142. パスポートと、次の目的地
「警告」
冲田はその言葉を繰り返した。
口調は平静だったが、その下にあるものは平静ではなかった。
「ええ、警告です」
彼はしばらく私を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
信じていないのか、それともあまり気にしている素振りを見せたくなかったのか。
いずれにしても、彼の手は首輪から下ろされた。
それから、私は調整を始めた。
魔導器は装着者の生体気息と結びつく必要がある。
この過程には、少しばかりの刺激が伴う。
痛みと呼べるほどではないが、それが作動していることを十分に感知できるレベルだ。
私は留め金に一筋の魔力を送り込み、内側の刻紋を起動させた。
刻紋が発光した瞬間、冲田の眉がひそめられた。
それから十秒ほどの沈黙。
それから、彼の表情ががらりと変わり、全身が一瞬硬直した。
喉の奥から短く鈍いうめき声が漏れる。
たぶん、この十秒のあいだに、彼は考えてはいけないことを考えてしまったのだろう。
「ウッ——」
二度目。さっきより少し大きかった。
私はその傍らで、大人しく彼の調整が終わるのを待っていた。
ユーナは私の背後に立ち、袖で口元を隠していた。
声は漏らさなかったが、肩が小さく震えていた。
三、四巡を経て、冲田は完全に静かになった。
ソファの背に凭れかかり、深く息を何度か吸い込んで、目つきはとうとう諦めの混じった静けさに落ち着いた。
「冲田老先生、よろしくお願いしますね〜」
私は目を細めて笑い、身を翻して扉へ向かった。
ユーナが後ろからついてきて、横を通り過ぎる瞬間、そっと私の指に触れた。
俯いて見ると、彼女は何も言わず、ただ眉の先をほんの少し曲げていた。
あの表情の意味はたぶんわかる。
調整のあの一部始終が、なかなか見応えがあったのだろう。
私は何も評さず、前に進んだ。
廃工場を出るころには、夜はすっかり深まっていた。
廊下の白熱灯管が一本、かすかに点滅していて、「ブーン」という電流音を立てながら明滅を繰り返している。
外の賭博場は相変わらず騒がしく、「来い来い来い」の歓声が分厚い扉を突き抜けて漏れてきて、さっきの鉄板部屋の静けさと、途方もない対比を成していた。
私は手をマントに突っ込み、廊下に落ちるぼやけた影を踏みながら外へ向かった。
ユーナは私の左側を歩き、何も言わなかった。
工場の入り口に着いたとき、彼女がようやく口を開いた。
「クローディア、さっき打ちのめされた連中、きっと重傷どまりよね」
「うん」
私は言った。
「大事にする必要はない。生かしておけば、冲田も動きやすくなる」
「それもそうね」
彼女は横を向き、少し軽くなった声で言った。
「でもあの調整のとき……彼、なかなか面白い声を出してたわ」
私は答えなかった。
夜風が工場の敷地の外から吹き込んでくる。
花の国の深夜特有の、あの混ざり合った匂いを乗せて。
排気ガス、湿った土、どこかの夜店から漂う揚げ物の香ばしさ。
異世界に長くいすぎて、こういう匂いを嗅ぐと、かえってぼんやりとした既視感に襲われることがある。
頭の中に二組の記憶系統が同時に稼働していて、どちらにも対応する感情が見つかるのに、どちらにも何か一枚隔てたような、そんな感じだった。
「行くよ」
私は言った。
「戻って休もう」
翌朝。
朝は佐藤さんの呼び鈴で目を覚ました。
正確に言えば、彼が鳴らしたのではなく誰かが彼の住まいの呼び鈴を押し、それを聞いた彼が大慌てで私とユーナを叩き起こしに来たのだ。
その顔には、興奮なのか慌てなのか判別がつかない表情がべったりと貼り付いていた。
「郵便物が。宅配便で、なんかこう……ちょっと普通じゃない感じのやつが」
私は畳から体を起こし、髪をかき上げながら、彼の後ろについて玄関へ行った。
玄関先には封筒が置かれていた。
表面には差出人の情報は一切なく、端正な万年筆の文字で佐藤さんの住所だけが記されている。
紙の封筒、厚みからして中身は紙一枚ではない。
私はそれを拾い上げ、端に沿って指でなぞった。余計な魔力の残留は感じられず、何か仕掛けが隠されている気配もない。
「私が開ける」
封を破り、中身を取り出した。
二冊のパスポート。
赤い表紙に、花の国の国章が箔押しされている。
角はまだ綺麗なまま、一度も捲った跡のないものだった。
二つの赤い表紙のパスポートが机の上に置かれ、異様なほど静かに横たわっている。
私はそれを手に取り、左手に一冊、右手に一冊と、小さな煉瓦を二つ摘み上げるようにして、しばらくじっと眺めた。
表紙には花の国の国章が箔押しで刻まれ、指先で触れるとほんの少し凹凸がある。
自分のものに当たる一冊を開いた。
写真の中の少女は落ち着いた表情をしていて、白金色の髪が無造作に片側に流されている。
その目つきには、年齢にそぐわないどっしりとした静けさがあった。
私はそれを何秒も見つめてから、ようやくゆっくりと気づいた。
この人は、私だ。
これはなかなか奇妙な感覚だった。
三十年分の記憶が「これは普通の証明書だ」と告げているのに、それを持っている手は十三歳のもので、身につけている服もその年齢にふさわしいものだ。
こういう分裂感が湧き上がるたびに、私はしばしの失神を覚える。
二巻のテープを重ねて再生したみたいに、声が混ざり合って、どちらも単独でははっきり聞き取れなくなるのだ。
私は深く息を吸い込み、その感覚を押し込め、情報ページをめくった。
氏名欄に記されているのは「エリクソン」。
国籍は花の国。生年月日……ざっと目を走らせると、冲田たちが記入した年齢は、異世界での私の実年齢より数歳も上回っていた。
構わない。むしろ成人扱いのほうが動きやすい。
本当に面白いと思ったのは、出生地の欄だ。
彼らが記入したのは花の国の首都だった。
なかなか気が利く。
首都の戸籍は調べるのに手間がかかり、資料が膨大で、狙われにくい。
あの連中、こういう面ではたしかにプロの勘が働いている。
私は二冊のパスポートを横のユーナに手渡し、自分で確認するように促した。
彼女はそれを受け取り、まずは自分用の一冊を手に取って、写真のページを開き、そこに写る画像をしげしげと見つめて小首を傾げた。
「フランキー……」
彼女は自分のパスポートに記された名前を小声で読み上げ、それから顔を上げて私を見た。
「クローディア様、これが、こちらの世界での私の名前なんですね」
「そう」
彼女はもう一度俯き、そのパスポートをそっと閉じて、両の掌で包み込んだ。
「なんだか……別の誰かになったみたい」
別の誰かになったって、どうということはない。
パスポートは偽物で、名前も偽物で、出生地だって偽物だ。
でも、ここに立っている私たちは本物だ。それで十分だ。
佐藤さんが近づいてきて、背伸びをして私の手の中のそれをちらりと覗き込み、それから背筋を伸ばし、いかにも感慨深げな口調で言った。
「いやあ……パスポートも持たずに花の国に来て、それが一晩で手に入るとか……」
私はパスポートを内ポケットにしまった。
「あんまり知らないほうが、あなたのためだよ」
「へい」
彼は沈黙した。
ユーナが傍らでほんの少し微笑んだが、その話には乗らなかった。
私はパスポートを持って窓辺へ歩き、光にかざして捲り、偽造防止の透かしの角度と階調に問題がないことを確認した。
このパスポートが意味するところを、私はよくわかっている。
これがあれば、私とユーナは花の国でもう不法滞在者ではない。
普通に交通機関を利用できるし、ホテルにも泊まれる。
警察の注意を引かずに自由に行動できるのだ。
今度の花の国への来訪は、別にぶらりと一回りするだけの話ではなかった。
この先、やるべきことはまだある。
銃器のほうはあくまで第一歩に過ぎない。
冲田のあのルートがどこまで延伸できるかは、まだ時間をかけて調べる必要がある。
それから、武器の交渉がまとまり次第、どうにかして物資をエーリクセン公爵領まで送り返す算段も立てなければならない。
となると、次はもちろん、飛行機で、自分の元いた国、紅龍国へ向かう。
最初に花の国へ転送されて、紅龍国ではなかったと知ったとき、たしかに胸の内に、言い表しがたい喪失感のようなものが湧いた。
その感覚はさほど強くなかった。
むしろ細い糸が一度だけぴんと張られて、すぐに緩んでしまい、ほんのり残る痒みだけが残る。
そんなたぐいのものだ。
だがその後、紅龍国のあの隙のないセキュリティ体制のことを思い出し、精密で病的なまでに緻密な戸籍管理制度のことも思い浮かべるとあの喪失感は徐々に霧散し、ある種の幸運感へと変わった。
もし本当に紅龍国へ転送されていたら……
いまごろ私はとっくに「不法滞在者」として、どこかの小さな暗い部屋に放り込まれていたに違いない。
弁解の機会さえ与えられなかったかもしれない。
そう考えれば、花の国に来たのはむしろ僥倖だった。
こうしてパスポートも手に入った以上、名目上は私も花の国の合法的な居住者だ。
これで花の国を中継ルートとして、より多くの物資を密かにエーリクセン領へ送り返すのも楽になるし。
なにより、堂々と、前世で住んでいたあの場所を一目見に行くことができる。
こそこそと隠れ潜む、陽の当たらない身でいる必要はなくなったのだ。




