞い落ち、まるで花の雨が降っているかのようだった。
フィオナ先生は見るからに上機嫌で、ヘイティ先生と何事か話し込んでおり、二人の顔には笑みが浮かんでいた。
私たちが馬車を降りるのを見ると、フィオナが手招きした。
「さあ、鍵を取りに来て」
学生たちはさっと群がり、がやがやと、自分たちに割り当てられる別荘の話題で持ちきりだった。
チャーリーは興奮気味にニーナの手を引っ張っていた。
「湖のそばの棟が当たりますように!」
ニーナは呆れたように首を振った。
「どこに泊まっても、同じなんじゃない?」
「同じじゃないよ! 湖のそばが一番眺めがいいんだから!」
チャーリーは食い下がった。私はそんな二人の口喧嘩を眺めながら、思わず笑みが零れた。
フィオナは手短に、明日の集合時間と部屋の鍵を割り振ってから、解散を宣言した。
鍵を受け取った級友たちは、解散の声を聞くや否や、当然ながら蜘蛛の子を散らすように、それぞれの鍵に書かれた番号の部屋へと一目散に駆け出していった。
何しろ、名高き温泉町の、名高きユーアホテルの温泉を、誰が味わわずにいられようか。
ところが、私はフィオナの手から鍵を受け取っていなかった。
そこで私は尋ねた。
「フィオナ先生、私の鍵は?」
「あんたは好きな別荘を好きに開ければいいじゃないの。どうせここの所有者んだから、タダで泊まれて当然でしょ」
フィオナの視線は、遠くの山の頂に聳える最も壮麗な建物のほうへと流れていた。
それはこのホテルで最も豪華な別荘で、専有の源泉を五つも引き込んでおり、敷地面積はゆうに千平方メートルに達した。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
私は溜息を吐いた。それから、フィオナに経営に関する基本的な知識を説明し始めた。
簡単に言えば、これが自分の財産だからといって、ホテルが我々から金を取らずに部屋を提供することはできる。
だが、私たちがその部屋を使っているあいだ、部屋の調度品や消耗品には使用による擦り減りや劣化が生じる。
それらはすべて費用に計上されるべきものであり、その費用は最終的に、所有者である私が支払うことになる。
私が支払うということは、今年一年のこのホテルの純利益を取り崩して、その穴を埋めるということを意味する。
結局のところ、私はこの部屋の代金を、ちゃんと自分で払っているのだ。
それだけではない。
もし私たちがここに滞在している七日間のあいだ、誰かがこの部屋に泊まりたがっていたとしたら、私はそのぶんの高額な宿泊収入までも失うことになる。
これが、最上級のスイートに私が泊まることの機会費用というものだ。
つまるところ、一見「無料で泊まっている」ように見えても、実際には、部屋の消耗にかかる実費を負担し、そのうえ手に入るはずだった宿泊収入までも棒に振っている。
今のエリクソン公爵領は金も銀も足りず、あらゆる研究事業が金欠で悲鳴を上げているときに、そんな費用を払って贅沢をする気には到底なれなかった。
「じゃあ、私たちがこの別荘に泊まってるのも、あんたは損をしてるわけ?」
フィオナはその深遠な知識を理解したわけではなかったが、ただ「損をする」ということだけは分かったらしい。
「こちらはすべて、新しく建てたばかりの基本クラスの別荘ですから。もともと人を泊めて試泊させ、意見を集めるために用意したものです」
私はにっこり笑って、そのまま一束の紙を取り出して、フィオナの前に差し出した。
「お手数ですがフィオナ先生、あとでみなさんにこのアンケートを書いてもらって、それから私に渡していただけませんか。よろしくお願いしますね」
傍らに立っていたヘイティが、耐えきれずに吹き出した。
何しろフィオナは当時、自分がこのお気楽な貴族の少女から上手く甘い汁を吸えると思い込んで、無料で温泉に浸かれるものだと信じきっていた。
だがヘイティは、クローディアが幼い頃からずっとそばにいた。
この子の腹のなかの計算高さがどれほどのものか、彼女は骨身に沁みて分かっていたのだ。
かつてのオリバー商会の連中も、他の地方貴族たちも、この小さな王女を公爵への突破口にしようと、物資で買収し、この領地の最高実力者を意のままに操ろうと、幾度となく手を伸ばしてきた。
だが例外なく、そのすべての者たちは、クローディアの緻密な計算の前に敗れ去った。
彼らは莫大な財産を注ぎ込んだうえで、自分たちの目的を果たせずに終わったのだった。
だからこそ、フィオナが彼女にこの話を持ちかけたときから、ヘイティは、自分のこの親友が痛い目を見るさまを、ずっと楽しみに待っていたのだ。
正式な手続きを経て、今、まさに、痛い目を見ている。
チャーリーとニーナは、それまで冷たく気高い氷の山とばかり思っていたフィオナが、私の前でまんまと手玉に取られる光景を目の当たりにして、思わず二人とも口に手を当てて笑いを噛み殺していた。
しばらくごねたあげく、成果のないまま、フィオナはついに溜息を吐いて、鍵を私に差し出した。
私はフィオナから真鍮の鍵を受け取った。そこには別荘の番号が刻まれている。
「さあ、行こう」
私はユーナとチャーリーとニーナの方へ振り返って言った。
ユーナはまだ眠たげな目を擦っていた。
どうやら馬車のなかでよほど気持ちよく眠っていたらしい。
チャーリーはというと、きょろきょろと周りの別荘群を見回しては、興奮を隠しきれない様子だった。
ニーナは相変わらず本を抱えたままだったが、その目もまた、思わず頁から外れて、この噂に名高い豪華な保養地を眺めずにはいられなかった。
私たちは石板を敷いた小道を前へと進んだ。
道の両側には剪定の行き届いた低木がずらりと並び、ときおり満開の山茶花が数本、目に飛び込んできた。
あれは私の一番好きな花であり、このホテルの園芸デザインの基調をなすものでもあった。
「クローディア」
チャーリーが不意に身を寄せてきて、目をきらきらと輝かせながら言った。
「あの一番大きい別荘には、やっぱり泊まれないの? あそこには温泉が五つもあるんだってね!」
私は苦笑しながら答えた。
「チャーリー、あの別荘が一泊いくらか知ってる?」
チャーリーは首を振った。
「五千金貨だよ」
私は五本の指を立てた。
「七日で三万五千金貨。これに温泉の維持費や召使いへの心付けは入ってない」
チャーリーは思わず大きく息を呑んだ。
五十金貨といえば、普通の商家にとっては、ほぼ半年分の収入に当たる額なのだ。
「だからね」
私は彼女の肩をぽんと叩いた。
「私たちは普通の別荘で十分。どうせどの別荘にも専用の温泉は付いてるんだし、あんたの身が削れるわけじゃなし」
チャーリーは口を尖らせたが、それでもこの現実を受け入れた。
私たちはすぐに、チャーリーとニーナに割り当てられた別荘を見つけた。
それはこぢんまりとした二階建ての建物で、外壁はクリーム色に塗られ、屋根は濃い鼠色の瓦で葺かれていた。
玄関前には小さな中庭があり、数本の梅の木が植えられていた。
ユーナが一番好きな花だ。
「ユーナ」
私は彼女の方を振り返った。
「これ、あなたがデザインしたの?」
ユーナの頬がほんのりと赤らみ、彼女は小さく頷いた。
「私……庭師にお願いして、どの別荘の前にも、違う種類の花を植えてもらったんです。そうすれば、お客さまが自分の好みに合わせて選べると思って」
「じゃあ、あなたたち二人は、先に少し休んでて」
私は鍵をチャーリーに差し出した。
「夕飯の時間になったら、フィオナ先生が知らせてくれるから」
チャーリーは鍵を受け取るや否や、待ちきれないようにニーナの手を引っ張って、別荘のなかへと飛び込んでいった。
ニーナは引っ張られてよろめき、手にした本が落ちそうになったが、彼女はただ、あきれ顔でため息をついただけで、文句は言わなかった。
二人の姿が扉の向こうへと消えるのを見届けてから、私とユーナは、自分たちの別荘へ向かってさらに歩き続けた。
私たちの別荘はこの区画の最も奥まった場所にあり、山際に近かった。
ここは外周よりもずっと静かで、ただ木の葉を擦る風の音と、遠くから聞こえる鳥の声だけが耳に届いた。
「クローディア」
ユーナがふと口を開いた。その声はとても軽かった。
「ん?」
「ありがとう」
私は一瞬、呆れた。
「何が?」
ユーナはうつむいて、ピンクの長い前髪が横顔を覆い隠した。
「ありがとう……ユーアホテルのデザインに、私も参加させてくれて」
そう言われて、ようやく思い出した。
ユーアホテルを建てた当初、たしかに私はユーナの意見を求めたのだった。
あの頃彼女はまだ前世の記憶を取り戻しておらず、うちに来たばかりの頃だった。
私は彼女に何かやることを見つけてあげたくて、もう一度、生きる意味を見つけてほしかった。
だから彼女を連れて、一緒にホテルのデザインに携わったのだった。
「馬鹿ね」
私はそっと彼女の手を握った。
「このホテルは、もともと私たち二人のものじゃない。あなたの意見がなければ、完成しないんだから」
ユーナは顔を上げた。その目は、少しだけ潤んでいた。
「それに」
私は笑って付け加えた。
「ユーアっていう名前、あなたがつけたんじゃない。それなのにデザインに参加させなかったら、あまりに不公平でしょ」
ユーナは、ようやく笑った。
その笑顔は、春の陽射しのように温かだった。




