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141. 交渉と首輪

 一人の若い男が、ナイフを握りしめて私に突っ込んできた。


 歩幅は大きく、力もそれなりに入っている。普段から鍛えているのだろう。


 私の視線が彼の上に留まったのは、一秒にも満たなかった。


 一秒だけだ。


 それから手が動いた。


 手鎧が手首の上で小さく震え、黒い剣の柄が掌の中に現れる。


 指で握り込んだ瞬間、刀身が凝縮され、かすかな黒い気を纏う。


 正面から受け止めはしなかったし、横に身をかわしもしなかった。


 ただ手首を少し回すだけで、切っ先はその男の手の甲を掠めるように走り、流れのままに引き寄せる。


 彼の腹部に、指二本分の幅の傷を刻んだ。


 深くはない。痛い。でも命は取らない。


 男は突然の鋭い痛みに呆然とし、自分の腹を見下ろした。


 おそらく三秒ほど、脳がその情報を処理できずにいた。


 それからゆっくりと腰を落とし、傷口を押さえて床にずり落ちていく。


 私はその間、一歩も動かず、呼吸も速くならなかった。


 剣を宙で軽くひと振りする。


 刀身にはほとんど血はついていなかったが、それでも習慣で、袖の布を刃面にそっと当てて拭い、それから剣を手鎧に戻した。


「老先生、お手元の者たちは、どうやら少々躾がなっていないご様子ですね」


 私は冲田に顔を向けた。


「では、私からの手土産代わりとして —— 老先生の代わりに、少しばかり諭してやろう」


 冲田は凍りついていた。


 あの男を差し向けたのは、実は彼だった。


 この二人の小娘の底がどれほどのものかを見極めたかったのだ。


 最悪の想定はしていたが、その最悪の想定の中に、こんな結末は入っていなかった。


 真っ向から殴り飛ばすのではない。


 こんなにも——まるで気にも留めていないかのような、軽やかな片手間に。


 あの剣が現れた速度、振り抜いた角度、力の加減は寸分違わずに抑えられていた。


 数十年を剣道に捧げてきた冲田にはわかった。目の前の白い髪の小娘は、わざと手加減をした。


 手加減しなければ、あの男はいまごろ二つに切断されていた。


 彼の胸の内で、何かがじわりと沈み込んだ。


「出ていけ」


 冲田が口を開く。声は先ほどより半音低くなっていた。


 しかし、部下たちは動かなかった。


 たぶん先ほどの光景に度肝を抜かれたままなのか、それとも本能的な拒絶か。出ていけと言われても、老大をたった一人でこの二人と対面させるなど、道理が通らない。


 何人かが互いに目を合わせたが、足は動かなかった。


 冲田の表情が沈み、声を張り上げた。


「この方が出ていけとおっしゃっているんだ、さっさと出ていけ! まさかお前たち、自分が彼女に勝てると思っているのか?」


 三秒ほどの沈黙。


 それからようやく、彼らは互いに顔を見合わせ、腹を押さえてうずくまっている仲間をちらりと眺め考えてみれば……


 たしかに勝ち目はないと、しょんぼりと扉からぞろぞろ出ていき、扉を閉めた。


 部屋に静寂が戻る。


 冲田はソファに再び凭れたが、凭れ方は浅く、いつでも立ち上がれる緊張感を纏っている。


 手は膝の上に置き、指を平らにして、もう震えないように努めていた。


「そろそろ、お話しいただけますかな」


 私はすぐに口を開かなかった。


 振り返って部屋全体を見渡し、同時に魔力を細やかに広げていく。


 まるで凹凸のある床に水を流し込むように隙間や隅々にまで流し込んでいき、人がいれば、かすかな魔力の乱れが跳ね返ってくる。


 結果。


 クローゼットの裏に一人、天井の上の挟層に一人、カーテンの裏に一人、それからもう一人、私の左足の真下、床の挟層に隠れている。


 四人だ。


 私はわずかに俯き、足元をひと瞥し、それからゆっくりと顔を上げた。口元がほんの少し曲がる。


「老先生、このお部屋はよほど掃除が行き届いておられないようで、ずいぶんとゴキブリが湧いていますね」


 軽い口調で、今日はいい天気ですねと言うかのように。


「生まれつき身体が弱くて、こんなに汚れた環境では、老先生とまともなお話もできそうにありません」


 冲田の指が微かに動いたが、何も言わなかった。


「僭越ながら、私がお掃除をさせていただきましょう。この部屋の汚れものを、まとめて外に出して差し上げます」


 言い終わると同時に、私は右手を上げ、掌を外へ向けた。


 魔力が掌の中で瞬時に凝縮し、それから炸裂するように、細く強靭な数条の光柱となって、私を中心に四方へ放たれた。


 掃討ではなく、狙い撃ちだ。先ほど感知した四つの人影の位置を、寸分違わず捉えている。


 一条目は天井を貫き、鉄板に穴が穿たれた瞬間、短く鈍い破裂音が響く。


 二条目は斜めにクローゼットの側板を撃ち抜き、木屑と鉄屑が混ざり合って飛び散った。


 三条目はカーテンの裏に命中し、分厚い布地に焦げた丸い穴を穿つ。


 四条目は真下へ——私の足元の床板を貫き、鉄板が穿たれた瞬間、縁がめくり上がった。まるで咲き損ねた金属の花のようだ。


 五秒ほどの静寂。


 それから、天井のほうから重い衝撃音。


 濃い色の衣服を纏った人影が、穿たれた穴からずり落ち、床に叩きつけられた。


 埃が小さく舞い上がる。


 クローゼットの扉も同じタイミングで留め金が外れ、中からもう一具が転がり出てきた。


 カーテン裏の者はもっと手間が省けた。


 そのまま壁面を滑り落ちてくるだけだ。


 足元の床板の者は動きがない。


 おそらく挟層に挟まってしまったのだろう。


 私は手を下ろし、袖を整えた。


 冲田は床の上の数人の人影を見つめたまま、長いこと口を開かなかった。


 先ほどとは、もう目つきが違っていた。


 恐怖ではない。


 あらゆる感情を奥に押し込んだ末、表面に張った一枚の薄い静けさ。


 氷の張った水面のように、いつ砕けてもおかしくないものだ。


「うん、これでずいぶん綺麗になりましたね」


 私は満足げに周囲を一瞥し、頷いた。それから彼のほうを向く。


「老先生、私はエリクソンと申します。名前のほうは——あなたには、知る資格がありません」


 ユーナが横から続けた。「私はフランキーとお呼びください。エリクソン様にお仕えする侍女でございます」


 彼女の声はとても淑やかだったが、視界の隅で口元がほんの少し持ち上がっているのが見えた。この場を心底楽しんでいるらしい。


 冲田の口元が引くついた。


「知る資格がありません」と言われたとき、彼は耐えたのだ。


 黒道で数十年を渡り歩き、どんな荒波も見てきた老人が。


 今夜、自分の縄張りの中で、初めて人前でこう言われた。


 しかも、こんなに自然に、一片の後ろめたさもなく。


 彼は深く息を吸い込み、その息を押し込め、無理に取り繕った和やかな笑顔を顔に貼り付けた。


「では、エリクソン様、フランキー様。本日はどのようなご用件で、この老いぼれのもとへ?」


 いまの彼からは、もう威厳は消えていた。


 人格が折れたわけではない。自分にはいま、この二人と条件を交わす資格がまったくないことを、痛いほど理解していたからだ。


 今夜を生き延びるには、この二人の厄介な客人をどうにかして丁重に送り出すしかない。


「お優しいお言葉、痛み入ります」


 私は上着の内ポケットから白い紙片を取り出し、軽く折り畳んでから指先で弾いた。紙片は弧を描いて飛び、冲田の膝の上に落ち着いた。


 冲田は二本の指でそれを摘み上げ、広げる。


 彼の視線は紙片の一行目から最終行まで走り。


 その表情が、肉眼で追えるほど明確に変化した。


 まず眉がわずかに動き、それから眉間の皺が深くなり、最後は口こそ動かなかったものの、顔中の筋肉すべてが必死に何かの反応を押し殺している——そんな顔だった。


 紙面に書かれている内容は明白だ。


 現行制式の機関銃、十挺。


 大口径狙撃銃、四十挺。


 制式拳銃、数量未定。


 それから、花の国のパスポート二冊。


 データベースに正式登録された合法身分だ。


 買った偽造品じゃない、政府のシステムに実在する正規の身分証明。


 銃器の部分は、命がけだ。


 パスポートの部分は、もっと命がけだ。


 つまり、この二人は花の国にまったく合法的な身分を持っていない。


 彼が白黒両道で数十年かけて築き上げた人脈を総動員しても、容易に用意できる代物ではない。


 しかも相手はシステムに実在する本物を指定してきている。


 ごまかしに効く品ではない。


 しかし。


 どんなに困難でも、死ぬよりは遥かにマシだ。


 冲田は声にならないため息をつき、頷いた。


「承知いたしました。この老いぼれ、必ず手配いたします」


 私とユーナは目を合わせた。


 話はまとまった。筋から言えば、もう引き揚げてもいいはずだ。


 しかし、私は踵を返さなかった。


 私は手鎧の側面にある隠し溝から、あるものを取り出した。


 黒い 革製 の 首輪だ。


 見た目はそこらの装飾品と変わらない。


 革面は滑らかで、留め金は艶消しの金属、一見しただけでは何の変哲もない。


 だが、よく見ると、革面の内側に一周、極細の文様が刻まれていることに気づくだろう。


 ある角度から見ると、かすかな青紫色の蛍光を放つ。


 魔導刻紋。


 この品の真の核心だ。


 私はゆっくりと冲田に近づいていく。


 彼は私の手にあるものを見つめ、視線が強張った。


「エリクソン様、それは……?」


「契約を結びに参りました」


 私は彼の前にしゃがみ込み、その首に首輪をはめた。


 金属の留め金がカチリと音を立てて噛み合う。


 冲田は数秒の間、動けずにいた。


 それから手を持ち上げ、自分の首に増えた異物をそっと触れる。


 複雑な感情が一瞬顔をよぎり、また押し込められた。


「エリクソン様、人を辱めるにしても、これはあまりにも度を超しております」


 彼の声に、何かが滲んでいた。


 屈辱なのか怒りなのか、自分でも判別がつかないようだった。


「これはあまりにも酷い」


「これは辱めではありません」


 私は立ち上がり、手鎧を留め直しながら言った。


「こちら側の世界で使われている、人を制御するための魔導器です」


 一拍、置いて。


「簡単に申しますと——この首輪は装着者の思考を感知します。もしあなたが、裏切りの意思を抱く、あるいは、今日ここで起きたこと、私たちの身元を誰かに漏らそうとする——そういった考えが少しでも浮かんだら、この首輪があなたに……警告を差し上げます」

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