128. 初めての電車と、離さない手
ユーナはこくりと頷き、その瞳に浮かぶ畏敬の色は次第に好奇心へと変わっていった。
彼女はもう一度、恐る恐るその缶コーヒーに指先でそっと触れ、小さな声で尋ねた。
「これも……コーラみたいに飲めるものなの? どんな味がするの?」
「これはコーヒーだよ、飲むと目が覚めるんだ。ちょっと苦いから、ユーナには合わないかもしれないけどね」
佐藤さんは笑いながらそう言って、缶コーヒーのプルタブを引いた。
「試しに飲んでみていいよ、不味かったら吐き出せばいいだけだし、大丈夫」
ユーナはおそるおそるコーヒーを受け取り、長いこと躊躇った末に、そっとひと口含んだ。
瞬間、苦味が舌の上で一気に広がり、彼女の眉はたちまち小さく寄せられてしまった。
すぐさまコーヒーを佐藤さんに突き返し、小声でぼやいた。
「に、苦い……薬水より苦いわ。コーラのほうがずっと美味しい……」
私と佐藤さんは、思わず声を上げて笑ってしまった。
しばし休憩したあと、私たちは花の国の市街地へ向かうことにした。
何しろ今回この世界にやってきた目的は、エーリクセン領の発展に役立つ物資や技術を見つけることだ。
市街地は都市の中枢として物資も豊富で、情報も集まりやすい。
きっと必要なものが見つかるはずだ。
ここから市街地まではまだ距離があるため、電車に乗る必要があった。
佐藤さんは慣れた足取りで私たちを連れて、通り沿いに近くの駅へと向かった。
駅はこぢんまりとしていて、通り沿いの空き地に建てられていた。
周囲は低い塀で囲まれ、壁面には花の国らしい特色ある模様が描かれている。
ラッシュの時間帯ではないため、駅の人影はまばらだった。
数人の乗客が壁に手を置いて携帯をいじっていたり、ベンチに座ってぼんやりしていたりと、ひどく静かだった。
それでも、ユーナは緊張で私のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、指の関節は力が入りすぎて白くなっていた。
彼女の身体は微かに震えていて、薄いワンピース越しにも、その手のひらに滲む冷や汗がありありと感じられた。
「こんな変なものばかりで……知らない人もたくさんいて……本当に怖すぎる……」
ユーナの声はひどく小さく、しかも震えていた。
言い終わるかどうかのうちに、駅の構内放送から流れる女性の声にかき消されてしまった。
放送では、電車の到着時刻や走行ルート、注意事項がはっきりとアナウンスされている。
ユーナにはそれがどこか未知の呪文のように聞こえ、一層不安を煽っているようだった。
私はそっと足を止め、振り返って彼女を抱き寄せた。
片手で彼女の背中を優しく叩き、もう一方の手で冷たくなった彼女の手を握り、柔らかな声でなだめた。
「怖がらなくていいよ、ユーナ。私がついてるからね。これらは全部、この世界ではごく普通のものなんだ。この人たちもみんな普通の人で、私たちに危害を加えたりしないから」
ユーナは私の腕の中に身を寄せ、鼻先に漂う私の仄かな椿の花香に包まれて、ようやく少しだけ緊張がほぐれたようだった。
彼女は私の服の裾をそっと握りしめ、頬を胸元にうずめて、小さな声で言った。
「でも……ここはエーリクセンとあまりにも違いすぎます。何ひとつわからないし、何ひとつ知らないんです」
「大丈夫。私がずっと一緒にいて、この世界の色んなことを少しずつ教えてあげるから」
私はそう言うと、彼女の頭のてっぺんにそっと口づけを落とした。
心の奥底でひそかに誓う。
必ず彼女をこの世界に馴染ませてみせる、そしてこの世界でも彼女に幸せを感じさせてあげよう、と。
その時、佐藤さんはすでに券売機の前に立っていた。彼の黒い短髪は風で少し乱れ、そばかすだらけの顔は真剣そのもの。
指で券売機の画面を素早く操作している。
「行き先は市街中心駅っと……ああ、三人だから、チケット三枚ね」
彼はそう、小声でぶつぶつ言いながら、ポケットからひと掴みの硬貨を取り出し、一枚一枚、券売機の投入口に落としていった。
硬貨が投入される小気味よい音が鳴り終わった直後、ユーナが突然、私の袖をぐいっと引っ張った。
その目は驚愕に見開かれていて、佐藤さんの手に握られた三枚のカードを指さした。
「クローディア様! あの自動販売機が、三枚もカードを吐き出しました! これは何ですか? 何かの証明書ですか?」
彼女の驚いた顔を見て、私は思わず笑ってしまい、我慢強く説明した。
「あれは自動販売機じゃなくて、券売機だよ。そのカードは切符で、これから電車に乗る時に使う証明書なんだ。切符がないと電車には乗れないんだよ。ちょうど私たちのエーリクセンで通行令がないと城に入れないのと同じこと」
ユーナは納得したような、していないような顔でこくりと頷き、私の手の中の切符にそっと手を伸ばし、指先でカードに印刷された電車の絵をなぞりながら、小さな声で言った。
「すごい……こんな薄っぺらい一枚のカードが、乗車の証明になるなんて。私たちの通行令よりずいぶん小さくて軽いんですね」
佐藤さんは切符を買い終えると、私たちに手渡して、笑いながら言った。
「さあ行こう、改札を通ろう。電車はもうすぐ来るから、乗り遅れたらまた三十分待たなきゃいけないよ」
私たちは頷き、佐藤さんに続いて改札口へ向かった。
切符を改札機に通すと、「ピッ」という高い電子音が鳴り、改札のゲートがゆっくりと開いた。
こうして無事、駅のホームへと入ることができた。
ホームはとても広く、床には滑らかなタイルが敷かれていて、人影が映るほどぴかぴかだった。
両側には平行に走る線路があり、線路は陽の光にキラリと鈍い金属光沢を放っている。
真ん中には鮮やかな黄色い安全線が引かれていた。
構内放送が時折流れて電車の到着案内を告げ、乗客たちは皆おとなしく安全線の外側に立ち、静かに待っていた。
ホームに着いた矢先、構内放送が再び流れ始めた。
柔らかな女声がホーム全体に響き渡る。
「ご乗車のお客様にお知らせいたします。まもなく、市街中心駅行きの電車が参ります。黄色い安全線の内側でお待ちいただき、線路には近づかぬようご注意ください。ご協力ありがとうございます」
放送の声が終わるか終わらないかのうちに、線路がかすかに震え始めた。
地面から伝わる微かな振動は、最初こそかすかだったものの、次第に強くなっていき、足の裏が痺れるほどになった。
ユーナの反応は驚くほど素早かった。
ほぼ振動を感じ取った瞬間に、彼女は身を翻して私の前に立ち塞がり、身体を弓のようにピンと張り詰めさせた。
桃色の長髪が風もないのにふわりと揺れ、頬の両側に貼りつく。
彼女は素早く戦闘用の呪文を唱え始め、桃色の魔力が指先に集まって淡い光の盾を形作った。
警戒の眼差しで線路の方向を睨みつけ、真剣な声で言った。
「クローディア様、大型の魔物がこちらへ近づいています! 気配がかなり強い、しかもかなりの速度です。下がってください!」
その時——一条の銀白色の光の影が、遠くからゆっくりと走り寄ってきた。
一台の全体が銀白色の電車が、線路に沿ってゆっくりと近づいてくる。
先頭車両のライトは柔らかく、車体は滑らかで陽の光を浴びて細やかな金属光沢を放っている。
長い編成はまるで銀色の大蛇のように、安定した滑りで前へと進んでいた。
電車が近づくにつれて振動もどんどん激しくなり、車輪と線路が擦れ合って「ガタンゴトン」という音を立てたが、それは耳障りなものではなかった。
ユーナの呪文がぴたりと止まった。
指先に集中していた魔力も次第に霧散していく。彼女の表情は警戒から一瞬で驚愕へと変わった。
唇が小刻みに震え、目は大きく見開かれ、瞳孔が激しく収縮している。
目前にゆっくりと迫る電車を見つめながら、小声で呟いた。
「こ、これ……もしかして金属蠕虫ですか? こんなに大きな体で、線路の上を動いて……しかも翼もなければ、手足もない……怖すぎる……」
窓ガラスに反射した陽の光が彼女の頬の上で揺れ、ほんのりと紅潮した頬を照らし出す。
その驚愕の中には、ごくわずかな好奇心も混ざっているようだった。
私は慌てて前に出て、そっと彼女の手を引いた。
優しく辛抱強い口調で説明した。
「怖がらないで、ユーナ。これはさっき放送で言ってた電車だよ。金属蠕虫なんかじゃない。花の国の交通手段で、私たちエーリクセンの馬車と同じ、人を運ぶためのものなんだ。ただ、馬に引かせるんじゃなくて、電気の力で動いているだけ。馬車よりずっと速くて、もっとたくさんの人が乗れるんだよ」
「これも……乗り物の一種なんですか?」ユーナは眉をひそめ、小さな声で尋ねた。
その瞳の驚愕は徐々に薄れ、代わりに濃厚な好奇心が浮かんでくる。
「でも、馬もいなければ、車輪も見えないのに、どうやって動くんですか? それにこんなに大きい……私たちの領地で一番大きな馬車より何倍も大きいのに、中には一体何人乗れるんですか?」
「車輪はあるんだよ。ただ車体の下に隠れて見えないだけ。」
私は笑いながら電車の底部を指さした。
「電気の力で動いてるから、魔力も使わないし、馬に餌をやる必要もないんだ。とても便利なんだよ。乗ってみれば、どれだけ凄いかわかるから。中は広くて、何十人も、時には百人以上も乗れるんだから」
ユーナは納得したような、していないような顔でこくりと頷き、電車から目を離さず、桃色の睫毛をかすかに震わせていた。
やはりまだ慣れない様子だ。
間もなく、電車はゆっくりと停車し、車体がホームとぴったり同じ高さで並んだ。
ドアが「プシューッ」という音と共に開く。
「さあ乗ろう、ユーナ。入口に立ってちゃダメだよ、後ろの人にぶつかられちゃうから」
私はそっと彼女の手を取って優しく声をかけ、電車の中へと引っ張っていった。
今は夏の季節で、花の国はかなり暑い。
車内には冷房が効いていて、温度はかなり低く設定されている。
一歩車内に足を踏み入れたとたん、ひんやりとした冷気が一気に押し寄せてきて、外の蒸し暑さとの鮮やかな対比を生み出した。
ユーナは反射的に震え上がり、身体を小刻みに震わせると、慌てて私にぴったりとくっついた。
「クローディア様……この電車ってやつ、すごく寒いです……」
彼女は小声でぼやき、その声には少しばかりの哀愁が滲んでいた。
エアコンから吹き出される白い冷気が、私たちの目の前でふわふわと揺れている。
彼女は無意識に私の腕の中へと身を寄せ、頭を私の肩にうずめた。
私はそっと彼女を抱き寄せ、自分の上着で彼女の肩をくるんでやった。
片手で彼女の背中を優しく叩き、柔らかな声でなだめる。
「もうちょっとだけ我慢して、ユーナ。すぐ市街地に着くから、着いたら降りよう。そしたらもう寒くないからね」
ユーナは私の腕の中にうずくまったまま、こくりと頷いた。
頬はほんのり赤らみ、その口元には甘やかな笑みが浮かんでいる。
やがて、電車がゆっくりと動き出した。
走り始めはとてもゆっくりだったが、次第に速度を上げていき、車体は揺れをほとんど感じさせないほど安定していた。
なのにユーナはまだ慣れていなかった。
うっかり慣性にやられてバランスを崩し、そのまま私の腕の中へと倒れ込んできた。
彼女の両手は反射的に私の腰にしがみつき、頬は私の胸にぴったりと押しつけられた。
その顔には驚愕の表情が張りついている。
「きゃっ、飛ばされ——!? なんの魔法ですかこれ? どうして私はまっすぐ立てないんですか!?」
彼女の小さな叫び声は、決して大きなものではなかったが、それでも周りにいた数人の女子高生たちの注意を引いてしまった。
彼女たちは花の国の制服を着て、きちんとポニーテールに結った髪。
ユーナの驚愕と戸惑いの様子を見て、思わずくすくす笑い声を漏らした。
彼女たちは肩を寄せ合い、小声でひそひそと話しながら、時折こちらをちらちらと盗み見てくる。その目には好奇心が溢れていた。
何しろ、私とユーナの服装はあまりにも特別すぎる。
私の白金色の長髪、ユーナの桃色のポニーテール、そして私たちの衣服も、花の国の日常的な服装とはまるで違っていたのだ。
加えて、ユーナのあの反応。
どう見てもこの土地の人間には見えなかった。
私は彼女たちが何を言っているのか、なんとなく察しがついた。
おそらく私たちの素性を不思議がり、ユーナがどうしてあんな大げさな反応をするのかを不思議がっているのだ。
私はそっとユーナの背中を叩き、優しくなだめた。
「魔法じゃないんだよ、ユーナ。これは物理学でいう慣性なの。電車が発車する時には前へ進もうとする力がかかるんだ。身体がまだ慣れてないからバランスを崩しちゃうだけで、慣れれば大丈夫」
ユーナはわかったようなわからないような顔でこくりと頷いたが、それでも私の腰にしがみついたまま、離れようとはしなかった。
彼女の頬は私の胸にぴったりと寄せられ、私の鼓動がはっきりと感じられるほどだ。
その瞳に浮かぶ驚愕が、次第に好奇心へと変わっていく。
彼女は慎重に顔を上げ、車内のすべてをきょろきょろと見渡した。
整然と並んだ座席、点滅する電子掲示板、車両の壁に貼られた広告、そして窓の外を猛スピードで流れていく景色。
そのどれもが彼女にとっては目新しく、その瞳は探検の光でキラキラと輝いていた。
「クローディア様、見てください。窓の外のあの建物、どうしてあんなに高いんですか?」ユーナが小さな声で尋ね、指で窓の外を指さした。
「私たちのエーリクセンのお城よりもずっと高い。それに、一棟ずつ隙間なく並んでいて、すごく綺麗に並んでる……あの中にはきっとたくさんの人が住めるんでしょうね?」
私は彼女の視線を追った。
窓の外には、きっちりと並び立つ高層ビル群が連なっている。
外壁はなめらかで、ガラスのカーテンウォールが陽の光を反射し、ひときわ壮大に見えた。
私は笑いながら説明した。
「そうだね、あれは花の国の住宅ビルで、中にはたくさんの人が住んでいるんだ。花の国は人が多いけど、土地が限られているからね。だからみんな高いビルをたくさん建てて、そうすれば場所を節約できるし、暮らすのも便利になるんだよ」
ユーナは真剣に耳を傾け、時折こくりと頷き、小声で呟いた。
「なるほど……この世界は本当に不思議すぎます……泡が出る飲み物があったり、自動で物を売ってくれる機械があったり、あんなに高い建物があったり、しかも馬なしで動く電車まである。本当にエーリクセンとは全然違います」
彼女の好奇心と憧れの入り混じった表情を見つめながら、私は心の中でひそかに思った。
これからも、必ず彼女にもっとたくさんの新しいものを体験させてあげよう。
この世界でも、彼女が喜びを感じられるように。
佐藤さんは少し離れた場所に立って、片手で携帯をいじりながら、時折ちらりとこちらを盗み見ては、厚い唇の端をにんまりと吊り上げ、顔に意味ありげな笑みを浮かべていた。
小声で呟いている。
「ひゅ~、まったくラブラブだねぇ。どこに行っても離れようとしないなんて、歩くだけでリア充爆発しろだよ。こっちは腹いっぱいになっちゃうじゃないか」
私は呆れ顔で彼を睨みつけ、これ以上余計なことを言うなと目で警告した。
彼はすぐにうつむいて、携帯をいじるふりをしたが、その肩は微かに震えており、どう見てもこっそり笑っているのがバレバレだった。
ユーナは私の腕に寄りかかりながら、佐藤さんの呟きを聞き取ったかのように、頬が一層赤くなった。
彼女はそっと私の腰をつつき、小声でからかうように言った。
「お嬢様、あの人の言う通りなんですよ。私たち、ちょっとくっつきすぎじゃないですか?」
私は頬がほんのり熱くなったのを感じ、わざと平静を装って言った。
「あんなの気にしなくていい。人が多いから、はぐれたら大変だし、それに……あなたも怖がるだろうから」
ユーナはクスッと笑い、その瞳には慈しむような色が溢れていた。
彼女はそっと私の肩に頬を寄せて、それ以上は何も言わず、ただぎゅっと私の腰にしがみついて、安心したように私の腕の中に身を寄せついていた。




