静かな食卓
静かな食卓だった。
魂の抜け殻になった二人が、ひとつ屋根の下、暮らしている。会話を忘れ、黙々と機械的に食事を口に運ぶだけだ。
ふと思い出して、彬史が言った。「ママ。明日はお客さんと宴会があるので、遅くなるよ」
「止めて!」恵がヒステリックな声を上げた。そして、「私のこと、ママだなんて呼ばないで。私はあなたのお母さんなんかじゃない。私は・・・・私は・・・・葉月のお母さんなんだから・・・・」と言って持っていた箸をテーブルに投げつけた。
カランと箸が床に転がる。
恵が椅子から立ち上がった。「嫌よ。もう限界。もう嫌。あなたと暮らすのも、ここに居るのも、全てが嫌。この家にいると、あの子のことを思い出してしまう。家の中にいると、時に、ふと、あの子の匂いがすることがあるのよ。そして、あの子のことを思い出す。ああ、ここで、あの子が笑っていた。ここで、あの子が泣いていた。あの子がここに座っていた。あの子がここに立っていた。思い出すのは、あの子のことばかり。
あなたは何も感じないの?いつも仕事のことばっかり。あの子が居なくなっても、普段通り。会社に行って、ご飯食べて、寝るだけ。あなたにとって、あの子は何だったの?あの子のこと、思い出したりしないの?あの子の部屋に行って、あの子の匂いに包まれていたい。そんな風に考えることはないの――⁉」
(違う。違う。違う。そんなことはない。俺だって、悲しいんだ。あの子のことを、思い出さない日なんてない)
――そうだ。その気持ちを奥さんにぶつけるんだ!
彬史がよろよろと椅子から立ち上がった。箸を持ったままだった。それを見た恵が怒りを爆発させる。「何で、あなたは何時もそうなのよ~!」
(何のことだ?何を言っている?)
――箸を置けよ。奥さんの話より、食事が大事なのか?違うだろう?
だが、彬史には分からない。
「もう良いわ。あなたと一緒にいることに疲れたの。どうせ、私なんて、一人じゃ生きて行けない。そう思っているんでしょう。結婚してから、ずっと専業主婦だったから、自分と別れたら、一人じゃ何もできないないって、そんなふうに思っているのね!」
(そんなことない。そんなこと、考えたこともない)
――そうだよ。君はそんなこと、考えてなんかいない。
「この家に、あなたといると、あの子のことを思い出してしまうの。私、もう限界なのよ・・・・もう限界なの・・・・」
恵は電池の切れたロボットのように、ペタンと椅子に座り込んだ。そして、顔を覆って泣き出した。彬史は呆然と恵を見下ろしながら、(どうしたんだ?俺と・・・・俺と別れたいということなのか・・・・恵と別れる・・・・そんなこと、考えたこと無かった。あの子を失い、そして、恵まで俺から離れて行こうとしている・・・・)
彬史の悲痛な思いが、頭の中でガンガン響いていた。
――お前の気持ちを奥さんに伝えるんだ‼
僕は叫んだ。どうやったのか、自分でも分からない。でも、感情を爆発させると、僕の言葉が彬史の頭の中で一瞬、木霊した。
彬史には天の声に聞こえただろう。
「お・・・・俺は逃げていたのかもしれない・・・・あの子を・・・・葉月を失って、その悲しみから逃れる為に、仕事に逃げていた。この家にいて、あの子の思い出と毎日、向き合っている・・・・お前のことを、考えてやれなかった。自分のことで精一杯だった。本当にすまない。すまないと思っている。だけど・・・・だけど・・・・」
そこまで話した時、彼の悲しみが堰を切ったように溢れ出して来た。
「どうしようもないんだ・・・・あの子と会いたい。もう一度、あの子の顔が見たい。あの子の声が聴きたい。あの子が愛しくて愛しくて仕方ない・・・・もう、俺だって壊れてしまいそうだ。いや、もう壊れてしまっている。俺はもう昔の俺じゃない。あああああ~!」
彬史の眼から涙が零れ落ちた。一粒、涙が零れ落ちると、堰を切ったように後から後から涙が溢れて来た。恵の前で必死に押し殺していた感情が爆発してしまった。もう歯止めが効かなかった。
「ああああ~お前にだけは、みっともない姿を見せたくなったけど、もう、どうでも良い・・・・ああああ~あの子に会いたいよ~ああ~ああ~」
彬史が悲痛な叫びを上げた。
――それで良いんだ。素直になれ。悲しみを押し殺すな。
彬史は泣いた。天井を向き、声を上げてわんわん泣いた。恥も外聞もない。気がつくと、恵が隣に来て、彬史にしがみついて来た。
彬史は恵を抱き寄せると、二人で泣いた。
――そうだ。二人で悲しみを分かち合うんだ。
泣いて、泣いて、二人は抱き合いながら、涙が枯れるまで泣いた。
やがて、彼らの泣き声が段々、小さくなって行った。僕の意識が薄れて行く。
――何処に行くんだ?
僕は霧が晴れるように、彼の頭の中から消えて行った。




