193. 温泉町への道中、そして妬みの視線
温泉町へ発つ当日。
朝の光のなか、四台の白い幌馬車が静かに馬車道へと並んでいた。
私はユーナの手を引いて、出発を待つ列の最後尾に立っていた。
早朝の薄霧はまだ晴れきっておらず、白い幌布には細かな朝露が真珠のように凝っている。
それが昇り始めたばかりの朝陽を浴びて、きらきらと眩い光を散らしていた。
出発が早朝だったため、この時間はちょうど一般の生徒たちが大勢登校してくるタイミングだった。
彼らは校門の近くに陣取る立派な馬車列を見て、一様に「何事だ?」と困惑の表情を浮かべている。
今日、学校がまた何を企んでいるのか、彼らにはこれっぽっちも想像がつかないのだろう。
通りすがりの二年生の男子生徒が足を止め、首を傾げて馬車をじろじろと眺めていた。
彼の視線は、真っ白な幌から頑丈そうな車輪へと流れ、最後に馬車の前方に掲げられたエリクソン公爵領の紋章へと釘付けになった。
——翼を広げた蒼鷲が、鋭い鉤爪で長剣を握りしめている、我が家の紋章だ。
それを見た彼の表情は、困惑から驚きへ、そして瞬く間に強烈な羨望へと変わっていった。
けれど、彼らは間もなく知ることになる。
なぜ、ここに四台もの豪華な馬車が用意されているのか。
校庭には、すでに私たちのクラスの面々と、銀色の長い髪をした女教師が集まっていた。
今日のフィオナ先生は、普段のドレスではなく、動きやすそうな濃い青の旅装束に身を包んでいる。
美しい銀髪は一本のシンプルな帯で後ろにすっきりと束ねられており、どこか旅慣れた手際の良さが滲み出ていた。
先生の手には羊皮紙の巻物が握られており、うつむいて出席名簿を真剣に確認している。
その隣には、ヘイティ先生も立っていた。
胸元に小さな布包みを大事そうに抱え、その童顔にいつもの優しい笑みを浮かべている。
「みなさん、これから伝える隊列の通りに馬車へ乗り込み、温泉町へと向かいます。こら! カールハインツ、そこの筋肉モグラ! ちょこまか動かないの!」
フィオナ先生は書類から顔を上げることすらなく、鋭い声を飛ばした。
手にした羽根ペンが、羊皮紙の上でさらさらと小気味よい音を立てる。
今この瞬間も、カールハインツは列のど真ん中で盛大にふざけ倒していた。
あの筋肉野郎はチャーリーの鞄を奪って頭の上に掲げ、チャーリーはぴょんぴょん飛び跳ねてそれを取り返そうとしている。
二人は隊列のなかで、完全に取っ組み合いの騒ぎになっていた。
ニーナはその傍らに立ち、首を振るたびに綺麗な青い髪をそよそよと揺らしていた。
口の中で何事かと低く呟いているようだったけれど、その表情を見るに、きっとカールハインツへのろくでもない悪口に違いない。
列の最後尾に立つ私は、それを見て深い、深いため息を吐いた。
何しろ精神年齢が「四十三歳」のアラフォーとしては、この年頃の子どもという生き物がいかに扱いづらいか、痛いほどよく分かっている。
前世の三十年にわたる社畜暮らしに、今生の十三年を足せば、私の精神年齢はこの子たちの親世代に十分達していた。
余った活力を全身から揚々と漲らせているカールハインツのあの顔を見ていると、つい前世の会社にいたお調子者の新卒研修生たちを思い出してしまう。
同じように、つらつとしていて、同じように先輩の頭を痛めさせる連中だった。
ユーナもまた、隣で黙ってフィオナ先生の血圧の無事を祈っているようだった。
彼女はこっそり私の指先を摘まむと、声を潜めて私の耳元でささやいた。
「フィオナ先生、もう今にも爆発しそうだね」
私が横を向くと、ユーナのピンクの長い髪が朝風にふわりと揺れた。
あの綺麗な琥珀色の瞳には、いたずらっぽい悪戯な笑みが浮かんでいる。
「しっ」
私も声を極限まで潜めた。
「先生に聞かれたら、私たちまで連帯責任で巻き添えを食らうからね」
今回、ヘイティ先生はフィオナ先生たっての希望で、特別に随行教師として一緒に来てくれることになった。
生まれたばかりの赤ちゃんは公爵邸に残し、旦那さんに世話を丸投げしてきたそうだ。
彼女の旦那さんも、ヘイティ先生が親友であるフィオナ先生と一緒に出かけたいという気持ちを、とても尊重してくれたらしい。
何しろ、これほど長いあいだ離れ離れになっていて、しかもかつて命を救ってくれた大恩人だ。
一緒に旅行に出かけたいと思うのは、ごく当たり前の感情だろう。
だから旦那さんも、自ら進んで熱心に育児をこなし、使用人たちの手を借りながら、快く赤ちゃんの留守番を引き受けてくれたのだ。
私は昨日、公爵邸でヘイティ先生の旦那さんに会ったときの光景を思い返した。
あの男の人は、いかにも不器用そうな手つきで産着に包まれた赤ちゃんを抱き、顔には緊張と幸福が入り混じったような笑みを張りつけていた。
ヘイティ先生が出発の準備をしているのを見るや、文句を言うどころか、むしろ急かすように背中を押したのだ。
「せっかくフィオナ先生と再会できたんだから、何日かゆっくり羽を伸ばしてきなよ。家のことは全部、俺に任せておいて」
あのとき、ヘイティ先生は顔を真っ赤にして、もごもごと「遊びじゃなくてお仕事だから……」と言い訳していた。
けれど旦那さんはただにこにこと頷くばかりで、『分かってる、分かってるよ』と言わんばかりのあの温かい表情が、とても印象に残っている。
どうやらヘイティ先生は、見た目こそいまだに緊張しいの童顔少女のようだけど、家庭生活は思いのほか円満で幸せなようだった。
その時だった。
外に停まっている馬車を不思議そうに眺めていた、これから教室へ向かう一般の生徒たちが。
この一団が今から「温泉町」へ行くのだと知り、しかもあの豪華な馬車が彼らを運ぶのだと理解した瞬間。
彼らの心は、音を立てて木っ端微塵に崩れ落ちた。
何しろ、自分たちはこれから冷たい教室に行って退屈な授業を受けねばならないというのに。
目の前の下級生たちは、よりによってこの領地で最も名高い、憧れの高級リゾート「温泉町」へ行くというのだ。
この世界において、「旅に出る」ということは、それだけで富と地位のある者の証だった。
普通の平民は、よほどの用事がなければ生まれ育った土地を出ることはない。
旅費がもったいなくて、遊び目的の旅行など夢のまた夢だった。
私は、上級生たちの表情が、困惑から衝撃へ、そして暗い影を落とすような深い絶望へと変わっていくのを目の当たりにした。
眼鏡をかけた男子生徒の一人などは、あまりのショックに胸を押さえ、何か途方もない精神的打撃を受けたかのようにふらついている。
別の女子生徒は、私たちの馬車を穴が開くほど見つめ、その目には『どうして私たちじゃないの!?』という文字がありありと書かれていた。
だというのに今、目の前の生意気な下級生どもは温泉旅行へ行くというのだ。
彼らの目尻からは、今にも嫉妬の血の涙が滲み出そうだった。
うらやましさのあまり、全員の目が真っ赤に染まっている。
「くそっ! 俺だって温泉に行きたいんだよ!」
どこからともなく、一人の生徒の絶望に満ちた叫びが響き渡った。
「俺だってそうだよ! 当たり前のことを言うな!」
別の叫びがすぐさま応じる。
声のした方角を見ると、三年生の男子生徒二人だった。
彼らは校舎の階段の上に立ち、これ以上ないほど悔しそうに地団駄を踏んでいる。
周りの生徒たちも次々に激しく頷いて同調し、校庭はしばしのあいだ、すさまじい嘆きの声に包まれた。
彼らは教室へ向かう足を完全に止め、その場に立ち尽くしたまま、下級生たちがはしゃぎ声を上げながら四台の馬車へと乗り込んでいくのを、ただ指をくわえて見守っていた。
チャーリーが真っ先に馬車へと飛び乗る。その動きは俊敏で、まるで小サルのようだった。
カールハインツがその後をぴったりと追い、まだチャーリーの鞄をからかいながら、二人は馬車の中でもにぎやかにじゃれ合っている。
ニーナは慎重にステップを踏んで乗り込み、窓際の席を見つけて腰を下ろすと、すぐに胸元から本を取り出して静かに読み始めた。
そうして上級生たちは、楽しげな笑い声を乗せた馬車列が、校門の向こうへと消えていくのを、じっと見送るしかなかった。
かくして、今日のアムニット学院には、うらやましさのあまり魂の抜けた生徒の群れと。
それから、幸福の絶頂にいる生徒の群れが、同時に誕生したのだった。
馬車は整備された石畳の道を、心地よく揺れながら進んでいく。
私は車内で、窓の外の景色が次第にアムニットの街並みから、のどかな田園風景へと変わっていくのを眺めていた。
温泉町は、エリクソン公爵領の南方開拓区に位置してはいるものの、その最も北の端にあり、旧領地との境界に最も近い場所にある。
その抜群の地理的条件こそが、温泉町を、公爵領全体の南北を結ぶ「物流の要」へと押し上げていた。
南方開拓区から集まる無数の膨大な原材料や産物と、北方の既存の領地から届く洗練された加工製品。
エリクソン領の二大地域を結ぶこの温泉町へと、すべての富が集約されていく仕組みになっているのだ。
ふと気づくと、ユーナが私の肩に頭を預け、馬車の揺れに合わせてこっくりこっくりと小さく揺れていた。
その呼吸は等間隔で、とても穏やかだ。
どうやら、いつのまにか眠ってしまったらしい。
私は彼女を起こさないよう、慎重に自分の姿勢を少しだけ調整し、彼女がもっと楽に体重を預けられるようにした。
大量の南北の商人たちがこの温泉町に集まるのは、ただここに見事な温泉保養地があるからだけではない。
ここが、互いに商売をする上で「最も効率のいい取引場所」だからだ。
彼らは地主である私に、毎年高額な土地使用料(テナント料)を支払い、土地を借りてギルドの倉庫を建て、商品を蓄える。
それだけでなく、彼らは温泉町の商業区内で日々莫大な取引を行い、その商業税だけで、私の手が痺れるほどの莫大な収入を毎年もたらしてくれていた。
私は心のなかで、そっと直近の利益を計算してみた。
温泉町の年間の商業税収入は、すでに金貨二万枚を超えている。
これには、土地の使用料や私が直営する保養地の収益配分は含まれていない。
新興の街としては、破格の数字だ。
何よりも重要なのは、この温泉町の成功が「南方開拓区には莫大なポテンシャルがある」という証明になり、さらに多くの商人や移住者を惹きつける呼び水になっていることだった。
そんな大富豪の思考を巡らせているうちに、私の馬車は、夕暮れの美しい残光に包まれた温泉町のゲートへとゆっくり滑り込んでいった。
馬車が温泉町の城門をくぐるとき、街を守る兵士たちが私たちに向かって、ピシッと美しい敬礼を送るのが見えた。
彼らは馬車に掲げられた公爵家の紋章を目ざとく見分けて、敬意を払い、そして熱意を込めて出迎えてくれたのだ。
ここ温泉区には、すでに多くの温泉旅館や保養施設が立ち並んでいた。
他の貴族が建てたものもあれば、大商人が出資したもの、我が公爵家が所有するもの。
正式な手続きを経て、隣で眠るユーナでさえ、ここに自分名義の小さなホテルを一つ持っている。
何しろ温泉町は、南方開拓区のなかでも比較的広い平原の一角に位置している。
温泉区のすぐ背後には雲を突くような雄大な高山が聳え立ち、その山麓には何百という源泉が湧き出て、無数の天然温泉を形作っていた。
さすがに私一人では、これほど多くの温泉をすべて開発しきることはできなかった。
そこで私は、前世の「独占開発権(ライセンス販売)」の仕組みに倣い、これらの源泉を二十年の期限付きで商人や貴族たちに売却し、彼らの資金で温泉ホテルを建設させたのだ。
...そして自分自身はというと、当然、立地も景色も最も優れている最高の一等地をいくつか厳選して囲い込み、そこに一軒の至高のホテルを築き上げた。
それこそが、私たちが今日から一週間、寝泊まりする場所だ。
ホテルの名前は——『ユーア・ホテル』。
この名前は、他でもないユーナがつけたものだった。
あのとき、彼女は顔を真っ赤にしながら、私にこう言ったのだ。
「……二人の名前を、半分ずつ合わせたら、素敵じゃない?」
(ユーナの『ユー』と、クローディアの『ア』)
私はそれを断らなかった。
そうして、この温泉街で最も豪華で最高級とされる保養地には、ほんの少し甘ったるい、二人のための名前がつけられたのだった。




