192. 学校の昼食、そして秋の落ち葉
昼食の時間になった。
学院には食堂があるのだが、普段の私はめったに足を運ばない。
いつもユーナが美味しいお弁当を用意してくれるからだ。
けれど今日はフィオナ先生からの誘いがあり、断りきれずにしぶしぶついていくことになった。
学院の食堂の雰囲気は、いいとも悪いとも言い難かった。
ただ一言で表現するなら。
とにかく、うるさい。
木製の長机がずらりと並んだ広い部屋で、生徒たちがトレイを手に縫うように歩き、注文窓口の前には長い行列ができている。
空気には独特な食べ物の匂いと、調理場から流れるかすかな煙の気配が混ざり合っていた。
あらゆる方向から襲いかかってくる喧騒は幾重にも重なり合い、しばらく聞いているだけで少し頭が痛くなってくる。
私とユーナはフィオナ先生に続いて席に着き、荷物を置いた。
するとその瞬間、先生は顔いっぱいに、なんとも意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「ねえ。あんたたちのそのお弁当、先生にも少し分けてくれない?」
「……え?」
私とユーナは同時に困惑の表情を浮かべた。
けれど、せがまれるままに、腕に嵌めた魔導の腕輪から用意していたお弁当を取り出し、机の上に並べた。
フィオナ先生の目の前には、教員用窓口から取ってきたらしい食事が広がっている。
パサついた黒パンが三切れ。
それに、ドロドロとした煮込み料理が一品と、肉の煮込みが一品。
見た目からして、その煮込みは不気味に黒々と光っていた。
表面には得体の知れない油の層が浮いており、文字通り「過剰に煮込まれすぎた」成れの果てであることを疑わせない。
その二つの塊はどう見ても食欲をそそるものではなく、漂ってくる匂いからも、美味しそうな要素は微塵も感じられなかった。
一方、私たちの前に並んだお弁当箱の中身はというと。
ユーナ特製の「じゃがいもと豚肉の煮込み」と、「キャベツと肉の生姜炒め」だ。
じゃがいもの煮込みは、今朝早くからユーナが仕込んでくれていたもので、一時間近くじっくりと火が通されている。
出汁をたっぷり吸い込んだじゃがいもは、箸をすっと差し込めばほろりと崩れるほど柔らかい。
そのホクホクとした質感は、見ているだけでよだれが出そうになる。
一緒に煮込まれたお肉の端にはプルプルとしたコラーゲンの膜が張り、全体が美しい飴色に輝いていた。
味が限界まで染み込んだお肉を一口かじれば、口の中で繊維がほろほろと優しく解けていく。
キャベツの炒め物は、また違ったベクトルで絶品だった。
シャキシャキとした瑞々しい白と緑が鮮やかに映え、強火で一気に炒められたお肉の香ばしさが鼻腔をくすぐる。
キャベツから滲み出た甘い水分とお肉の旨味が絡み合い、口に運べば最高の歯応えとともに、豚の脂のまろやかな甘みが心地よい余韻を残した。
主食として添えられているのは、ユーナが蒸し上げた、ふかふかの白い蒸しパンだ。
真っ白に丸く膨らんだそれを手で割れば、内側はきめ細かく、モチモチとしている。
じゃがいもの濃厚なタレに浸して食べてもいいし、真ん中を開いてキャベツとお肉をぎっしり挟んで食べてもいい。
どんな食べ方をしても、舌の上に確かな幸福感を届けてくれる代物だった。
フィオナ先生の器の底で黒ぐろと沈んでいる「ナニカ」に比べれば、どちらが魅力的なお昼ご飯であるかは、火を見るより明らかだった。
「……先生。ほんのちょっとだけ、本当にちょっとだけですからね?」
ユーナが釘を刺すように言う。
だが、先生の耳には届いていなかった。
彼女は私たちの袋に入っていた三つの蒸しパンから、迷わず一つを奪い取った。
それと同時に、二つのお弁当箱からそれぞれ半分近くの料理をスプーンで見事にすくい上げたのだ。
その一連の動作は恐ろしいほど鮮やかで手際がよく、息つく暇もない。
まるで、最初からこうすることを完璧に計画していたかのようだった。
「先生……それのどこが『ちょっと』なんですか?」
ユーナは呆然としながら、じゃがいもを口に含んでこの世の終わりかと思うほど幸せそうな表情を浮かべるフィオナ先生を見つめ、思わずそう呟いた。
「仕方ないじゃない……! あんたたちの家の料理、美味しすぎるんだもの。それにこの『じゃがいも』っていう新しいお野菜、ホクホクして柔らかくて、本当に最高なんだから……!」
フィオナ先生は再びスプーンでお肉をすくい上げて口に運び、その瞳にほとんど敬虔とすら呼べそうなほどの深い満足感を浮かべた。
先生は私と教員契約を交わして以来、公爵邸に住み込むようになっている。
だから当然、我が家の、この世界の常識を遥かに超越した食卓の恩恵に預かっていた。
ちなみに「じゃがいも」は、私が地球の知識から持ち帰って農場に栽培を委託し、ようやく量産試験段階に入ったばかりの作物だ。
そのため今のところ市場には一切出回っておらず、この世界でこれを口にできるのは私たち関係者だけだった。
そしてフィオナ先生は、どう見ても筋金入りの「食いしん坊」だった。
彼女自身の話によれば、アムニット学院で教鞭を執ってきたこの六年間、三度の食事のほとんどをこの学院の食堂で済ませてきたらしい。
黒パン、謎の煮込み、たまに添えられる塩漬け肉。
これらの料理に共通する特徴は「栄養は足りるが、味は完全に死んでいる」という一点に尽きる。
黒パンは石のように硬く、スープに浸さないと喉を通らない。
煮込みはいつも代わり映えせず、塩だけで無理やり味をつけている。
たまに出る塩漬け肉だけが、唯一の御馳走だったという。
彼女は、自分はもうその味に慣れたのだと思い込んでいたのだ。
……公爵邸に住み、初めてじゃがいもと豚肉を一緒に煮込んだ「地球の家庭料理」を口にするまでは。
あの時、食卓の前に座った彼女は、器の煮込みを一匙、また一匙と口へ運び、食べ進めるごとに目の輝きを増していった。
そして最後には、器の底を磨くようにきれいに平らげたのだ。
私は彼女の真正面に座り、その「食いしん坊の化けの皮」が剥がれ落ちる瞬間をまざまざと目撃した。
学院で見せるあの氷の女神のような冷徹な姿とは、笑ってしまうほどのギャップだった。
今さら彼女を、あの黒々とした未知の煮込みの前に戻せる道理があるだろうか。
そんなの、絶対に不可能だ。
先生自身、もう以前のような暗黒の食生活には二度と戻りたくないのだろう。
私は仕方なくため息を吐き、ユーナにそっと耳打ちした。
「……これからは、先生の分のランチも一緒に用意してあげたほうが良さそうだね」
その言葉を聞いた瞬間、フィオナ先生は心底ありがたそうな表情を浮かべた。
なんなら、目元に熱い涙すら滲ませて、私たちのことをじっと見つめてくる。
まるで『言ったからには絶対に毎日作ってよね』と無言でプレッシャーをかけているかのようだ。
外ではあれほど「氷の女神」として恐れられ、全身に圧倒的な威厳を纏っているフィオナ先生が、誰かにお弁当を作ってもらえるというだけで、ここまでキャラをかなぐり捨てた表情を晒すなんて。
あまりにもギャップが激しすぎるではないか。
昼食が終わり、私とユーナがお弁当箱を片付けて立ち上がろうとした時、フィオナ先生が何気ない様子で一言を付け加えた。
「そうそう。今回の温泉街の実習だけど、カリキュラム以外の時間は完全な自由行動を認めているからね。たしか温泉エリアは今の時期、まだ繁忙期じゃなかったはずよ。お客さんも少なくて、ちょうど静かでいいと思うわ」
「あ、はい。わかりました」
私は軽く頷いた。
その時は、特にそれ以上の深い意味は何も考えなかった。
私たち二人が食堂をあとにして、教室へと戻る廊下を歩いていた時のことだった。
周囲に他の生徒がいないのを見計らって、ユーナがふと声を潜め、私の耳元に頭を寄せて囁いた。
「……クローディア」
普段の学園生活では、私の偽名である「ケイシー」と呼ぶ彼女が、誰もいない場所でだけ、私の本当の名前を呼ぶ。
「ん? どうしたの?」
「温泉……一緒に入っても、いい?」
彼女の声は普段よりもほんの少しだけ弾んでいて、隠しきれない小さな期待が、かすかに滲んでいた。
私は一歩、足を止めた。
振り返って、少し俯きがちになっている彼女の視線と真っ正面から目を合わせる。
ピンク色の綺麗な髪が耳のあたりにふわりと寄り添い、白い頬には淡い紅潮が差していた。
さっきの食堂が熱気で暑かったせいかもしれないし、あるいは、別の理由かもしれない。
私はふんと鼻を鳴らし、何でもないような顔をして視線を外した。
それなのに、胸の奥が、不思議なくらいほんのりと温かくなっていくのを感じていた。
「……どうせうちの温泉なんだから、もちろんいいに決まってるでしょ」
ユーナは蚊の鳴くような声で「うん」と小さく返事をして、さらに顔を伏せた。
けれど、その愛らしい口元の口角が、嬉しさを堪えきれないようにこっそりと上がっていくのを、私は見逃さなかった。
廊下の突き当たりには、大きな窓ガラスを通して斜めから秋の柔らかな日差しが差し込んでいた。
石敷きの床の上に、二本の影が長く、長く引き伸ばされている。
その影は、半分だけ、寄り添うように重なり合っていた。
私は何も言わなかった。彼女も何も言わなかった。
ただ並んで歩きながら、二つの影は静かに重なったまま、教室の方角へと向かっていく。
廊下の先で、小さな中庭の横へと差し掛かった。
冷涼な秋の風が庭をすり抜け、廊下へと優しく吹き込んでくる。
枯れた葉っぱが一枚、風に運ばれて、カサリと石畳の上を滑った。
私が足元でそれをそっと踏むと、乾いた木の葉はいくつかの破片に砕け散った。
ユーナは歩みを止め、屈み込むと、その中の一片をそっと拾い上げた。
白い指先でくるりと回し、それから何気ない仕草で、私の手のひらの上にぽんと置いた。
「秋だね」
彼女は静かに言った。
「うん。 秋だね」
私はその枯れ葉の破片を指先でつまみ、今にも崩れてしまいそうな、カサカサとした薄い手触りを確かめる。
それからしばらく見つめたあと、いつも持ち歩いている小さな手帳のページの間に、そっと挟み込んだ。
その理由を、私は言わなかった。
そしてユーナも、あえて聞こうとはしなかった。




