190. 秋の書斎、そして道の先の街
何しろ、実家の麦刈りを手伝うための秋季休暇だ。
期間は当然、さほど長くはなかった。
エリクソン領の全土に石畳の街道が整備される前は、この休暇は二週間ほどあったらしい。
だが、道路の整備に伴って各都市や村の移動時間が大幅に短縮された結果、休みまで引きずられるように短くなってしまったのだ。
これがいいことなのか悪いことなのかは、なんとも言えない。
街道がよくなれば商業は潤うが、そのぶん学生の休み時間が削られてしまうのだから。
そしてこの一週間、私は畑に出て麦刈りをする必要こそなかったものの、まったくのんびり過ごせたわけではなかった。
領地の製鉄技術を底上げするため、地球から持ち帰った書籍の翻訳を進めなければならなかったからだ。
冶金という分野は、この世界において完全に未開の領域だった。
地球で数百年の産業革命を経て磨き上げられてきた知識の数々は、この世界には比較参照できる資料すら存在しない。
ましてや、そのまま右から左へ応用できる道理もなかった。
魔法の存在は、ある意味でこの世界に技術探求のプロセスをいくつも飛び越えさせた。
だが、こと金属の製錬技術にかけては、そのぶん長らく停滞を余儀なくされていたのだ。
翻訳そのものは、さして難しくない。
難しいのは、専門用語の変換だった。
この世界には「炭素」という言葉すら存在しない。
私は散々考え抜いた末に、結局、自分で新しい用語をでっち上げることにした。
——「炭素」。
この世界にすでにある魔素や精素といった概念に準えれば、少なくともそれが「何らかの基質成分」を指すのだと、職人たちに理解してもらえると思ったからだ。
いささか無理のある造語ではあったが、何も手がかりがないよりは、ずっとマシだった。
ユーナは机の向かいに座り、手には帳簿を一冊抱え、ときおり顔を上げて私の様子を窺っている。
あの薄い色をした瞳が私の顔に留まる時間は短いが、その頻度はかなり高かった。
まるで、私がサボっていないかどうかを、さりげなく監視しているかのようだ。
「炭素? なんか、響きが変じゃない?」
彼女は首を傾げた。
ピンクの髪が肩から滑り落ちて、帳簿の縁にかかる。
「じゃあ、代わりに名前をつけてみる?」
私はペンを放り出し、どうぞご自由にと言わんばかりの仕草をしてみせた。
どっかりと椅子の背にもたれかかり、彼女の返事を待つ。
「……『黒晶精素』なんて、どうかしら」
私は三秒、沈黙した。
その三秒のあいだ、私は頭のなかで「黒晶精素」の四文字をゆっくりと反芻し、そこに何らかの合理性を見出そうと努めた。
結果、何もなかった。
私は一言ずつ区切るように、静かに言った。
「やめて。炭素でいい」
ユーナは小さく鼻を鳴らし、再び下を向いて帳簿の照合に戻った。
もうこの話題には手を出さないつもりらしい。
私もペンを拾い上げ、次の一節の翻訳を続けた。
書斎は元の静寂へと戻り、ただペン先が紙のうえを走るかすかな音と、ときおりページをめくる軽い音だけが響く。
今週中に訳さねばならない分量は、正直かなりのものだった。
私が地球から持ち帰った書籍は、基礎冶金学から熱処理加工、そして一部の機械構造原理にまで及んでいる。
どれを取っても数百ページはある厚さだ。
もちろん、すべてを完訳するつもりは毛頭なかった。
職人たちが読んで理解し、実際に応用できる内容は、そのうちのごく一部に過ぎない。
産業機械に関わる章などは、たとえ翻訳したところで、対応する設備がなければ意味がない。ひとまず棚上げだ。
だから私が実際にやっているのは、原文を読んだあと、この世界で通じる言葉で核心的な考えを組み立て直す作業だった。
工業インフラに依存する前提条件を削ぎ落とし、すぐにでも地に足のつく部分だけを抜き出して、実践的な小冊子にまとめる。
この作業は、純粋な翻訳よりもはるかに頭を使う。
書籍の翻訳以外にも、私は戦争流民の受け入れ、教育、就業の仕事も処理しなければならなかった。
父はこともなげにこう言ったのだ。
「クローディア、お前の農場はあれだけ大きくなったんだ。流民の半分ほどはお前に任せるよ」と、ひらひらと手を振って。
まったく見事なまでの丸投げだった。
だが幸いなことに、私にはユーナの助けがあった。
私たちは前世でそれぞれ、それなりに本を読んでいた。
あちこちの歴史書や社会学のなかで目にした「統治の知恵」を、パッチワークのようにかき集める。
どうにかいくつかの管理条例をこしらえ、農場の上級管理職に実行を命じたあとは、もうそれ以上は構わなかった。
先人が踏み抜いた穴は、こちらで避けて通ればいい。
管理条例はそう複雑なものではなく、大きく三つに分けられている。
食料と、住居と、医療だ。
食料については、各都市や村から備蓄の穀物を調達し、同時に担当者に流民の各家庭の人数を調査させ、一人当たりで配給を行った。
これで世帯主による独り占めを防ぐ形になる。
具体的な配給量は、エリクソンの冬場の基礎的な熱量要求を参考に、統計の誤差を見越して一割ほどの余裕を持たせた。
住居については、既存の仮設小屋ではとても足りなかった。
秋が深まれば、北方の夜の気温は急激に下がる。
仮設小屋の断熱効果などは、ほぼゼロに等しい。
そこで私は工事班に命じて、農場の北側に空き地を区画し、数棟の臨時の煉瓦造りの長屋を建てさせた。
決して広くはなく、各戸につき主室が一つと、小さな中庭があるだけだった。
だがそれでも、遮風と防雨を兼ねた煉瓦の壁があれば、秋の冷え込みに震えることはない。
煉瓦は現地調達で、費用はかなり低く抑えられた。
魔法を活用した大規模な急速建築も、今ではこの農場の得意分野の一つだった。
そして、一番厄介だったのが医療だ。
流民のなかには当然、老人も子どももいれば、長旅の末に風邪をひいた者、栄養失調で手足が浮腫んだ者、まだ塞がりきっていない外傷を抱えた者もいる。
私はアムニット市内から高額の報酬で二人の医者を雇い、さらに農場にもともとあった初歩的な医療所を加え、どうにかこうにか凌いだ。
費用は農場の帳簿から支出し、あとで私の個人的な貯金から一部を補填するつもりだ。
ユーナは傍らで、黙って、もう一条を付け加えた。
単身の女性流民には別区画の居住地を割り当て、女性の管理者を置いて日常の業務を担当させる。
これで不安要素を減らそうというわけだった。
そんなふうにして私たち二人は、書斎のなかで丸二日かけて流民の管理体制を組み上げた。
条例が現場に下りてゆくと、農場の上級管理職たちは最初こそ面食らった顔をしていた。
だが、そのうち私のほうを向いてしきりに感心し始めた。
条項がはっきりしていて、非常に運用しやすいと。
さもありなん、と私は心のなかで思った。
何しろ私とユーナが参考にしたのは、地球上で数百年にわたって実地に鍛え上げられた社会管理の経験だ。
この世界の人々からすれば、まさに次元の違う、圧倒的な格の違いを見せつける形になったのだ。
休暇の七日目、私は馬車のなかに寝そべるようにして、アムニットへの帰路についた。
秋の田園が馬車の両側に広がっている。
麦の穂はすでにきれいに刈り取られ、ただ一列また一列と、刈り株の金茶色の根だけが土のなかに残っていた。
遠くの丘では木の葉が赤や黄色に色づき始め、誰かが大きな刷毛を手に、山全体を思いつくままに塗り散らしたかのようだった。
赤、黄、橙の色が幾重にも重なり合い、乱れながらも不思議な調和を成している。
炊煙が街道沿いの村々から気怠げに立ち昇り、空気には秋特有の乾いた、ほのかに甘い草木の匂いが満ちていた。
ときおり風が吹き抜け、舞い落ちる枯葉を一枚か二枚、馬車の動きに沿うように横へとさらっていく。
私は車窓に凭れてそのすべてを眺めながら、考え事をしたかと思うとすぐに意識が戻り、また少し思考が流れ、また戻り——
いつのまにか、こっくりこっくりと舟を漕ぎ始めていた。
今週はさすがに気を遣いすぎた。
翻訳に、条例の執筆に、そのうえ父から次々と送り込まれてくる伝令への対応だ。
睡眠時間こそ足りていたが、精神的な消耗は無視できないほどであった。
ふと我に返ると、私は無意識のうちに、自分の頭をこっそりユーナの肩へと寄せていた。
彼女はまだ手に一冊の帳簿を抱えたまま、ぴくりとも動かずに座っている。
その姿勢は端然としていて、まるでこうなることをとうに見越していたかのようだった。
「もしかして、私が寄りかかってくるの、分かってた?」
私は少し気まずくなって身体を起こし、自分の耳に触れながら言った。
「目をとろんとさせ始めたときから、分かってた」
彼女は帳簿を一ページめくりながら、ごくありふれたことのように淡々と言った。
「じゃあ、どうして払いのけたりしなかったの」
「払いのける理由がないでしょ」
彼女は顔も上げなかった。
「あんた、全然重くないし。乗っかってても気にならないし」
私は一瞬息を呑み、彼女の横顔を二秒ほどじっと見つめた。
だが、何の言葉も浮かばず、結局は俯いて窓の外の景色に目をやるふりをした。
耳の縁がほんのり熱くなり、私はこっそり手を伸ばして、長い精霊の耳に触れてみる。
私の感情に合わせるように、尖った耳がぴくぴくと小さく震えていた。
あまりひどく動いていないことを確かめて、ほっと胸をなでおろす。
幸いユーナは下を向いて帳簿に見入っていて、こちらの様子には気づいていなかった。
馬車はでこぼこの路面をゆっくりと進み、車輪が石くれを踏み砕く低い音が響いていた。
私はそれ以上何も言わず、ただそうやって座って、窓の外の黄金色の野原を見つめながら、何もなかったことにした。
窓の外の景色は、しだいに田園から街道脇の並木へと変わり、さらに城下の民家へ、そしてアムニットの外郭の石造りの城壁へと変わっていった。
アムニットの通りには、すでに秋特有の気配が漂っていた。
物売りたちが道端で秋の新鮮な果物や野菜を声高に売り込み、行き交う人々の衣は夏より一、二枚多く重ねられている。
私は車窓に凭れて、このもう二年近くも住み慣れた街が、ゆっくりと目の前を通り過ぎていくのを眺めていた。
心のなかに、静かで、しっかりと地に足のついたような安堵が広がっていくのを感じていた。




