143. 過去と、紅龍国行きの切符
あの部屋のことを考え始めると、思考が自然と一方向へ流れていく。
頭の中に、一つの顔が浮かんだ。
意識的に思い起こそうとしたわけではない。
それはただ浮かんできたのだ。
水に浸されて変色した古い写真のように、端はにじんで、でも輪郭だけは、まだそこにある。
前世でいちばん深く交わった友人の顔。
前世の私は孤児だった。
これを言うのは、同情を引きたいからではない。
事実として、ただ事実だからだ。
両親もいない、親戚もいない。
ただ押し流されるようにして大きくなり、自分の面倒は自分で見て、省ける金はぜんぶ省いて、一人で解決できることはぜんぶ一人で抱えた。
そんな状態だったから、いわゆる「普通の家庭に生まれた、生活に不自由のない人間」に対して、私は本能的に距離を置くようになっていた。
嫉妬でも恨みでもない。
もっと自衛に近い、回避だ。
そういう人たちが放つ光は、あまりにも眩しすぎた。
近づきすぎると、目がくらんで、振り返ったときに、自分には何もないことがくっきりと見えてしまう。
だが 彼女は違った。
実家はかなり裕福で、現実的な問題に頭を悩ませる必要がまるでない、世界中の好きな大学を選べる立場だった。
そういう人間には普通、賑やかな輪がある。
何十人もの友人がいて、互いに呼び合って、そういう輪の中では、私みたいなタイプはそっと弾かれる。
与えられるものが何もなく、空気にも馴染めないからだ。
なのに彼女は、自分から私に話しかけてきた。
最初は好奇心だろうと思っていた。
いつも一人でいる人間の内側を見てみたいのだろう、と。
でも彼女は一週間も二週間も話しかけ続けて、そのままずっと続いた。
自分を見せびらかすつもりもなく、暇を潰したいわけでもなく、ただ純粋に、友人を作りたかっただけのようだった。
そうして小学校、中学校、高校、大学と続いた。
四つの時間を足し合わせると、三十年の人生の半分を超える。
だから周りには「あの二人は」とよく言われた。
からかわれるたびに彼女は笑った。
自然な笑い方で、否定も肯定もしない。
あの曖昧な状態を楽しんでいるようだった。
私には、ちゃんと、その気持ちがあった。
でも深く考えようとしなかった。
何を怖れているかは、自分でわかっていた。
口を開くのが怖かった。
困ったように笑いながら「やっぱり友達でいたい」と言われることが怖かった。
そのあとの、言葉が出なくて、どこに目をやればいいかわからないあの気まずさが怖かった。
十何年続いたこの縁が、私の軽率さで、どちらでもない過去形になってしまうことが怖かった。
だから何も言わなかった。
死ぬ日まで、一言も。
私が逝ったのは三十歳のときだ。
彼女はそのとき、まだ所帯を持っていなかったが、三十歳という年齢なりに、あるべき経験は積んでいた。
わかるべきことも、全部わかっていた。
あれから十三年が経つ。
彼女はいまごろ四十三歳のはずだ。
今、どんな生活をしているのだろう。
いい人と出会えたか。
落ち着いた、穏やかな日常を送れているか。
私は頭を軽く振り、その景色を頭の中から追い払った。
考えても意味はない。
一度死んだ人間が、とっくに流れが止まったものへ手を伸ばし続けるべきではない。
いまの私は花の国に立っていて、傍らにはユーナがいて、手にはパスポートがあって、荷物の中には必要なものが全部揃っている。
それで十分だ。
佐藤さんと別れるとき、彼はアパートの建物の下に立っていた。
くしゃくしゃに皺の寄ったTシャツ、乱れた黒い短髪、厚い唇がかすかに動いたかと思うと、結局ただ手を上げるだけだった。
「また来てよ。異世界の資料、まだ整理しきれてないんだよね」
「わかった」
私は一言返し、ユーナを連れて歩き出した。
背後で二秒ほど間が空き、それから彼の安物のスニーカーが階段を踏む音が続いた。
一段一段、踏むたびに音が立ち、そのままフロアの奥へ消えていった。
私とユーナはまず、大型スーパーの近くにある銀行へ向かった。
店内に人は少なく、エアコンが十分すぎるほど効いていて、その冷気があの金融機関特有の匂いを閉じ込めていた。
消毒液とほんの少しの紙幣の匂い、それからプリンターのインクの気配。
番号札を取り、窓側の椅子に座って待った。
ユーナは隣に腰かけ、電光掲示板やら番号表示のパネルやらを物珍しそうに眺めていた。
動物園に初めて来た子供みたいな顔で。
番号を呼ばれてから、窓口の担当者に用件を説明し、パスポートを提示して、手続き通りに口座を開設した。
手元に残っていた現金を、佐藤さんと両替した分と、冲田から「上納」してもらった分を合わせて、全額を口座に入れてから、紅龍国通貨への外貨両替も申し込み、その場で受け取って、目立たない封筒に入れて肌身離さず持った。
一連の手続きは滞りなく終わったが、それでも私の神経は緊張したままだった。
証明書と身元確認が絡む場面では、どうしても本能的に警戒モードに入ってしまう。
頭では、このパスポートに問題はないとわかっている。
冲田たちがシステムを通して処理した本物だ。
でもあの微かな張り詰め感は消えなかった。
筋肉が覚えた癖のように、意志でオフにできるものではない。
銀行の扉を抜けて外に出ると、午後の陽光の熱が顔に当たった。
その瞬間、ようやく少し、張り詰めていた弦が緩んだ気がした。
ユーナは出口を出た瞬間に深く息を吸い込んで、小声で言った。
「あの中、すごく寒かった」
「花の国の夏の室内はたいていそうなんだ」
私は軽く返しながら、外套のポケットから今日買ったばかりのスマホを取り出した。
エントリーモデル、特に変わったところはない。
必要十分なものがあればいい。
電源を入れてから、よく使うアプリをいくつかインストールして、花の国発の航空便を検索する。
画面が灯り、私が運賃の比較をしていると、ユーナが隣で背伸びをして覗き込んだ。
一瞬、あの数字が目に入ったのだろう。
目が細くなる。
高いものを見るときの彼女のいつもの表情だ。
まず呆然とし、それから沈黙する。
「高い?」とひっそりと聞いた。
「そうでもない」。
私は深夜発の格安航空券を見つけてタップした。
「思ってたより安かった」
安いのはあくまで比較の話だが、異世界の金貨に換算すれば、この数字でも現代の交通というものの費用対効果に感嘆せずにはいられない。
少なくとも、馬で、あるいは魔導車で二つの国をまたぐよりは、ずっと割に合っている。
電車で一時間半ほどかかって、空港に着いた。
地下鉄の出口を出て、エスカレーターを上ると、ターミナルビルの輪郭が視界に現れた。
巨大なガラスのカーテンウォールが午後最後の斜陽をまるごと受け止め、建物全体が銀とオレンジの混ざった色合いに染まっていた。
高くて、広くて、人が入り口から出口へと絶えず流れ込んでいる。
水が水路を流れるように。
エスカレーターがもうすぐ頂上というところで、ユーナが突然立ち止まった。
私は危うくぶつかりそうになり、一歩ずらしながら、彼女の視線を追った。
彼女はあのビルを見ていた。
そこに立ったまま、身体が止まっていた。
「これって……こんなに人がいるの?」
声の中に、押し殺した息を呑むような驚きがあった。
大げさに騒ぐ類の興奮ではなく、目の前の規模に純粋に圧倒されている。
その感覚はよくわかる。
エーリクセン領がどれほど賑わっていても、人が集まる場所といえばいくつかの交易広場に過ぎないし、あの賑わいにはリズムがある。
朝市、夕市、祭日、平日と、波がある。
でもここは違う。
人の流れに波がなく、密度が一定で、方向が多方向で、どの時間を切り取っても満ちている。
こんな光景は、たしかに彼女には初めてだった。
「ほら、こっちへ」
私は手を伸ばして彼女の手を引き、一緒に歩き出した。
引っ張られながらも、ユーナの頭はあちこちへ向いた。
巨大な出発と到着の案内表示、キャリーバッグを引いて行き交う旅客たち、通路の両側で明かりを放つ店舗の看板。
彼女の指が私の掌の中でほんの少し動いた。
私はそれを感じて、何も言わず、ただその手を少し強く握った。
セルフチェックイン機の前に数人が並んでいた。
順番を待って、自分の番が来たら、二冊のパスポートを一冊ずつ読み取り部分に乗せ、案内に沿って操作を進める。
二分とかからず、二枚の搭乗券が取り出し口から出てきた。
座席は機内後方、窓側と中央の席、横並びだ。
私は二枚のチケットを手に取り、一枚をユーナに渡した。
彼女はそれを受け取り、頭を下げて一行一行丁寧に目を通し、最後に折り畳んで、衣服のポケットにそっとしまった。
「これが……向こうへ行くための切符なの?」
「そう。紫荊城行きだよ」
「紫荊城って、どんなところ?」
少し考えた。
「ここと違う。もっと雑然として、暑くて、もっと庶民的な感じ。でも自由だ。商いをする場所だよ」
ユーナは少し黙って頷いた。
その説明と、自分の中に浮かんだ景色を照らし合わせているようだった。
この便は花の国の首都を発ち、紅龍国の紫荊城へと向かう。




