強すぎる正義感
僕は彼の頭の中にいた。
何時からだろう。気がついた時には、彼の頭の中にいた。その前は、誰か別の人の頭の中にいたような気がする。
彼の名前は井上康信。都内の私学に通う大学四回生だ。都銀への就職が決まっていて、この春から新社会人として羽ばたくことになっていた。
だが、康信の心は晴れなかった。
(このままで良いのか――⁉)と自問自答を繰り返していた。
――正しいことをやりな。
と僕は言ってあげるのだが、僕の言葉は彼には聞こえない。
ただ、日々、鬱々としている康信を見ていると、その内、病気になってしまうのではないかと心配だった。
康信は正義感の強い男だ。
子供の頃から強過ぎる正義感を持て余しているような子で、同じクラスの子供が隣のクラスの生徒に虐められていると、助けに飛んで行くような子供だった。同級生より一回り体が大きく、スポーツ万能、勉強もできる方だった。学年で一目置かれる存在で、仕返しに康信を虐めようとする子供などいなかった。
正義感の強さは子供向けの特撮ヒーロー番組が大好きだったからだろう。それに、小学生になったばかりの頃のある思い出が、康信を正義感の強過ぎる子供にしてしまった。
康信が小学校に上がったばかりの頃、同じクラスに軽度の知的障害を抱える女の子がいた。当時の康信に知的障害など分かるはずもない。大人しい子で、あまり同級生と仲良くせず、ちょっと変わった女の子という印象しか持っていなかった。
康信はその女の子とほとんど話をしたことがなかった。
ある日、国語の授業中に、その女の子が突然、けたたましい笑い声を立てた。先生が冗談を言った訳ではなく、生徒は皆、静かに先生の話を聞いていた。女の子のけたたましい笑い声だけが静かな教室に響き渡った。
何が可笑しくて笑ったのか誰にも分からなかった。
授業が終わってから、女の子の笑い声のことが、クラスの話題になった。女の子は一躍、「変な子」として有名になった。隣の席の女の子から、「あの子、ちょっと変わっているの」と教えられた。康信には何が変わっているのか分からなかった。だが、女の子に得体の知れない怖さのようなものを感じてしまった。
噂は隣のクラスにまで広まった。
家が近所で、朝、登校で一緒になる幼馴染から、「お前のクラスに変な女の子がいるんだって?」と聞かれた。変わった女の子のことは一時期、随分と学校を賑わせたが、女の子にその後、特に変わった振る舞いはなく、その内、噂は薄れていった。
やがて夏休みとなり、康信は女の子のことなど忘れて遊び回った。
夏休みが終わり、二学期が始まって間もない頃、ある日突然、その女の子が学校に出て来なくなった。机の上に花が飾られ、担任の女性教師が教壇上で涙を流しながら、「みんなのお友達に、もう会うことができなくなってしまいました」と伝えた。
女の子が亡くなったというのだ。
地元の新聞に女の子の顔写真の入った記事が出ていた。
新聞記事には、女の子は父親と二人暮らしで、父親が生活に困って焼身自殺を図り、女の子を道連れにしたということが書かれてあった。幼い康信にその記事の内容が正確に理解できた訳ではなかった。だが、康信は、(きっと熱かったんだろうな)と女の子への同情を禁じ得なかった。
そのことがあってから、康信は女の子のことを何度も考えた。
――僕は彼女を虐めたりしなかったはずだ!
そのことは康信の救いだった。だが、反対に女の子に優しくしたり、話しかけてあげたりした記憶もなかった。むしろクラスで噂になってからは、康信も(気味の悪い子)と、意図的に遠ざけていたような気がする。
幼心に康信はそのことを猛烈に後悔した。
(もっと、もっとあの子に優しくして上げていれば――)
例え、康信が女の子に優しくして上げていたとしても、女の子の運命は変わらなかっただろう。それでも康信は後悔した。
康信の強すぎる正義感の裏に、子供の頃のこの後悔があったことは間違いない。




