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憑き人  作者: 西季幽司
第一章「夫婦」
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恵が笑わなくなった

 笑い上戸だった恵が笑わなくなった。

 習慣的に、家事はこなしてくれていたが、常に虚ろな表情を浮かべて、ぼんやりしていることが多くなった。娘のことを思い出しているのだろう。

 ぼんやりした後に、そっと涙を拭っている姿を何度か見かけた。

 彬史はリビングのソファーに座って、ぼんやりとテレビを見ていた。旅番組のようで、料理をほおばる若い女性タレントの姿が映っていた。何か言っているのだが、彬史の頭には響いていなかった。

――虚無。

 と例えれば良いのかもしれない。

(――だが)だとか、(それに・・・・)と言った言葉が断片的に、頭の中で鐘を突くように鳴るだけだった。

――言葉になっていない。

 娘を失った悲しみから立ち直れていない――ということが、痛いほど分かった。

 ふと気がつくと、洗濯物を畳んでいたはずなの恵の姿がなかった。彬史はよろよろと立ち上がった。

(ママはどこに行った・・・・)

 部屋で一人になるのが怖いのだ。彬史は恵の姿を探して歩き始めた。

 娘の部屋の前を通る。部屋の中から、物音がした。

(あの子が帰って来た!)と思ったのも束の間、(そんなはずがない)と直ぐに頭の中で打ち消した。

 恵だ。娘の部屋にいるのだ。娘のものを洗って、洗濯物を持ってきたのかもしれない。やがて、部屋の中から「うっ・・・・うっ・・・・」と嗚咽が漏れ聞こえてきた。

 泣いているのだ。

――おい。彬史。奥さん、泣いているぞ。一人にするなよ。

 僕は彼に伝えようとした。だが、僕の声は届かない。

(泣いているのか)彬史には分かっていたはずだ。だが、何もしなかった。

――おいおい!悲しいのはお前だけじゃないぞ。奥さんを放っておくな。何故、この悲しみを分け合って、二人で乗り切ろうとしないのだ!

 僕は彼に語りかけ続けた。

 だが、彼には聞こえない。部屋の前で、暫く立ち尽くしていたが、やがて、のろのろとソファーに戻って行った。

(ああ、明日の午後から経営会議があったなあ・・・・)と彬史は仕事のことを考えていた。

――辛いのは分かるよ。だけど、奥さんのことを、もっと気にかけてあげなよ。

 と思うのだが、僕には彼に言葉を伝える術がない。



 何時も通り、仕事に来た。

 家にいると、否が応でも娘の死と直面させられる。彬史は現実を見ることが辛かった。

(ああ、あの子がまだ小さい頃、夕暮れ時だったな。ここにこうして立って窓から外を見ていた。突然、『お父さん。怖い。お化けが飛んでる』と言い出した。何かと思って、外を見ると蝙蝠が群れを成して空を飛んでいた。蝙蝠を見たのが初めてだったので、あの子はお化けだと思ったんだ。ふふ・・・・ああ~あの子はもういない)

 家にいると、そんなことばかり考えている。娘の思い出に浸りきってしまう。そして、最後には(思う出すのはもう止めだ。これ以上、考えると泣いてしまう。ああ、もう止めだ、止めだ)と思考を止めてしまう。

(恵に俺の悲しむ姿を見せてはいけない)と彼は考えていた。

 僕にはその考え方が理解できなかったが、彼にとっては大事なことであるようだ。

 彼なりの優しさなのだろう。

――一人で悲しみを抱え込むなよ。

 そう思うのだが、僕の言葉は届かない。

 彼は仕事に逃げていた。会社にいれば、忙しさに紛れて、娘の死を忘れることができる瞬間があるからだ。だが、その時間は一瞬で過ぎ去ってしまう。直ぐに悲しみが、津波のように押し寄せて来る。

(あの子はもういない。あの子はもういない)

 彼の頭の中で、同じ台詞が繰り返される。

 会議に出ていた。管理部門が今年のキイに挙げているプロジェクトの進捗状況の説明会だった。彬史はプロジェクトの責任者として、定期的に部下から説明を受けていた。オーバヘッド・プロヘクターで壁一面に投影されている資料を見ながら、担当者の説明を聞いていた。

「このプロジェクトが完成すれば、仕事の負荷を減らすことができ、職場の仕事環境が一気に改善します」という言葉で説明が終わり、従業員たちが楽しそうに仕事をしている写真が大写しになった。

 その中にいた若い女性の顔が少しだけ葉月に似ていた。

(ああ~これは・・・・)と思った瞬間、津波のように悲しみが押し寄せて来た。

 次の担当者の説明が始まるが、「ちょっと失礼。少し、休憩しようか」と彬史はトイレに立つ振りをした。

 会議は小休止となった。

(もうダメだ)と彼はトイレに駆け込んだ。

 悲しみに圧し潰されそうになると、トイレに逃げ込む。個室で声を押し殺して泣くのだ。泣いて、悲しみを紛らわすしかない。

 素直に悲しみを表すことができるのは、会社のトイレだけだった。

――いいんだ。悲しかったら、泣けば良い。

 そう言って、慰めてあげる。だが、僕の声は届かない。彼の頭の中で、声を響かせることさえできれば、僕の考えを伝えることができるはずだ。だが、その方法が分からない。

 僕はただ、彼の悲しみを毎日のように聞かされ続けるだけだった。

 ひとしきり泣くと、気持ちが収まって来た。彬史は「ふう~」と深く深呼吸をする。後は、泣いていたことがバレないように、顔を洗って出て行けば良い。だが、赤く充血した眼は、暫く時間がかかりそうだった。

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