175. 水
あの令符が、薄暗い石室のなかでかすかな紫色の光を放っていた。
中央の紫水晶はまるで一つの目のようで、精巧な金色の刻印の輪に囲まれている。
その一筋一筋の刻線が、人間の金属工芸ではない、どこか異様な湾曲を描いていた。
「あれは、悪魔の気配に感染した兵士たちを管理するためのものです」
彼は率直に言った。
「水晶のなかに封印されているのは、あの悪魔の髪の毛一筋です。令符を持つ者は、これを通じて改造済みの兵士たちに命令を下せます。攻撃、撤退、駐留、あらゆる指令が彼らの意識に直接送り込まれます。令符を持たない者が魔人の前で声を張り上げても、彼らには一言も届きません」
「髪の毛、一筋?」
ヘレナの口調に、わずかな信じがたさが滲んだ。
「一筋で十分です。あれは並の悪魔ではありません。最低でも伯爵級以上です。伯爵級以上の悪魔は、自らの力の一部を人間に貸し与えることができ、髪は最も安全な媒体です。血液のように宿主を暴走させることもなければ、骨のように拒絶反応を起こすこともありません。令符が破壊されない限り、改造された兵士たちは常に所持者の命令に従い続けます」
彼がこれらの言葉を話すときの流暢さは、とうに暗記し尽くした手引き書を読み上げているかのようだった。
「なぜ、聖水についてそこまで詳しいの?」私は尋ねた。
彼は一瞬息を呑んだ。それから言った。
「私が輸送を担当していたからです。この一年、ハインツの本陣から各徴集兵の野営地へ聖水が分配されるたびに、その中継はすべて私の手を経由していました」
なるほど。
「惜しいのは、あなたが聖水を身につけていないことね」
ヘレナが溜息をついた。
「私は輸送を担当していましたが、保管は違います。あれは全部、ハインツの私用の幕舎に保管されています。彼自身と、調合を担当している鳥の嘴の仮面の者以外は、誰も触れられません」
「鳥の嘴の仮面の者?」
「全身をぴったりと覆い、白い鳥の嘴の仮面をかぶった者たちです」
彼は言った。
「具体的な出自は私も分かりません。ただ、皇帝のほうから直接派遣されてきた者たちで、正規軍のどこにも属しておらず、公爵の直接の指揮下にもありません。彼らの仕事は、聖水が効力を発したあとに倒れた徴集兵を回収し、改造地点へ移送することです」
私はその情報を頭に刻んだ。
そしてこの連鎖の最末端にいるのが、白い鳥の嘴の仮面をかぶった一団の者たち。
深夜の幕舎のなかで、倒れた農民たちを一人また一人と、荷物のように包んで運び出していく。
あの農民たちには、名前があり、家族がおり、何畝かの田んぼがあった。
彼らが再び立ち上がるとき、名前も記憶も、もう二度と戻らない。
母と私は沈黙に落ちた。
石室には、遠くの陣営からの風だけが通風口を通じて流れ込み、踏み砕かれた草葉の苦い匂いを運んでくる。
「さあ、先に食事にしましょう」
母が突然口を開き、令符を自らの袖口にしまい込んだ。
「残りは、また明日ね」
私は頷き、踵を返して地下通路をあとにした。
夜。徴集兵たちの野営地の一つ。四人の中年兵士が座っていた。
彼らのあいだに、ひとつの水桶が置かれている。
今日、軍需部が彼らに特別に支給した物資は身体を拭くための水だった。
水はかすかな湯気を立て、幕舎のなかの昏い油灯の下でゆらゆらと揺れている。
水面には、四枚の疲れ切った顔が映っていた。
「トム、戦争が終わったらお前、何をするつもりだ」
そう言ったのは、頭を丸めた中年の男だった。
彼の名はハンス。
四人の中で一番年上で、髪を地肌に張り付くくらい短く刈り上げている唯一の男でもある。
右手の人差し指には、先端から第二関節まで続く古い傷痕があった。
五年前、自分の田んぼで麦を刈っていたとき、鎌で切った傷だ。
当時は血が地面に流れ落ち、妻が小麦粉と布切れで午後いっぱい押さえ続けて、ようやく止まった。
今ではその傷も白い浅い痕になり、寒くなったときだけ微かに痒む。
「俺か。俺は家に帰って、嫁さんを見つけたいな」
トムが言った。
彼は三十を少し出たばかりで、四人のなかで一番口数が多く、自分から話を振るのも彼だけだった。
ハンスの向かいに座り、話をしながら指で布巾の端をこすっている。
その布をこする仕草は、癖になっていた。
彼の妻は三年前、風邪で亡くなった。
七歳の娘が残され、今回の徴兵で呼ばれたとき、彼は半日かけて娘を隣近所に預けてきた。
「子や孫に囲まれてな……」
彼はそう言い添えたが、声は「囲まれて」のあたりで小さくなった。
まるで「囲まれる」という言葉そのものが、あまりにも多くの運を要する器でしかないと、知っているかのように。
「ハンス、トムにそんな話をしてどうするんだ。そもそも生きて帰れるかどうかも分からねえだろ」
口を挟んだのはモックだった。
体格は四人のなかで最もがっしりしていて、腕の筋肉が粗布の袖口をぱんぱんに膨らませている。
左手の手首の内側には、十六歳の見習い時代に溶けた鉄でできた火傷の痕があった。
彼は元は鍛冶屋で、今回召集される前、店にはまだ三本の打ちかけの犂が残っていた。
彼らは目の前の水桶を見つめ、黙り込んだ。
戦場では、きれいな水ですら極めて貴重な物資だ。
その水を、軍需部がわざわざ支給して身体を拭かせるというのは、明らかに大決戦を前にして士気を高めるためのものだった。
彼らは分かっていた。
徴集兵である自分たちは、大決戦において間違いなく使い捨ての駒だ。敵の遠距離兵器を消耗させるためだけの駒なのだ。
ひとたび戦場に立てば、十に一つも生き残れない。
運よく生き延びられるのは、ほんの一握りの幸運な者だけだ。
四人目のサムは、何も言わなかった。
彼はトムよりもさらに幾つか若く、顎にはまだ伸びきっていない柔らかな髭が一筋生えている。元は製粉所の見習いだった。
彼はずっと幕舎の中央の木の支柱にもたれて座り、膝のうえには故郷から持ってきた一枚の古い布を広げていた。
指は無意識に、その布の端のほつれ糸を弄っている。
視線は水面に映る灯りの揺らめきに落ちていて、何を考えているのかは分からなかった。
彼らはこの死の宣告にも等しい水桶に、底知れぬ恐怖を抱いていた。
だが、数日にわたる行軍と数日にわたる攻城戦で、全身は泥まみれだった。
だからこそ、恐怖に満ちていたとしても、彼らは携えていた布を取り、水に濡らして自らの身体を拭いた。
ハンスは手を伸ばして布巾を濡らし、絞った。
それから一枚をモックに、一枚をトムに、一枚をサムに渡し、最後の一枚を自分用に取った。
彼は何も言わなかった。
ただ、その分配の動作だけをした。
モックが受け取ったとき、二人の指が布巾の上で軽く触れた。
どちらも目を逸らさず、余計なことも言わなかった。
しかし、彼らが黙って身体を拭いているそのときだった。
今まで一言も発さなかった一人が、突然、鈍い音を立てて倒れた。
呼吸は 、なかった。
サムが倒れるとき、前触れは何一つなかった。
それを見た三人は、慌てて濡れた布切れを放り捨て、その男の周りに駆け寄った。
「おい! サム、どうしたんだ、いきなりどうして——!」
トムが叫んだ。声は低く抑えられていたが、そのなかの取り乱しは隠せなかった。
彼は手を伸ばしてサムの首に触れた。それから顔を上げたときの表情は、もう違っていた。
「ハンス! 違う、あいつの顔色を見ろ。紫が、おかしいにもほどがある」
ハンスはしゃがみ込み、サムの顔を灯りの方へと向けた。
その若い顔は、もはや普通の肌色ではなかった。
唇は暗く濁り、下瞼の下には外へと広がる青紫色の染みが浮かび、首筋から頬骨へと上方に広がっていた。
なにかが血液のなかから外へ浸み出し、薄いラベンダー色の紫を顔全体に滲ませている。
これは、窒息ではない。外傷でもない。ハンスの見たことのない、どの病気でもなかった。
「待て。ハンス、トム、お前ら二人の顔色も、かなりやばいぞ」
「モック、何を言って——!」
ハンスとトムはモックのその一言を聞いて、慌てて互いの顔を見合わせた。
そして、ようやく気づいた。
相手の顔色が、とっくにラベンダーのような紫に変わっていたことに。
三人は、二秒と見つめ合わなかった。
その二秒のなかに、とても多くのものが詰まっていた。
恐怖、困惑、そして誰も口に出したくない、ある確認。
あの水桶。
あの、わざわざ配られた、戦場では本来ありえない「好意」の水桶。
トムは何かを言おうとしたが、唇が動いただけで、口を開く力すら急速に失われていくことに気づいた。
その感覚は痛みではない。
何かが内部から音もなく抜き取られていく。砂時計の砂のように、一粒、また一粒と、静かに、誰にも止められないまま。
ほどなくして、ハンス、トム、モックも次々と床に倒れた。
四人は、こうして、薄く乾草を敷き詰めた地面のうえに、先を争うように倒れていった。
布巾は彼らの手元に散らばり、水桶の水はほとんど減っていない。
まだぬるく、夜風のなかでゆっくりと冷めていく。
幕舎の外の野営地では、誰も何も知らない。
焚き火はまだ燃えている。誰かがいびきをかき、誰かが何事か低く話している。何もかもが普段通りだ。
十数分が過ぎた頃、全身をぴったりと包んだ、鳥の嘴の仮面の者が一人、幕舎に入ってきた。
その仮面は白く、嘴の部分が細長い曲管のように突き出し、まるで大きな鳥のくちばしを思わせた。
二つの目の穴から覗くのは、真っ黒な、なにも読み取れない空洞だけだ。
彼の足音はとても軽く、靴底はわざと加工されているようだった。
乾草を踏んでも、ほとんど音を立てない。
幕舎に入ると、彼は四人をざっと見下ろした。
その動作は極めて短く、人の生死を確認するというより、荷物の数を確かめるのに近かった。
四人が地面に倒れているのを確かめると、彼はただ手を振っただけだった。
途端、背後の幕舎の入り口に、同じくぴったりと身を包んだ鳥の嘴の仮面の者が四人現れ、四人の身体を荷造りして運び出していった。
誰も振り返らなかった。誰も口をきかなかった。
幕舎の外で、あの油灯の炎が、誰かが垂れ幕をめくったせいで激しく一瞬揺らめき、それから再び静かになった。
乾草のうえには、四枚の濡れた布巾と、すっかり冷めきった一桶の水だけが残された。




