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188. 裏切りの杯、そして喉元の剣

 ハインツは領地から届いた情報に目を通しながら、眉を深くひそめていた。


 この村はグリーン公爵領の辺境に位置し、もともとは静かでのどかな土地だった。


 背の低い石造りの家々が道の両側にほどよく並び、炊煙が細く立ち昇って、夕暮れの空にゆっくりと溶けていく。


 しかし今、村のなかには張り詰めた空気が満ちていた。


 ハインツの軍がこの村に駐屯を始めて、すでに三日になる。


 兵士たちは村外れの空き地に隙間なく天幕を張り、軍馬は臨時の木杭に繋がれ、ときおり苛立たしげな嘶きを上げていた。


 ハインツは村の議事堂を改造した臨時の指揮所に座っていた。


 この部屋はもともと村長が来客をもてなすための場所だったが、今では壁に地図と戦況報告が所狭しと貼られている。


 粗末な木の机のうえには各方面から届いた情報の巻物が山と積まれ、なかには土や血糊がこびりついたものもあった。


 前線から緊急で送り返されたものに違いない。


 彼が今、手にしている情報は、領内に張り巡らせた密偵の網からの報告だった。


 放った間者や、領内からもたらされる報告のほぼすべてが、同じ事実を示している。


 エイドリアンがグリーン公爵領の外縁に集結させた軍隊は、すべて彼、ハインツを狙ったものだ。


 ハインツは広げられた地図に視線を落とした。


 地図には赤い印で、エイドリアン軍の集結地点が記されている。


 グリーン公爵領の東、南、北の三方から、半包囲の陣形を取っていた。


 重騎兵の野営地を示す印は、あたかも無数の抉られた傷口のように、平原の一帯にひしめいている。


 何しろライリーダシア王国はほぼ全土が山地だ。


 もし本当にライリーダシア王国への圧力が目的なら、山岳戦を得意とする山岳部隊を召集すべきである。


 ハインツの指が机の面を規則正しく叩き、鈍い音を立てていた。


 彼はこの兄のことを、あまりにもよく知っていた。


 エイドリアンは決して常道を踏む男ではない。


 彼の一手一手には、もっと深い思惑が隠されている。


 山岳部隊だって? ただの目くらましに過ぎない。


 真の狙いはいつだって、ただ一つ。


 彼——ハインツ・フォン・ハーランド、グリーン公爵、皇帝の実の弟だ。


 そして、エイドリアンがグリーン公爵領を囲むように召集した兵士たちは、おおむね平原戦に適した重騎兵ばかりだった。


 彼は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。


 窓の外では、夕陽がゆっくりと地平線へと沈み、空を血のような朱に染めていた。


 遠くの平原には、エイドリアン軍の陣営の焚き火がぼんやりと見え、無数の覗き込む目のように、宵闇のなかでちらついていた。


 あの重騎兵の軍馬は、どれも選び抜かれた名馬で、一頭一頭に法外な値が付く代物だ。


 エイドリアンは彼を叩くために、本気で莫大な資金を投じたらしい。


 ハインツの口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。


 重騎兵、平原戦、これらの言葉が一筋に繋がれば、指し示す答えは火を見るより明らかだ。


 グリーン公爵領はおおむね全域が平野で、目立った起伏はほとんど見られない。


 彼の領地はたしかに広大な平原であり、肥沃な土が豊かな収穫を育み、百万の民を養っている。


 だが今この瞬間、この平原こそが最も致命的な弱点となった。


 重騎兵の突撃を前に、身を守る要害のない平原は、広げられた白紙のように、蹂躙されるままだった。


 この軍勢が誰を狙ったものか、一目瞭然だ。


 ハインツは振り返り、再び椅子に腰を下ろした。


 彼は机の杯を手に取り、なかに残った赤ワインを一息に飲み干した。


 酒が喉を灼き、熱い痛みが走るが、心の底の寒気は少しも晴れなかった。


 エイドリアンがついに動いた。


 彼の予想よりずっと早く。


 ハインツは、いつかはこの兄が自分に牙を剥く日が来るとは思っていた。


 だが、こんなに早いとは。


 彼の視線が壁に掛けられた一枚の肖像画に向けられた。


 それは彼らの父、先帝ヴァレンシオ・フォン・ハーランドの肖像だった。


 画のなかの老人の眼差しは深く、この世のあらゆる陰謀や策略を見透かしているかのようだった。


 ハインツは父が臨終の床で自分に言った言葉を、今も覚えている。


「ハインツ、お前のほうがエイドリアンより皇帝に向いている。だが、争うな。あの座は、お前を滅ぼす」


 あのとき彼は、父の言葉の意味が分からなかった。


 今、ようやく分かった。


 エイドリアンの算段は、よくできている。


 まず、彼、ハインツの手を借りてエリクソン領を弱体化させ、同時に彼の戦力を消耗させる。


 そのうえで「反乱鎮圧」の名のもとに兵を出し、二つの脅威を一挙に取り除く。


 何と完璧な計画か、何と冷酷な心か。


 ハインツは認めざるを得なかった。


 彼の兄は、たしかに優れた策謀家だ。


 だが、幸いにもいくつかの事態が変わった。


 エリクソン公爵領は深刻な打撃を受けず、しかも自身の兵力にも影響は出ていない。


 ブレン要塞の一戦で、エリクソン公爵領は驚くべき戦闘力を見せつけた。


 クリスト家のあの狂女、そしてその娘、クローディア——どちらも容易に手を出せる相手ではなかった。


 ハインツは戦場の光景を思い返した。


 あの魔導巨砲の轟音が、まだ耳の奥に残っている。


 エリクソン領は要塞を守り切っただけでなく、彼の魔人部隊にも少なからぬ損耗を強いた。


 それよりも重要なのは、彼の主力部隊が無傷で残っていることだ。


 魔人化させた兵士たちは、みなシヴァ公爵の兵を使っていた。


 ハインツの目に一瞬、冷たい光が走った。


 シヴァ公爵ランカスター。


 あの愚か者は、自分がただの駒だと、最後まで知らなかった。


 ハインツは聖水で彼の兵士たちを改造し、痛みを知らぬ魔人の戦士へと変えたのだ。


 これらの魔人はブレン要塞の一戦で大きな損害を被ったが、中核戦力はまだ健在だった。


 それに、死んだのはどうせ彼の兵ではない。


 これからは、いよいよ完全に決裂して牙を剥き合う段階だ。


 シヴァ公爵の兵士たちも、もう生かしてはおけない。


 ランカスターのあの阿呆は、今なお自分はただ「作戦協力」に来ているだけだと思い込んでいる。


 あの男はエイドリアンの命令だけを聞く。


 もしこのまま彼を解放して帰してしまえば、それは敵に兵を献上するも同然だ。


 ハインツは立ち上がり、天幕の入り口へと歩み寄った。


 夜の帳がすでに大地をすっぽりと覆い、星のように散らばる陣営の焚き火が闇のなかで瞬いている。


 彼は深く息を吸い込んだ。


 空気には青草と土の匂いが満ち、その奥に、かすかな血の臭いが混じっている。


 戦争の匂いだった。


「 誰か 」


 ハインツが低く命じた。


 数名の千人隊長が直ちに天幕へ入り、片膝をついて命令を待った。


 彼らはみな、長年ハインツに従ってきた古参兵であり、数多の戦場を潜り抜け、忠誠心に一点の曇りもない。


「俺の命令を伝えよ。第一、第三、第五の千人隊は、密かに北東方向へ移動し、シヴァ公爵の野営地の外周に包囲陣を敷け。いいか、誰にも悟られるな」


 ハインツの声は低く、冷ややかだった。


「第二、第四の千人隊はこの場で待機。いつでも援護に動ける用意をしておけ」


「はっ!」


 千人隊長たちは声を揃えて応じ、すぐさま立ち上がって足早に天幕をあとにした。


 ハインツは彼らの去っていく背中を見送りながら、その目に一瞬、複雑な光を宿した。


 彼は分かっていた。


 この瞬間から、もはや後戻りはできないのだと。


 夜が更けるにつれ、村の外れの平原では、一隊、また一隊と、音もなく移動を始めていた。


 馬の蹄には布が巻かれ、兵士たちは声を潜め、まるで一群の亡霊のように闇のなかを縫って進んでいく。


 ハインツは高台に立ち、自らの部隊が夜陰のなかへと消えていくのを見下ろしながら、胸の奥に奇妙な感慨が込み上げるのを感じた。


 それは恐怖であり、興奮でもあった。


 絶望であり、希望でもあった。


 彼は知っていた。


 今夜から、ハーランド帝国は、永遠に変わる。


 ——


 夜。 ハインツの天幕。


 天幕のなかは灯火で昼のように明るく、いくつかのランプが隅々まで照らし出していた。


 ハインツは中央の席に端然と座り、目の前には小さな卓が一台、そのうえに酒壺と杯が二つ。


 彼は濃い色の軽装に着替え、見た目は公爵というより、どこにでもいる普通の貴族の子弟のようだった。


 その表情は平静で、あたかも旧友の訪れを待っているかのように見えた。


 だが、自分の鼓動がどれほど速まっているかは、彼自身だけが知っていた。


 一方、シヴァ公爵ランカスターは、なぜハインツがこんな夜更けに自分を呼び出したのか、その真意を測りかねていた。


 だが、相手が皇帝の実弟である以上、一応の敬意は払わねばならない。


 ハインツには分かっていた。


 この男はただ、エイドリアンが自分を監視するために送り込んだ、目付け役に過ぎないのだと。


「グリーン公爵、このような時刻に、いったいどのようなご用件でしょうか」


 ランカスターが天幕へ入りながら、怪訝そうな表情で言った。


 彼の背後には二人の護衛が付き従っていたが、ハインツの衛兵に幕の外で制止された。


「シヴァ公爵、どうぞお掛けを」


 ハインツは微かに笑み、向かいの席を指し示した。


「少しばかり、重要な話があってな」


 ランカスターは一瞬ためらったが、やはり腰を下ろした。


 周囲を見回し、天幕のなかにハインツ一人しかいないことに気づくと、胸の奥に微かな不安が走る。


 だが、彼はすぐに自分に言い聞かせた——ハインツがいくら大胆でも、皇帝の側近である自分に手を出す度胸などあるはずがない、と。


「さあ、一杯どうだ」


 ハインツは酒壺を手に取り、ランカスターの杯に酒を注いだ。


「私の領地から取り寄せた、年代物の美酒だ。シヴァ公爵もぜひ味わってくれ」


 ランカスターは杯を受け取ったが、口にはつけなかった。


 彼の視線はハインツの顔に張り付き、相手の表情から何かを読み取ろうとしている。


 だが、ハインツの顔はどこまでも平静で、それどころかどこか穏やかな微笑みさえ浮かんでいた。


「グリーン公爵、夜も更けております。いったい何が重要な話なのですか」


 ランカスターはもう一度問いかけた。


 その声には、いくぶん苛立ちが混じっていた。


 ハインツは答えなかった。


 ただ、じっと彼を見つめた。


 その眼差しは、ランカスターに名状しがたい寒気を走らせた。


 だが、次の瞬間——


 ランカスターは、どこからともなく飛び出してきた一人の兵士に、いきなり押し倒された。


 冷たい剣の刃が、瞬時に彼の首筋に突きつけられた。


 あまりに、速すぎた。


 ランカスターは反応する間もなく、巨大な力で床に組み伏せられ、後頭部が絨毯のうえに激しく打ちつけられた。


 視界が一瞬、暗転する。


 彼がようやく我に返ったときには、すでに一振りの冷たい剣が彼の喉元にぴたりと当てられ、刃の鋭い切っ先が皮膚に密着し、骨まで凍るような冷たさが全身を貫いた。

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