番外編——HOI4
※本作は番外編であり、とあるゲームに着想を得た妄想作品です。本編との物語上の繋がりは一切ありません。
午後の陽射しが公爵邸の書斎の窓硝子を通じて差し込み、オーク材の床のうえに光と影の斑模様を落としている。
空気にはかすかな墨の匂いと、羊皮紙の気配が漂っていた。
クローディアにとっては、これ以上なく馴染み深い匂いだ。
クローディア・エリクソン。
エリクソン公爵家の令嬢は、いま、広々としたマホガニーの執務机のうえに突っ伏して、眠りに落ちていた。
その寝顔は穏やかで、そして疲れ切っていた。
白金色の長い髪が瀑布のように机のうえに広がり、幾房かは頬のあたりに落ちて、かすかな寝息に合わせてそよそよと震えている。
普段は聡明な光を湛えているあの碧い瞳は今は固く閉ざされ、長い睫毛が瞼の下に淡い影を落としていた。
片腕を折り曲げて頭の下に敷き、もう一方の手は力なく机の脇に垂れている。
ここ数日、彼女は本当に疲れ果てていた。
冶金技術の高度化が、正念場を迎えていた。クローディア農場の系列研究所は新型の高炉の開発に取り組み、鉄鋼の生産量と品質を、揃って新たな段階へと押し上げようとしている。
事業全体の総責任者として、クローディアは技術の細部の一つひとつを、自ら精査せねばならなかった。
耐火素材の選定から炉温の管理、鉄鉱石の配合からコークスの投入量に至るまで、どの工程も間違いは許されない。
「クローディア様、この耐火煉瓦の耐熱試験が失敗しました。配合の見直しが必要です」
「クローディア様、製鉄炉の送風系統を改良しなければなりません。現在の風力では、理想の炉温に届きません」
「クローディア様、新たに採用した職人たちは経験不足で、研修が必要です……」
さまざまな問題が潮のごとく押し寄せ、クローディアを休ませなかった。
彼女は毎日、研究所と公爵邸のあいだを往復し、自ら実験の進捗を確かめ、職人たちと技術案を議論し、購入リストに承認を与えた。
そして冶金技術以上に彼女の頭を悩ませていたのが、難民の受け入れだった。
ハーランド帝国では内戦がすでに勃発していた。戦火はいまだエリクソン領には及んでいないが、大量の難民がすでに流入し始めている。
家を失った人々は家族を連れ、わずかな家財だけを抱えて、このまだひとまず平穏な土地に、一縷の生きる道を見出そうとしていた。
クローディアは、彼らを拒めなかった。
彼女は自分の前世を思い出した――あの地球で、父も母もなく、独りでもがき続けたロンのことを。
もしあのとき、エイたちの家族が手を差し伸べてくれなければ、彼の人生は違ったものになっていただろうか。
「農場の新区画に住まわせて。高齢者と女性、子どもを優先して」
「食糧の供給を滞らせないように。倉庫から備蓄の穀物を融通して」
「医療班を巡回させて。感染症の有無を確認して」
「子どもたちはまず学校へ。教育を遅らせてはいけないわ」
次々と指令が彼女の書斎から発せられ、公爵領の隅々へと届けられていった。
クローディア農場はかつてない速度で拡大し、新たな住宅地、新たな農地、新たな作業場が、雨後の竹の子のように次々と姿を現した。
だが、これらすべてに必要なのは、金であり、資源であり、人手であった。
クローディアは毎日、こうしたことに心身をすり減らし、睡眠時間は限界まで削られていった。
彼女の目の下には淡い隈が浮かび、それは睡眠不足の証だった。
肩はいつも張っていて、それは長いあいだ机に向かい続けた代償だった。
そして今、彼女はついに、執務机のうえで眠りに落ちていた。
ユーナが、足音を忍ばせて書斎の扉を押し開けた。
彼女の手には精巧な銀の盆が一つ。
そのうえには二人分の昼食、クローディアの一番好きなクリームマッシュルームのスープと焼きたてのパン、そして湯気が立つ紅茶が載っている。
ユーナは知っていた。クローディアがここ数日、どれほど疲れ切っているかを。
だからこそ、わざわざ厨房に立って、これらの料理を自ら用意したのだ。
「クローディア、お昼にしよう……」
ユーナがそっと声をかけた。
しかし机に突っ伏してぐっすり眠っているクローディアの姿を目にしたとき、彼女は思わず足を止めた。
ユーナは盆を脇の卓にそっと置き、執務机へと歩み寄った。
クローディアの疲れ果てた寝顔を見つめ、胸の奥に切なさが込み上げてくる。
「まったく、いつも無理ばかりして……」
ユーナは低く呟き、手を伸ばして、クローディアの頬にかかった髪をそっと払った。
本当なら起こそうと思っていたのに、こんなに気持ちよさそうに眠っているのを見ると、どうにも忍びなかった。
ユーナは溜息を吐き、もう少しだけ眠らせてあげようと決めた。
目覚めたときに顔を拭けるように、まずは温かい手拭いを用意してこよう。
ユーナは踵を返して書斎をあとにし、そっと扉を閉めた。
ユーナが去った、そのすぐあとのことだった。奇妙なことが起きた。
一筋の柔らかな白光が、不意に虚空から立ち現れ、月光のように書斎のなかへと降り注いだ。
その光は眩しくはなく、むしろ暖かく神秘的な気配を帯びて、ゆっくりと、机に突っ伏したクローディアを包み込んだ。
机のうえに散らばっていた、何枚かの白紙の便箋までも。
白光はおよそ十数分にわたって続き、それから次第に薄れ、まるで最初から何もなかったかのように消え去った。
書斎はもとの静寂に戻った。何事も起こらなかったように。
ただ、あの数枚の便箋だけが――何か、微妙な変化を起こしていた。
ユーナが書斎へと戻ってきた。彼女の手には湯を張った盥があり、そのなかには清潔な熱い手拭いが浸されている。
執務机へと歩み寄り、クローディアの肩をそっと押した。
「クローディア、起きて」
ユーナは優しい声で言いながら、クローディアの白く滑らかな細い腕を揺さぶった。
クローディアはゆっくりと顔を上げ、まだ夢から醒めきらぬ目で、自分を揺り起こしたユーナを見つめた。
視線はどこか散漫で、明らかにまだ眠りの淵から完全には戻っていなかった。
「ん……ユーナ?」
クローディアの声は、濃い寝ぼけを孕んでいた。
「私、どれくらい寝てた?」
「たいして経ってないわ。十分か十五分くらい」
ユーナは微笑んで言った。
「よく眠れた?」
クローディアは頷き、伸びを一つした。関節がかすかにぽきぽきと鳴る。長いあいだ同じ体勢でいた報いだった。
「よく眠れたなら、さあご飯にしましょ」
ユーナはそう言って、クローディアの机のうえに邪魔になっている紙の束を押しのけ、昼食の盆を置く場所を空けようとした。
しかし、そのときだった。クローディアの視線が便箋の上に落ちる。
彼女の動きが、はたと止まった。
「待って!」
クローディアが勢いよく手を伸ばして、ユーナを制した。
「この紙……」
彼女は便箋を手に取り、まじまじと見つめた。
元は白紙だった便箋が、今は変わっていた。
便箋の左上の隅に、一つの図柄が現れていた。
それは、カーキ色の革製の飛行帽を被り、黒いパイロットゴーグルをかけた、一匹の白い子犬だった。
子犬は舌を出していて、その表情は滑稽でもあり、愛らしくもあった。
この世界の人間ならば、この図柄が何を意味するのか、おそらく理解できないだろう。
しかし、クローディアは違った。
彼女の瞳孔が、ぐっと縮まった。心臓が激しく打ち始める。
「こ、これは……」
クローディアの声が震えた。
「鋼鉄の子犬……!?」
鋼鉄の覇権――略して「鋼鉄」。
それは彼女が前世で遊んだ戦略ゲームだった。
そして、飛行帽とゴーグルをかぶったあの子犬は、まさに、そのゲームの起動アイコンだったのだ。
筋金入りのプレイヤーとして、クローディアはこのアイコンを嫌というほど見知っていた。
前世の数えきれない昼と夜、私は仮想の軍隊を指揮して、四方を征したわ。
そして今――そのアイコンが、異世界の便箋のうえに現れたのだわ!
クローディアに、一秒のためらいがあろうはずがなかった。
彼女は机の脇の万年筆を掴み取り、震える手で、その便箋のうえに一筋の神秘的な文字列を走り書きした。
/research all
それは鋼鉄のコンソールコマンド――すべての研究を瞬間に解禁する、あの命令だ。
彼女が最後の一字を書き終えた、その瞬間――
「ブン――」
目に見えぬ波動が、便箋を中心に四方へと拡がった。
クローディアの机のうえに置かれた数台の通信機が、突然、まるで示し合わせたかのように、一斉に爆ぜるように鳴り響いた!
「ピピピッ! ピピピッ!」
甲高い呼び出し音が次々と重なり、書斎のなかをこだました。
クローディアが慌てて一台を掴み上げると、向こうから、興奮のあまり言葉も満足に紡げなくなった声が飛び込んできた。
「クローディア様! 我々、突然どうやって戦艦を建造すればいいか分かりました! 設計図が全部、頭のなかにあるんです! なんてこった、あの複雑な構造も、精密な計算も、全部くっきりと!」
クローディアが応えるよりも早く、もう一台の通信機が鳴った。
「クローディア様! 戦車というものが突然、分かりました! 履帯も、装甲も、火砲も……技術の細部が全部、理解できたんです! すぐに製造に取り掛かれます!」
「クローディア様! 以前あなたがおっしゃっていた、火砲というものの作り方が分かりました! それからトラックも、道路のうえを速く走って物資を運べる車両です!」
「クローディア様! 冶金が突破しました! 高強度の合金鋼の製造法が分かりました!」
「クローディア様! 紡織機械の設計図が頭のなかに! 布地の大量生産が可能です!」
「クローディア様! 化学工業! アンモニアの合成法が分かりました!」
次から次へと通信が怒濤のごとく押し寄せ、クローディアは大慌てで応対した。彼女の表情は、驚愕から歓喜へと変わっていく。
「ほ、本当に……効いたの……!?」
クローディアは手のなかの便箋を見つめ、声を震わせた。
「これってまるで……ズルじゃない!」
私の頭脳は猛スピードで回転を始め、次なる可能性を夢想し始めたわ。
/research allが効いたのなら、他のコンソールコマンドはどうかしら?
manpower――瞬時に大量の人員を獲得する。
pp――政治ポイント。政策を推し進めるために使える。
xp――経験値。軍や指揮官の能力を引き上げられる。
instant construction――瞬間建造。あらゆる建物や施設が、一瞬で完成する。
もしこれらの命令をすべて打ち込んだなら、そうすれば私は……。
クローディアの目の前に、一幅の美しい光景が浮かび上がった。
エリクソン領の工場が雨後の竹の子のように立ち並び、戦車や飛行機が流れ作業のラインのうえから次々と生み出されていく。
強力な艦隊が港に整列し、戦艦の主砲が遠くを睨む。
鉄道路線が公爵領のすみずみまで張り巡らされ、機関車が轟音を立てて物資と兵士を運ぶ。
難民たちには仕事があり、住まいがあり、尊厳がある。
ハーランド帝国の内戦?
あんなもの、取るに足らないわ。
私の軍隊はやすやすと大陸全土を統一し、平和で繁栄した国を築き上げる。
そして私、クローディア・エリクソンは、その偉大な帝国の始祖となるのよ。
仕事? なにそれ。コンソールがあれば、すべて自動で片付くわ。私は毎日ユーナとべったり過ごし、優雅な貴族生活を満喫すればいいのよ……。
「ふへへ……」
クローディアは、思わず締まりのない笑みを漏らしていた。
しかし、彼女が次のコマンドを打ち込もうとしたまさにそのとき。
「ザ――――」
耳障りな雑音が、突然、轟いた。
目の前の光景が捩れ、ぼやけ始める。まるで受信の悪いテレビの画面のように。
あの美しい幻は、泡沫のように砕け散り、虚空のなかへと消えていった。
「いや……やめて……」
クローディアは手を伸ばして、消えゆく光景をつかもうとした。だが、指先に触れたのは、ただの虚ろだけだった。
「クローディア? クローディア!」
ユーナの声が、どこか遠くから響いてくる。どんどん近づいて、どんどんはっきりと。
クローディアは、はっと目を見開いた。
気づけば彼女は、相変わらず公爵邸の書斎に突っ伏していた。
目の前は相変わらず、あのマホガニーの執務机だった。
午後の陽射しが相変わらず窓から差し込み、空気には相変わらず墨の匂いが漂っている。
ユーナが、そんな彼女の傍らに立ち、呆れた目で見下ろしていた。
「やっと起きた」
ユーナは溜息を吐いた。
「さっきからずっと、へらへら笑いながら『戦艦』だの『戦車』だの、訳の分からない寝言を言ってたわよ」
クローディアは数秒、呆然としてから、勢いよく机のうえの便箋に目をやった。
震える手で便箋を引き寄せ、まじまじと見つめる。
便箋は、ただの便箋のままだった。
雪のように白く、何の図柄もなく、何の変化も起きていない。
飛行帽をかぶったあの子犬も、/research allの文字列も、すべて消え去っていた。
「う……うそ……」
クローディアは呟いた。その瞳には、信じられないという色が満ちている。
彼女はなおも諦めきれず、万年筆を掴んで、一枚の紙に/research allと書きつけた。
シートを待った。
一秒。
二秒。
三秒。
……。
何も、起きなかった。
白光もなければ、通信機の爆鳴もない。
技術の解禁もない。
あるのはただ、書斎にこだまするユーナの笑い声だけだった。
「ぷっ……あははは……」
ユーナは口元を押さえ、肩を震わせて笑っていた。
「クローディア、あんた最近疲れすぎて、紙に命令書けば技術が解禁されるだなんて幻覚を見るようになったの?」
クローディアの顔が、一瞬にして真っ赤に染まった。
「わ、私は……」
彼女は口を開いたが、何を言えばいいのか分からなかった。
ユーナも同じ地球人で、一緒にあのゲームを遊んだことがあるのだ。
あの神秘的な文字列が結局何を意味するのか、当然知っている。
「しかも/research allだって」
ユーナはクローディアの口調を真似て言った。
「ついでにmanpowerとinstant constructionも付け足してあげようか?」
「もう言わないで……」
クローディアは顔を両腕のなかに埋め、その声はくぐもっていた。
「恥ずかしすぎるわ……」
ユーナは笑いながら首を振り、卓のほうへ歩いて銀の盆を持ち上げた。
「はいはい、夢はそこまで」
ユーナは盆を執務机のうえに置いた。
「とりあえずご飯にしましょ。朝だって、ろくに食べてなかったでしょ」
クローディアは顔を上げ、盆のうえの料理を見つめた。
クリームマッシュルームのスープ、焼きたてのパン、紅茶。
料理の香りが鼻腔をくすぐり、彼女の腹の虫が、情け容赦なく鳴いた。
「うん、ご飯……」
クローディアはパンに手を伸ばした。
「待って」
ユーナが、不意にその手を押さえた。
「どうしたの?」
クローディアが怪訝そうに彼女を見る。
ユーナの口元に、ずる賢い笑みが浮かんだ。
「誰が『ご飯だけ食べに来た』って言った?」
「え?」
クローディアは固まった。
ユーナは指で、書斎の隅に置かれた卓のうえを指さした。
そこには書類の束が積み上げられ、その高さはもう少しでユーナの背丈を超えるようだった。
「あれ、新しいお仕事。食べながら片付けてね」
ユーナはこともなげに言った。
「難民受け入れの進捗報告、冶金研究所の予算申請、農場拡張の土地計画、それから来月の外交晩餐会の準備……」
クローディアは今にも崩れ落ちそうな書類の山を見つめ、顔色が次第に青褪めていった。
「ま、待って……あれ、ぜんぶ今日やるの?」
彼女の声が震えていた。
「そうよ」
ユーナは頷いた。その顔には罪のない笑みが浮かんでいる。
「しかの、それは午前のぶんだけ。午後にもう一山、同じくらいのが来るから」
私は、自分の魂が肉体から抜け出していくのを感じたわ。
彼女はゆっくりと執務机に突っ伏し、額を冷たい机の面に押し当て、両腕を力なく両脇に垂らした。
「これは絶対、悪い夢だわ……」
彼女は呟いた。
「早く醒めて……早く醒めて……」
「クローディア?」
「もう少しだけ寝かせて……もしかしたら次の夢で、本当にコンソールが使えるかもしれないから……」
「クローディア!」
「manpower……instant construction……pp……」
「いい加減にしなさい!」
ユーナは手を伸ばして、クローディアの精霊の耳を摘まみ上げ、ぐいっと捻った。
「痛たたたっ!」
クローディアは一瞬で机から跳ね起きて、耳を押さえて涙目になりながらユーナを見つめた。
「ユーナ、何するのよ!」
「目を覚まさせてあげたの」
ユーナは腰に手を当て、真面目な顔で言った。
「夢はおしまい。さあ、仕事」
クローディアはあの高く積まれた書類の山を見つめ、それからユーナの断固とした表情を窺い、最後には長い溜息を一つ吐いて、観念したように一番上の書類を手に取った。
「はあ……どうして異世界にコンソールってものがないのかしら……」
彼女は書類をめくりながら、小声でぼやいた。
ユーナは傍らに腰を下ろし、彼女の書類整理を手伝い始めた。
「ここは現実で、ゲームじゃないからね」
「分かっているわよ……」
クローディアは口を尖らせた。
「たまに妄想したって、いいじゃない……」
「ちゃんと仕事を片付けて。終わったら、美味しいもの奢ってあげるから」
ユーナがそう言って宥めた。
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ焼き肉!」
「はいはい、焼き肉ね」
窓から陽の光が差し込み、書斎のなかで忙しく立ち働く二つの影を照らし出していた。




