138. 偽りの少女、実戦あるのみ
レストランの看板が、雨上がりの夜色のなかで暖かな黄色い光を放っている。
十数歩も離れていないのに、中から漂ってくる焼き肉の香りがはっきりとわかった。
そのとき、私の腹が、最悪のタイミングでぐぅっと鳴った。
ユーナが振り返り、ピンクの前髪の下からじっとりとした目で私を見つめてきた。
口元には、あの見慣れた。
思わずデコピンしたくなるような、あの笑みが浮かんでいる。
「あら〜クローディア様、お腹すいたんですね」
彼女は甘ったるいほどに語尾を伸ばし、その声には彼女特有の、無駄に楽しげな響きが混じっている。
「……黙れ」
彼女はくすくす笑いながら、半歩ぴょんと跳ねて前に出て、私と肩を寄せ合った。
淡い梅の花の香りが夜風に混ざってふわりと漂ってくる。
私は声を出さずに、ほんの少しだけ口元を緩めた。
この匂いはなんだか妙なものだ。
異世界から持ち帰った習慣のようなもの。
この匂いがそばにあるだけで、心のどこかが自然とほどけていく。
佐藤さんは私たちの右側を歩いている。
黒い短髪が街灯の下でくすんで見え、厚い唇をだらしなく開け、レストランのショーウィンドウに飾られた焼き肉の盛り合わせを、目を輝かせて眺めていた。
「あのホルモン、めっちゃうまそう……あと豚トロも。あー、今日三杯は飯いけそうな気がする。」
私は心の中で白目をむいた。
異世界から転移魔法で地球に戻ってくる。
本来ならかなり感慨深いはずの出来事なのに、この二人と一緒だと、故郷に帰ってきたというあの荘厳な思いは、きれいさっぱり消し飛ばされてしまう。
ときどき、立ち止まって考えてしまうことがある。
此前の三十年間、小説とゲームに浸りきっていたあの男と、今こうしてクローディアという白髪碧眼の器でこの世を歩いている私と、いったいどちらがより「本物」なのだろうか、と。
おそらく、どちらも、それなりに本物なのだろう。
そして、どちらも、それなりに荒唐無稽なのだろう。
そう考えていると、背後の路地から、乱雑な足音が聞こえてきた。
私は足音が地面に落ちたその瞬間に立ち止まった。
普通の通行人の足音ではない。
リズムが乱れ、踏み込みが重く、人数が多い。
それに、わざと足音を潜めているのに、うまく潜めきれていない。
これは、人を包囲するときの歩き方だ。
異世界で何度も見てきた。
その匂いは、地球のものでも何も変わらない。どちらも「これから手を出す」という合図だ。
身体が頭より先に反応し、魔力がすでに血管のなかをそっと流れ始めている。
まるで弓弦がゆっくりと引き絞られていくように。
「あれ、クローディアさん、なんで止まった——」
佐藤さんがぶつかりそうになった。
私は振り返らず、口を開いた。
「七人。左側の路地から。あと二人、右の影のなかで動いてない」
佐藤さんは一瞬、固まった。
「……なんでわかるんですか?」
「足音」
ユーナは音もなく私のそばに寄ってきた。
白く細い指が、そっと私の手の甲に触れる。
彼女は何も言わなかった。
その触れ方を感じて、胸の奥が、なぜかふと、小さく震えた。
静かな水面に小石が落ちたみたいに、さざ波はすぐに消えたけれど。
たしかに、そこにあった。
——
そして、連中が出てきた。
やはり七、八人。それぞれが手に鉄パイプを握りしめている。
街灯の下で冷たい白い光を放っていた。
先頭に立つのは、髪を真っ赤に染めた若い男だった。
やたら鮮やかな色合いで、なんだか安っぽい警告色みたいだ。
彼は鉄パイプを手のひらにトンと叩きつけ、「ドン」という鈍い音を響かせた。
おそらく自分に勢いをつけるつもりなのだろう。
「よぉ」
彼の目が私の身体の上をぐるりと這い回り、歯を見せて笑った。
「お昼に俺らをボコった美人ちゃん、じゃねえか?」
私は心のなかで素早くこの男の評価をつけた。
身長は約一七八センチ、肩幅は中程度。
鉄パイプの握り方は右手が主力で、左足がやや前。
右側で力を入れる癖があるということだ。
喧嘩経験はあるが、私が本気を出すまでもないレベル。
評価結果:格下。
「てめえら、何の用だ!」
先に口を開いたのは佐藤さんだった。声は明らかに震えている。
でも彼は半歩だけ、私たちの前に身体を差し出した。
私は彼を一目見た。
そばかすだらけの顔で、目を大きく見開いている。
手は拳を握りしめ、足は少し震えている。
けれど、後ろには下がらなかった。
なかなか面白い男だ。
こんなにビビってるのに、それでも前に出ようとする。
紅髪の男は佐藤さんを流し目で見て、さらに下品な笑みを浮かべた。
「おや、お嬢ちゃんの隣には男連れか? まあ、そのひょろい体じゃ、役に立たねえだろうけどな。」
「あと半歩、前に出たら」
私は彼の言葉を遮り、目を上げてまっすぐに見据えた。
「その歯、一本ずつ抜いて差し上げます」
口調は平坦で、脅しというより。近いうちに起きる事実を淡々と述べたような響きだった。
声そのものに抑揚はない。だからこそ、怒鳴られるよりもずっと不快に響く。
紅髪の男は一瞬、固まった。だがすぐに笑みを貼り付け直した。
「お嬢ちゃん、ちょっとばかり腕に覚えがあるのはわかってるよ。でも今回は、こっちもちゃんと得物を持ってきたんだぜ。おとなしくしたほうが、身のためじゃねえか?」
彼は姿勢を変え、鉄パイプを肩に担いだ。
「それによ、今日は俺たちも機嫌がいいんだ。ちょっと俺らと遊んでくれりゃあ、昼の件は水に流してやる。損はさせねえって。」
彼が言い終わらないうちに、何人かがもう野次を飛ばし始めて笑っている。
その笑い声には、ある種の連中特有の卑猥さがべったりと貼り付いていて、聞いているだけで肌が粟立つ。
あの男はまだ何かをしゃべり続け、笑い声に合わせて卑猥な仕草をいくつか交えた。
周りの連中も同調して囃し立てている。
私の右手はゆっくりと拳を握った。
妙な話だ。異世界で斬り捨ててきた人間は少なくないのに、本当に胸の奥であの冷たい怒りが湧き上がってくるのは、むしろこういうものに対してだ。
剣と剣のぶつかり合いなら、まだ綺麗なものだからかもしれない。
でも、こういう口調、こういう笑い方、人を物扱いして遠慮なく値踏みするあの目つきこそが、本当に吐き気を催させるものなのだから。
「無駄口はそこまでだ」
私は低くそう言い放ち、つま先で地面を蹴った。連中めがけて一気に飛び出す。
「おやおや、この美人ちゃん、なかなかノリがいいじゃねえか。そんなに待ちきれずに、お兄さんの——」
私の拳が、一足先に届いた。
ガツンと彼の頬骨にめり込む。魔力を帯びた衝撃が皮膚と肉を貫き、その一瞬、骨から伝わってくる震えをはっきりと感じ取れた。
紅髪の男は、最後の一文字すら言い終えられず、まるで誰かに蹴り飛ばされたレンガのように。
ドガッ、と路肩の植え込みに吹っ飛び、鉢植えを二つなぎ倒し、土煙をまき散らした。
私はその場に立ち、上着のポケットから白いシルクのハンカチを取り出し、ゆったりとした動作で拳面にわずかに付いた血を拭った。
ハンカチは昼間、大型スーパーでついでに買ったものだ。
その場は三秒ほど、完全な静寂に包まれた。
そして、手下どもが一斉に爆発した。
「兄貴!」
七、八人がいっせいに殺到し、手にした鉄パイプが風を切って唸りながら、私めがけて振り下ろされる。
そのとき、私の手首の袖が、ぐいっと掴まれた。
身体ごと、強く後ろに引っ張られる。
「クローディアさん、早く逃げて!」
佐藤さんが私の前に立ちはだかり、両腕を広げて私を背に庇った。両足はまだ震えているけれど。
背筋はピンと伸びている。
彼に腕を掴まれたその瞬間、頭の中では何かがそっと揺れた。
もし私が本当に、ただの十二、三歳の女の子だったなら。
今ごろ泣いていただろう。
怖がっていただろう。あるいは、胸の奥にぽっと温かい花が咲いたかもしれない。
でも、私は三十年分の男の魂を持ち、異世界で魔物を追いかけ回して七、八年も斬り続けてきた「偽りの少女」だ。
彼が庇っているのは片手で鉄筋をより合わせて麻縄にできる化け物だ。
私は無言で小さく息をつき、魔力で自分の重心を安定させた。
そして手のひらを彼の肩に置き、そっと横後ろに押しやる。
「じっとしてて」声をひそめて言った。「血が飛び散るから」
——
二本の鉄パイプが、同時に振り下ろされた。
私は横にずれもしなければ、避けもしなかった。
右手を伸ばし、二本の鉄パイプは、そのまま直角に私の掌のなかに落ちてきた。
「カン、カン」と二度。掌から伝わってくる震えは、予想より少し強かった。
まあ、こんなものだ。
あの二人はその場に立ち尽くし、まだ力を込めて鉄パイプを引き抜こうとしている。
しかし、まるでコンクリートに打ち込んだかのように、微動だにしない。
彼らは手元の鉄パイプを見下ろした。するとパイプが、少し……曲がっている?
私も彼らの視線を追って、ちらりと見下ろした。
たしかに、ほんの少し曲がっている。握るときに、うっかり力が入ってしまったらしい。
まあいい。
私は指にほんの少し力を込めた。
鉄製の水道管が、掌の中の細かくギシギシと悲鳴を上げ始める。
まるで金属そのものがもがいているかのような音だ。
そして——音が止んだ。
その二本の鉄パイプは、二秒とかからずに鉄粉へと変わった。
細かな粉末が、私の指の隙間からさらさらと滑り落ち、地面に灰色の小さな屑の山を二つ残した。
その場は三秒ほど、完全な静寂に包まれた。
あの連中は、空っぽになった自分の手を見つめ、それから地面の鉄粉を見つめ、それから私を見つめた。
唇がぴくぴくと動いたが、声はひとつも出てこない。
おそらく「命乞い」と「逃走」の二択が、同時に喉に引っかかって、どちらも口に出せないのだろう。
私は彼らに選択の時間を与えた。約三秒。
三秒後——私は足を出した。
一人を蹴り飛ばし、身をひるがえして二人を蹴り倒し、残る数人は逃げようと足を上げたところで、手首を私につかまれた。
その勢いで引っ張られると、身体ごと吹っ飛び。
道端のレンガ壁に、ドガガッとめり込んだ。
動きは流れるようで、淀みがない。喧嘩というよりは。
適度な負荷のかかった朝の体操と言ったほうが近い。
ほどなく、路地の入り口には最後の数人だけが立ったまま残され、残りはみな。
様々な姿勢で周囲の硬いものに埋め込まれていた。
残った連中は互いに顔を見合わせている。戦意はすでに地に落ちていた。




