106. 緑の導きと、老巣への夜襲
二人は緑色の光の塊を目印に、イスヴァール港の外れにある廃れた倉庫群へと辿り着いた。
空気は湿り気を帯び、潮の香りと、どこか腐ったような不快な匂いが混ざり合っていた。
港町特有の夜の気配が、二人を静かに出迎えた。
「お嬢様、あの光の塊は完全に消えました。もうすぐ、この辺りだと思います」
ユーナが腰の漆黒の巨槌の柄に手を掛け、警戒心を露わにした。ピンク色の長い髪が夜風に揺れる。
俺は指先の定位魔法の余韻を感じ取りながら、静かに頷いた。
「ああ。マフィアのアジトは、この廃倉庫の地下だ」
俺の指先には、もう緑色の光の塊はなかった。定位魔法は目的地に近づくと自動的に消散する仕組みになっている。
代わりに、俺の指先には淡い魔力の糸が微かに残留しており、地下へと続く隠し扉の位置を正確に示していた。
俺は右手の手環に意識を集中させ、ブレンヒルドの槍を呼び覚ました。銀白の槍身が淡い光芒を放ち、周囲の闇を静かに照らし出す。
「行こう。ユーナ、後ろからしっかりついてきなさい。無理に前に出る必要はないわ」
「はい、お嬢様!」
ユーナの返答は短く、しかし確かな決意が込められていた。
倉庫の外壁には、黒い塗料で乱雑に描かれた髑髏の紋様があった。マフィアのシンボルだ。
俺はそっと壁に耳を押し当て、内側の気配を窺った。
数名の構成員の気配が、地下から微かに漏れ聞こえてくる。彼らの会話は途切れ途切れで、明らかに焦りと恐怖が混ざっていた。
「……大哥が殺られたって、本当なのか?」
「噓だろ、あの山のような大哥が、たった二人の小娘に……」
「噓じゃねぇ。生き残ったジョーが戻ってきて言ってたんだ。二人とも化け物みたいな強さだったってよ……」
俺は密かにユーナと目配せを交わし、彼女に頷いて見せた。
ユーナは揺るぐことのない決意を瞳に宿し、巨槌を構える。
俺はそっと指先に魔力を籠め、ブレンヒルドの槍の第一スキルを発動させた。
——戦女神・ブレンヒルド状態。
銀白の鱗鎧が全身を包み込み、背中に広がる白い光翼が、夜気を柔らかに照らし出した。
この姿を見たユーナの瞳に、一瞬だけ艶めかしい色が過ぎたが、すぐに厳しい戦闘の表情へと戻る。
俺は倉庫の古びた扉を、優雅な蹴り技で一蹴した。
『バァン!!』
重い音と共に、扉は蝶番ごと吹き飛んだ。舞い上がる埃の中、地下へと続く石段が姿を現した。
「誰だァァ!!?」
地下アジトの入り口付近で見張りをしていた構成員数名が、驚愕の表情でこちらを振り返った。
彼らの目に飛び込んできたのは、白金の長い髪を揺らめかせ、白い光翼を広げた『戦女神』のような少女の姿だった。
「……え?」
構成員の一人が、理解が追いつかないといった様子で目を瞬かせた、その瞬間だった。
俺の槍の一閃が、彼らの目の前で銀白色の軌跡を描いた。
『ズドン!!』
爆発的な魔力の衝撃が地下空間を揺さぶり、見張りの構成員たちは悲鳴を上げる暇もなく、壁際へと軽く吹き飛ばされていた。
「抵抗は無駄だ。動くな」
俺は冷たい声で告げ、彼らを一瞥してやった。威嚇ではない。単なる事実の提示だ。
ユーナが俺の背後から現れ、巨槌の柄をぐるりと一巡させた。
「おとなしく、素直に膝をつくか、それとも私の巨槌で床を叩いてもらうか……どっちがいい?」
彼女の口調はいつもより幾分低く、そして荘厳だった。
見張りたちは顔を見合わせ、すぐに床に顔を押し付けて平伏した。化け物に対して、抵抗するという選択肢は元々なかったのだ。
俺はアジトの奥へと進んだ。
地下の廊下には、粗末な魔法灯が数基並んでいた。その淡い灯りの下、壁には無数の『帳簿』が乱雑に積み上げられていた。
俺は足を止め、その一部を手に取って捲った。
「……ふん」
そこには、イスヴァール港の独占商会と地元貴族たちの癒着が、ありありと記されていた。
不正な税金の流用、港湾労働者の不当な搾取、そしてエリクソン公爵領からの逃亡犯罪者の匿い……。
すべては、この港町を暗闇から支配するための陰謀だった。
「お嬢様、これは……」
ユーナが息を呑んだ。彼女もまた、帳簿の内容が凄まじいものだと理解したのだ。
「ああ。これは単なるマフィアの縄張り争いなんかじゃない」
俺は帳簿を手元にしまい、瞳に冷たい決意を湛えた。
「このまま放置すれば、イスヴァール港は完全に穢れた港と化すだろう。——だから、ここで根絶やしにする必要がある」
アジトの最深部、『首領の間』とでも名付けようかという立派な扉の前まで辿り着いた。
その前には、巨体の屈強な男たちが二人、仁王立ちで警護していた。
彼らは俺たちの足音を聞き付けて、既に武器を構えて待ち構えていた。
「よくもここまで来られたな、小娘たち」
「大哥や兄弟たちの仇だ。ここで倒して、首級を取ってやる!!」
彼らの全身からは、恐るべき殺気が漲り上がっていた。明らかに実戦経験のある猛者たちだ。
だが、俺にとっては取るに足りない敵だった。
「……うるさいわね」
俺はため息をつくことさえせず、ただ槍の鞘を払うように、軽く手首を返した。
その瞬間、銀白の槍身が閃光を放ち、二人の巨漢の意識を一瞬で断ち切った。
『ゴボン』という重い音が二つ、廊下に響き渡った。
二人は悲鳴すら上げられぬまま、床に伏せていた。
「失礼するわ」
俺は『首領の間』の扉を、優雅な動作で押し開けた。
そこには、部屋の奥でパイプを咥えた肥満した男と、顔を強張らせた数名の幹部たちがいた。
彼らは一斉にこちらを振り返り、驚愕の声を上げた。
「何者だ! どうやって入ってきた!?」
「……お前たち、道端で会った……まさか、生き残ったのか!?」
肥満した男——このアジトの首領に違いない男が、目を見開いて俺たちを指差した。
俺は戦女神状態のまま、堂々と彼らの前まで歩みを進めた。
光翼が柔らかい光を放ち、彼らの恐怖をさらに煽る。
「私はエリクソン公爵の娘、クローディア・フォン・エリクソン。今日、父の命を奉じ、イスヴァール港の悪党どもを一掃するために来た」
俺の声は冷たく、しかしどこか気高かった。
「帳簿はすべて押収した。貴方たちの罪状は明白、言い訳は聞かないわ」
「……な、何をぬかす! この港は俺たちのものだ! お前なんぞに指図される筋合いはねぇ!!」
首領がパイプを床に叩き付け、怒声を張り上げた。
その瞬間、彼の背後で廊下の壁が爆発的に砕け散った。
『ドォォォォン!!』
白い煙と土煙が収まると、そこには漆黒の巨槌を構えたユーナの姿があった。
彼女は壁を突き破って、俺の指示通りに回り込んできたのだ。
「お嬢様、回り込みました。……全員、動くな」
ユーナの瞳には、もう冗談やからかうような色はなかった。
そこにあったのは、無数の悪党を殲滅するための、清らかな決意だけだった。
「……頼りにしてるわよ、ユーナ」
俺は振り返り、首領たちを威嚇するように槍先を向けた。
戦闘は、言わば『一方的な制裁』だった。
首領たちが喚き散らしながら魔法や武器を振るって抵抗を試みたが、戦女神状態の俺と、魔力を注がれた巨槌を振るうユーナの前では、子供の暴れと同じだった。
俺の槍先が翻るごとに、彼らの武器は砕け散り、ユーナの巨槌が床を叩くごとに、彼らの精神は打ち砕かれていった。
「ぐ、ぐそ……公爵の娘だと……? そんな馬鹿な……」
首領が床にへたり込み、震える声で呟いた。
俺は彼の目の前まで歩み寄り、槍先をその喉元に突き付けた。
「馬鹿なのは貴方たちよ。この港と、ここで働く人々の生活を、自分たちの欲望のために蹂躙した罰を払ってもらうわ」
「……!」
「安心しなさい。殺しはしない。後は、父の裁判で合法的に処断されるだけだ」
俺はそう告げ、彼らの意識を優しく、しかし確実に魔術で眠らせた。
戦闘が終わり、地下アジトは静寂に包まれた。
俺はブレンヒルドの槍の魔力を収め、戦女神状態を解除した。
銀白の鱗鎧が淡い光の粒子へと解け、白い光翼もまた静かに背中へと収まっていく。
ユーナがそっと俺の背中に近づき、心配そうな声を掛けてきた。
「お嬢様、お疲れではありませんか?」
「ううん、大丈夫。それより、これからが本番だわ」
俺は自分自身の指先を見つめた。
緑色の定位魔法の糸はとうに消えている。だが、今度は違う魔力の感触が、俺の全身に漲り上がっていた。
それは『正義』を成し遂げた者だけが得られる、清らかな充実感だった。
港町の夜風が、廃れた倉庫の隙間から吹き込んできた。
「……さあ、行こう。イスヴァール港の人々を、恐怖から解き放つ時間だ」
俺はユーナの手を取り、廃倉庫を後にした。
夜の港町には、まだ灯りがいくつか瞬いていた。
俺たちが歩き出すと、その灯りがまるで導きのように、静かに、そして確実に数を増やしていった。




