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120. 花の国、そして奇妙な出会い

 借りている小屋に戻ってから、ユーナが作ってくれた夕食を済ませると、俺はすぐに自室へこもり、扉を閉めて魔導器の素材を取り出し、無心で作業に没頭した。


 時間が経つのは驚くほど早く、あっという間に週末になっていた。


 ここ数日、俺は寝る間も惜しんで魔導器を作り続けた。


 魔力を蓄える徽章を二つ、言語翻訳器を一つ仕上げてユーナに渡し、さらに万が一に備えて危険を察知する魔法のペンダントも一つ用意した。


 事前にニナとチャーリーには、今週末は遠出すると伝えてある。


 だから、借りている小屋に彼女たちが訪ねてくる心配はない。


 持っていく魔導器の準備をすべて整え、俺とユーナは借りている小屋のリビングの中央に立った。


 俺はあらかじめ作っておいた転送錨を床に置く。


 指先に魔力を注ぎ込むと、転送錨が淡い青色の光を放ち、転送陣の輪郭を描き出していく。


「あの部屋、誰もいませんように……」


 俺は思わず小声で呟いた。


 心の中は少なからぬ不安でざわついている。


 あの世界を覗いてみたい気持ちは山々だが、もしあの部屋に誰かが住んでいたら、俺たちが突然現れることで、いらぬ面倒を引き起こしかねない。


 最悪、こちらの正体が露見する恐れもある。


 だが、あの部屋の座標だけが、俺の知る唯一の場所なのだ。


 こうなったら、運を天に任せるしかない。


 ユーナが俺の手をぎゅっと握ってくれた。


 指先の温もりが肌を通して伝わってきて、その口調は毅然としながらも、どこかからかうような響きを帯びている。


「心配いりませんよ、私がついています。たとえ座標がまたズレたって、どうせまた池に落ちるくらいです。その時はまた、前みたいにお嬢様の髪を乾かしてあげますから」


 彼女はそう言いながら、わざとらしくウインクまでしてみせた。


 目には悪戯っぽい光が満ちていて、明らかに俺をからかっている。


 俺の頬がほんのり熱くなる。軽く睨み返してやった。


「縁起でもないこと言うな! 今回は転送錨があるんだ、絶対に間違えるもんか!」


 彼女は目を細めて楽しそうに笑い、それ以上は俺をからかわず、ただ無言で俺の手を握りしめてきた。


 彼女の体から漂う淡い梅の花の香りが、俺の心に渦巻いていた不安を少しずつ和らげていく。


 俺は一つ頷き、深く息を吸い込むと、ユーナの手を引いて共に転送陣へと踏み出した。


 青い光が閃き、目の前の景色が瞬時にかき消える。


 見覚えのある転送感が二人を包み込んだ。


 次の瞬間、俺たちは「ドサッ!」という音と共に、誰かの上に折り重なるように落下していた。


 着地に失敗し、バランスを崩した俺は、そのまま温かい肉体の上に全体重をかけて押し潰す格好になった。


 ユーナもまた、俺の隣で一緒くたに倒れ込んでいる。


 俺たち二人は、左右から一人がかりで、その人物を完全に下敷きにしてしまっていた。


 体の下からは苦しそうな呻き声が漏れ、同時にじたばたと藻掻く気配が伝わってくる。


『うわああっ! なんだお前ら! 早くどけって! 圧死するっつーの!』


 俺は慌ててユーナの手を引いて立ち上がり、服に付いた埃を手早く払った。


 それから、床に倒れている人物を見下ろした。


 そこにいたのは一人の男子生徒だった。


 身長は高くない。


 せいぜい一メートル五十センチ程度の、かなり小柄な体格だ。


 黒い短髪で、前髪が目を覆い隠すばかりに長く伸びている。


 顔中に吹き出物の跡が目立ち、唇も厚い。


 彼はシンプルな白いシャツに黒いズボンという格好で、床に寝転んだまま、俺たちに圧迫された腹を擦りつつ、むくれた顔でこちらを睨み上げている。


 彼の口から発せられているのは、聞き覚えのある言語だ。


 花の国の言葉だ。


 やはりここは、俺が前世で生きていたあの世界なのか?


 幸い、俺は前世で二年ほど花の国の言葉を学んでいたし、関連する試験も無事に通っている。


 日常会話程度なら問題なくこなせるはずだ。


 だが、ユーナには全く理解できないらしい。


 彼女は眉をひそめ、きょとんとした顔でその男子生徒を見つめてから、俺の方を向いて小声で尋ねてきた。


「お嬢様、あの人、何て言ってるんですか? 私にはさっぱり……」


 俺は彼女の肩を軽く叩いて大丈夫だと伝えた。


 それから、床からようやく起き上がろうとしている男子生徒に向き直る。


 口調には申し訳なさが混じるが、同時に一線を引くようなよそよそしさも滲ませている。


「悪かったな、わざとじゃないんだ。うっかりぶつかっちまった」


 男子生徒は腹をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。まだむっとしてこちらを睨んでいる。


 だが、俺たちの姿をはっきりと認識した瞬間、彼の顔に浮かんでいた怒りは綺麗さっぱり消え去った。


 代わりに広がったのは、あまりにもあからさまな驚愕だ。


 目を丸くし、口をぽかんと大きく開けている。


 彼は手を伸ばして、俺の尖った耳に触れようとしてきた。口調には好奇心がありありと滲んでいる。


『うわっ! その耳……コスプレでエルフやってんの? めっちゃ本物っぽいんだけど!』


「パシン!」


 俺は迷わず彼の手を払い除けた。目に一瞬、不快の色が走る。


 俺は、こうやって無遠慮に手を出してくる奴が一番嫌いだ。


 異世界だろうと元の世界だろうと、それは変わらない。


 彼は手を叩かれて一瞬身をすくめ、痛そうな顔をしながらも、まだ驚きを隠せない様子で言った。


『いてっ! マジで本物なんだな! もしかしてお前ら、異世界人とか?』


 俺の耳が本物だと分かった瞬間の彼の慌てぶりと言ったらなかった。


 俺たちの周りをぐるぐる回りながら、口からは絶え間なく独り言が漏れている。


『マジかよ! 異世界人って本当にいるんだ……すげえ! お前ら、俺の言ってることわかんの? ハロー? グッドイブニング? あー……他の言語は話せねえしなあ……』


 彼は頭をかきながら、一人でぶつぶつと呟いている。


 なかなか芝居がかった奴だな、と俺は思った。


 俺はわざとらしく呆れた目つきで彼を一瞥し、淡々とした口調で言った。


「無駄な真似はよせ。花の国の言葉なら聞き取れる。英語での会話もできなくはないが、お前の発音は花の国訛りが強すぎて、まるで聞き取れん。花の国の言葉で話してくれ」


『えっ!? エルフが花の国の言葉を話せるのかよ!?』


 彼は驚きのあまり、椅子から飛び上がろうともしなかった。


 表情の変化が実に忙しい。驚愕、興奮、そして信じがたいといった色が入り混じっている。


『まさか異世界って、もう花の国の言葉が公用語になってたりするわけ!?』


(……こいつ、想像力だけは無駄にたくましいな)


 俺は心の中で毒づいた。


 俺だって知っている。花の国というのは、異世界を題材にした創作物を最も多く生み出している国の一つだ。


 花の国の高校生や、その他の年齢層の者たちが、何かの事故をきっかけに異世界へ渡り、そこで花の国の科学技術や文化を駆使して異世界を発展させていく。


 そんな物語が掃いて捨てるほどある。


 だからこそ、俺が花の国の言葉で話しかけたのを聞いて、彼は当然のように「異世界ではすでに花の国の言葉が公用語になっている」と勘違いしたのだろう。


「考えすぎだ、お前は」


 俺は彼に冷ややかな視線を送り、呆れ混じりの口調で言った。


「たまたま俺が学んでいただけだ。花の国の言葉が異世界で流行っているかどうかとは、一切関係ない。それより、お前の名前は?」


「佐藤です」


 彼は気まずそうに頭をかき、苦笑いを浮かべた。


 その口調にはいくぶんの照れが混じっている。


「名前、ありきたりすぎてすみません。気にしないでください」


 本当に、平凡と言えばこれ以上ないほど平凡な名前だ。


 この国の人間を適当に一人捕まえてみたら、きっと佐藤という名前なのではないかと思えてくるほどだ。


 俺は心の中でそっと突っ込んだが、顔には出さず、変わらず落ち着いた表情を保って言った。


「俺はクローディア・フォン・エーリクセン。こちらは私の侍女、ユーナ・フランチ」


 俺は礼儀正しく自分たちを紹介し、指先でそっとユーナの腕に触れて、緊張しなくていいのだと合図を送った。


 ユーナは会話の内容こそ理解できていないものの、それでも佐藤に向かって優雅に一礼してみせた。


 顔には品の良い微笑みを浮かべている。


 彼女の体から漂う淡い梅の花の香りが、佐藤のすぐそばまで届いた。


 佐藤はその香りを嗅ぎ取って、再び目を輝かせた。


 ユーナを見つめる目には好奇心が溢れているが、さすがに今度は迂闊に手を出そうとはしなかった。


 どうやら、さっき俺に叩かれたのが効いているらしい。


 彼の自己紹介が続く間、俺はそれとなく彼を観察していた。


 彼の身長は、花の国の男子としては平均的な方だ。


 高いとは言えない。いや、むしろ低いと言っても過言ではない。


 体格も太っているとも痩せているともつかない、ごく標準的な体型だ。


 黒い短髪はぼさぼさで、前髪が顔の半分以上を覆い隠し、丸い目だけが覗いている。


 顔の吹き出物の跡ははっきりと見て取れる。


 厚い唇をかすかに引き結び、全体的にどこにでもいそうな、あまり特徴のない顔立ちだ。


 これがもしラノベだったら、間違いなく「モブA」枠だよ!


 ふと、床に一冊の漫画本が落ちているのが目に入った。表紙には奇妙なイラストが描かれ、花の国の文字が並んでいる。


 俺はそれを拾い上げ、ちらりと眺めたその時、ふとある重要な問題に思い当たった。


 まだ、ここが本当に俺の元いた星なのかどうかを、はっきりとは確認していなかったのだ。


 俺は指先で床を軽く叩き、顔を上げて佐藤に真っ直ぐな視線を向けた。


 口調は真剣そのものだ。


「ここはどこだ?」


『え、えっと、ここは花の国だけど?』


 佐藤は得体の知れないものでも見るような目で俺を見つめている。


 まるで宇宙人を眺めるかのような視線だ。


『そんなことも知らないのかよ?』


「違う、そうじゃない。その国の名前を聞いてるんじゃない」


 俺は床をトンと踏みならし、口調にいくぶんの切実さを込めた。


「俺が聞いてるのは、この星のことだ。ここは何という星なんだ?」


『あ、ああ、ここは地球だよ』


 彼は頭をかきながら、不思議そうに答えた。


『なんだよ急に。お前ら異世界人なんだろ? 地球のことまで知らないのかよ?』


「地球」という二文字を耳にした瞬間、俺の胸の奥から張り詰めていたものがすっと抜けていくのを感じた。


 やはり、ここは俺が前世で生きていた、あの地球なのだ。


 俺は佐藤を観察しながら、心の中で素早く思案を巡らせた。


(こいつ、確かに見るからに頼りなさそうだし、見た目もパッとしない。そそっかしいのは間違いない。だが、今の俺たちには、他に現地の人間を頼る当てなどない……)


(何より、こいつは明らかにオタクだ。部屋に転がっている漫画本を見れば一目瞭然だ。オタクというのは総じて新しいものへの許容度が高い。異世界だのなんだのといった突飛な話でも、そこまで大騒ぎにはならないはずだ)

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