187. 再会の抱擁、そして行き違いの手紙
「それで、その後は?」
ユーナが堪えきれずに尋ねた。
「ヘイティ先生は……」
「その後?」
フィオナは顔を上げ、その目に一瞬の優しさがよぎった。
「その後はね、私が彼女をうちに引き取ったのよ」
彼女は立ち上がり、本棚の前に歩み寄ると、指先で一列の背表紙をそっと撫でた。
「あの頃は二人とも卒業したばかりで、文字通り無一文だったわ」
「私はアムニット市で家庭教師の仕事を見つけて、毎日貴族の子弟に魔法の基礎を教えていた」
「収入は微々たるものだったけど、二人で暮らしていくくらいはどうにかね」
フィオナは振り返り、本棚に背を預けて、口元に懐かしそうな笑みを浮かべた。
「ヘイティはあのとき、本当にひどい状態だったわ」
「一日中部屋に閉じ籠もって、ろくに食べも飲みもしなかった」
「だから私は毎日食事を作って彼女の部屋の前に置いて、扉を叩いて『ご飯、ここに置いておくから、ちゃんと食べてね』って言っていたの」
「それが一ヶ月ほど続いたある日、家に帰ったら、彼女が居間のソファに座っていたのよ」
「顔色はまだ真っ青だったけど、少なくとも人に会う気にはなったみたいでね」
フィオナの声が柔らかくなった。
「彼女、私に言ったの。『フィオナ、ありがとう』って。あの一言で、それまでの苦労がすべて報われた気がしたわ」
私とユーナは静かに耳を傾けていた。
胸の奥に、じんわりと温かさが込み上げてくる。
フィオナとヘイティの間には、そんな過去があったのか。
「それで、その後は?」
私が尋ねた。
「その後はね……」
フィオナは執務机へと戻り、腰を下ろした。
「ヘイティは少しずつ元気を取り戻して、再び魔導学の研究を始めたわ」
「そして彼女は私に、エリクソン領へ行きたいと言い出したの」
「あそこなら公爵夫妻が非人間種族に比較的寛容だと聞いているから、もしかしたらエドアルド教授の行方も掴めるかもしれない、ってね」
「それで彼女は行ってしまったんですか」
私が尋ねると、フィオナは頷いた。
「落ち着いたら手紙を出すと言ってね。私は待った、待ち続けたわ。だけど一年経っても、何の音沙汰もなかった」
彼女の声音には、かすかな恨み言が滲んでいた。
「心配でいてもたってもいられなくなって、私は仕事を辞めて、エリクソン領まで彼女を探しに来たのよ」
「まるまる一年、アムニット市の隅々まで訪ね歩いたわ。でも、彼女の消息はまるで掴めなかった」
「そういうことでしたか……」
私は合点がいった。
「それでフィオナ先生がアムニット学院で教えることになったんですね」
「そう。もともとは人探しに来ただけだったのに、気がつけばもう一年もここにいるわ」
フィオナは笑った。
「それならもう、このままここに腰を据えようと思ったの。いつか、どこかで彼女に会えるかもしれないから」
彼女は私を見つめた。
その目に、感慨の色が滲んでいる。
「まさか彼女が、公爵邸で家庭教師をしていたなんてね」
「道理でアムニット市のなかをいくら探しても見つからないわけだわ。あんな奥まった場所にいたんじゃ」
「ヘイティ先生は今、とても元気にしていますよ」
私は言った。
「美味しいものをたくさん食べて、顔色も良くて少しふっくらとして、それに良いお相手を見つけて結婚して、お子さんもいらっしゃいます」
「なんですって!?」
フィオナの手にしていた羽根ペンが、ぱきんと音を立てて折れた。
彼女は目をまん丸に見開き、表情は驚愕から信じがたさへ、そして……怒りへと変わっていった。
「あの小娘が、そんなに早く恋人を作ったというの!? しかも子どもまで!?」
フィオナの顔つきがどこか険しくなり、彼女は勢いよく立ち上がって、部屋のなかを足早に行きつ戻りつした。
「忌々しいわね。あんなに生真面目で純朴そうな顔をしておいて、私を裏切るなんて!」
「裏切り……?」
私とユーナは顔を見合わせた。
「私に何の相談もなく、こっそり恋人を作って、それどころか結婚相手まで見つけるなんて!」
フィオナはかんかんに怒って、両手を腰に当てた。
「私たち、一生独身のまま、老後まで一緒に暮らそうって約束したじゃない!」
「……」
私とユーナは互いに目を合わせ、同時に相手の目から同じ考えを読み取った。
「これがつまり、『友人の苦労は心配だけど、自分を差し置いて幸せになるのは許せない』ってやつか……」
私はユーナに向かって小声でそう言うと、ユーナも呆れ顔で深く頷いた。
フィオナがここまで腹を立てる理由は、クラスでのもっぱらの噂通り、彼女がいまだに独身だからだろう。
「彼女に会わせてくださらないかしら、クローディア様」
フィオナはこのときすでに、本棚の隠し戸棚から物騒な大ぶりのナイフを取り出していた。
刀身が陽の光を受けて、冷たい光をきらめかせている。
「お引き合わせするのは構いませんが、先生、まずはその刃物を置いていただけませんか……」
私は唾を呑み込んだ。
結局、私たちはフィオナ先生と二つの条件を取り決めた。
第一に、彼女は私の本当の身分を学院のなかで誰にも明かさないこと。
第二に、彼女はヘイティ先生に対して、決して物騒な行動に出ないこと。
フィオナの約束を取り付けたあと、私たちはクローディア商会を通じて一台の馬車を手配し、フィオナ先生を連れて公爵邸へと向かった。
馬車がアムニット市の街路をゆっくりと進む。
車輪が石畳を軋ませ、「ゴトゴト」という音を立てていた。
フィオナは車内に座り、両手を膝のうえに揃え、窓越しに外の景色を見つめている。
その表情は一見、落ち着いているようだったが、ときおりぎゅっと握り締められる拳だけは、彼女の心の内の緊張を隠しきれていなかった。
「フィオナ先生、大丈夫ですか……?」
私は慎重に声をかけた。
「大丈夫よ」
フィオナの声音はどこか硬かった。
「ただ……少し、緊張してるだけ」
「緊張?」
ユーナが少し驚いたように言った。
「先生でも緊張することってあるんですか」
フィオナは苦笑した。
「だってもう何年も会っていないのよ」
「彼女がどんなふうに変わったのか分からないし、もし私のことを忘れていたらどうしようって」
「もし私に会いたくないって思われていたら……」
その声には、かすかな脆さが滲んでいた。
この瞬間、彼女はもはやあの威厳のある教師ではなかった。
ただの、旧友との再会を目前に控えた、一人の女性だった。
「そんなこと、ありませんよ」
私がそう言って慰めた。
馬車はほどなく、公爵邸の門前に停まった。
荘厳な建物が夕陽に映えてことさら堂々と見え、門前の衛兵たちは恭しく私たちに敬礼した。
私はフィオナを連れて、ヘイティ先生の部屋のある方角へと歩いた。
廊下には厚い絨毯が敷き詰められ、足音を完全に吸い込んでいた。
壁には代々の公爵の肖像画が掛けられ、どの目も私たちをじっと見据えているようだった。
「先生、今よろしいでしょうか」
「アムニットで先生の同窓生を見つけまして、ぜひ先生と積もる話をしたいとおっしゃっているのですが」
私は扉を叩いた。
部屋のなかから擦れのような微かな物音がして、それからヘイティ先生の声がした。
「え? クローディア様? あ、ちょっと待ってくださいね」
ほどなくして、部屋の扉が開かれた。
ヘイティは入り口に立ち、簡素な部屋着を身につけ、髪を無造作に後ろで一つにまとめていた。
私の顔を見たとき、その表情には柔らかな笑みが浮かんだ。
だが、私の隣に立つフィオナの姿を認めた瞬間、その笑みはぴたりと凍りついた。
「フィ……フィオナ……?」
ヘイティの声が震えた。
「久しぶりね、ヘイティ」
フィオナの声もまた、どこか張り詰めていた。
二人はそうして、ただ見つめ合った。
時間が、この一瞬だけ止まったかのようだった。
それから、ヘイティは突然、飛びつくようにフィオナに抱きついた。
「この大馬鹿!」
ヘイティの声は涙声だった。
「どうして手紙の一枚もよこさなかったのよ!」
「私がどれだけ心配したか、分かっているの!?」
フィオナは一瞬、呆気に取られたが、それから彼女もヘイティを抱き返し、そっと背中を叩いた。
「私は出したわよ。でも、一度も返事が来なかった」
「だからてっきり、私のことなんて忘ラークに(忘れてしまったんだと)思ってた……」
「私はあんたの手紙なんて、一通も受け取っていないわよ!」
ヘイティは顔を上げた。
目が真っ赤だ。
「てっきり、あんたが私に怒って、もう顔も見たくないんだと思ってたのに……」
「そんなわけ、ないでしょ……」
フィオナの声も震えていた。
私とユーナは傍らに立ち、この胸を打つ再会の場面を眺めながら、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「先生方、ここで立ち話もなんですから、応接間でゆっくりお話になりませんか」
私がそう提案すると、二人は何度も頷き、手を繋いだまま、使用人の案内で応接間へと向かった。
応接間にはすでに、使用人たちが茶菓子と果物を用意していた。
ヘイティとフィオナはソファに腰掛け、まるで堰を切ったように、昼過ぎから夜まで話し続けた。
ハーランド魔法高等学院での思い出、卒業後の苦労、この数年のあいだの互いの変化。
フィオナは家庭教師をしながらヘイティを探し続けた日々を語り、ヘイティは公爵邸に腰を落ち着け、今の夫と出会い、可愛い子どもを授かるまでの経緯を語った。
「ところで、あなたの旦那様はどんなお仕事を?」
フィオナがいくぶん品定めするような口調で尋ねた。
「公爵邸の衛兵長をしています」
ヘイティの顔に、幸せそうな笑みが浮かんだ。
「身分は高くありませんけど、とてもいい人で、私にも子どもにも優しくしてくれます」
「衛兵長ね……」
フィオナは考え込むように頷いた。
「聞くからに、頼りになる人のようね」
「そうなの」
ヘイティはフィオナの手を握った。
「フィオナ、ありがとう。あのときあなたが助けてくれなかったら、私はきっと……」
「そんな話はいいの」
フィオナは彼女の言葉を遮った。
「私たち、友達でしょ?」
ヘイティは頷いた。
また、目が少し潤んでいた。
窓の外では夕陽が次第に沈み、空を一面の橙色に染め上げていた。
応接間の魔晶灯が自動で灯り、柔らかな光を放ち始める。
すっかり日が暮れたのを見て、ヘイティ先生はフィオナに、今日はこちらに泊まっていくようにと誘った。
フィオナも快く承諾した。
「ところで、フィオナ。エドアルド教授の消息は何か知ってる?」
ヘイティが不意に何かを思い出したように、フィオナのほうへ顔を向けて尋ねた。
「あの爺さんね……」
フィオナはソファに凭れかかり、その目はどこか遠くを見つめるようだった。
「非人間種族って理由で学院を追い出されてからは、めったに噂も聞かなくなったわね」
彼女は間を置いてから続けた。
「でも、まったく消息がないわけじゃないの」
「去年、まだ私がハーランド帝国にいたころ、別のルートから聞いたんだけど、エドアルドはエリクソン公爵領へ行く計画があるみたいよ」
「え? あの人がここに?」
ヘイティも私も、思わず声を上げた。
何しろ両親はエドアルド教授を捜すために、かなりの時間を費やしてきたのだ。
今のところ唯一確かめられた情報といえば、彼はいまだグリンマン帝国内で活動しているらしいということだけだった。
フィオナは頷き、それから視線を私のほうへと向けた。
「なにしろうちのクローディアお嬢様が、エリクソン公爵領で推し進めた改革が、外の世界でもすっかり評判になってるからね」
フィオナの口元には、なにか意味ありげな笑みが浮かんでいた。
「高収量の作物に、新しい料理、魔導技術……エドアルド教授のような学者が、ここに興味を持たないはずがないでしょ?」
私はぽかんとした。
なるほど……エドアルド教授はもう、エリクソン領へ向かっているのかもしれない?




