第四十二話
眷属化を終えてから、数週間が経った。
最初の数日はベッドから起き上がることさえ医師に止められていたけれど、少しずつ身体を動かせるようになり、今では短い時間なら自分の足で歩けるようになった。
魔力の流出は、完全には止まっていない。
それでも以前のように急激に魔力が減り、命の危険にさらされる状態からは脱していた。
バクゥ様は定期的に私の魔力を確認してくださり、医師たちも毎日のように検査を続けている。
まだ安心しきれるわけではない。
けれど、朝目を覚ましたときに、今日も生きていられたのだと感じられるだけで、私は幸せだった。
「エリス、今日はずいぶん顔色がいいね」
ベッドのそばで本を読んでいたレオンが、嬉しそうに微笑んだ。
「そうかしら?」
「うん。昨日よりずっといい」
「昨日も同じことを言っていたわ」
「昨日より今日の方がいいんだから、仕方ないだろう?」
あまりにも真剣に言うので、私は思わず笑ってしまった。
レオンは私が目を覚ましてから毎日、顔を見に来てくれている。
忙しいはずなのに、少しでも時間ができれば病室を訪れ、私の様子を確かめてくれた。
そして、必ず本を持ってきてくれる。
私が文字を読むのに疲れているときは、自分で読み聞かせてくれることもあった。
その声を聞きながら目を閉じていると、いつの間にか眠ってしまうこともある。
以前の私なら、誰かに本を読んでもらうなんて落ち着かないと思ったかもしれない。
けれどレオンの声を聞いていると、不思議と安心できた。
「それで、今日は何の本を持ってきてくれたの?」
「これだよ」
彼が取り出したのは、旅行記だった。
表紙には、青い海と白い街並みが描かれている。
「旅行記?」
「ああ。王都から少し離れた港町の話なんだ。海沿いに古い図書館があるらしい」
「海沿いの図書館……?」
思わず身を乗り出した。
けれど、すぐに身体のことを思い出して、そっと姿勢を戻す。
レオンはそんな私を見て、楽しそうに笑った。
「興味がある?」
「ええ。とても」
「じゃあ、いつか行こう」
「……いいの?」
その言葉を、私は小さく繰り返した。
以前の私なら、きっと素直に喜べなかった。
いつまで生きられるかわからないのに、そんな約束をしてもいいのだろうか。
期待して、叶わなかったらどうしよう。
そんなことばかり考えていたと思う。
けれど今は、違った。
「行きたい……行きたいわ!」
私は、レオンの目を見つめた。
「その図書館にも行きたいし、ほかの街にも行ってみたい。知らない本をたくさん読みたいわ」
「うん」
「それから……」
そこまで口にして、私は少しだけためらった。
レオンが首を傾げる。
「それから?」
「……あなたと、もっと一緒にいたい」
口にした途端、顔が熱くなった。
こんなことを言うつもりではなかったのに。
私は慌てて視線を落とした。
けれど、レオンは笑わなかった。
代わりに、私の手をそっと握ってくれた。
「俺もだよ、エリス」
その声は、いつもと同じように明るくて、優しかった。
「だから、これからの予定をたくさん考えよう。君が行きたい場所も、読みたい本も、俺が見つけた面白そうな場所も」
「……ええ」
私は、彼の手を握り返した。
その温もりが、今の私には何よりも確かなものに思えた。
退院の許可が出たのは、それからさらに数日後のことだった。
「身体の状態は安定しています。ただし、魔力の消耗には十分注意してください」
診察を終えた医師は、念を押すように告げた。
「以前と同じように魔法を使うことは、まだ避けるべきです。無理をすれば、再び容体が悪化する可能性があります」
「はい。わかりました」
私は頷いた。
魔力の流出がなくなったわけではない。
眷属化によって器は広がったけれど、その器を傷つけた原因は残っている。
これからも定期的に検査を受け、身体の変化を見守っていかなければならない。
それでも、退院できる。
もう病室の天井を眺めながら、いつまでここにいるのだろうと考えなくていいのだ。
「エリス!」
診察室を出ると、廊下で待っていたレオンが駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「退院していいそうよ」
「本当か!?」
彼の顔が、ぱっと明るくなった。
「よかった……!本当によかった!」
私よりも嬉しそうな顔をするものだから、こちらまで笑顔になってしまう。
「ただし、無理は禁物だそうよ」
「もちろん。俺も気をつける」
「レオンが気をつけるの?」
「エリスが無理をしないように、俺が見張るんだ」
少し得意げに胸を張る。
「……それでは、私は何もできなくなってしまうわ」
「いやいや、そんなことはないさ。できることは自分でやって、無理そうなことは俺に頼ってくれればいい」
「ふふっ。そうね」
私たちは、並んで歩き始めた。
病院の出口へ向かう途中、窓から差し込む陽の光が目に入った。
何週間も、私はこの光を病室の窓越しに眺めていた。
同じ太陽なのに、今は以前よりもずっと眩しく感じられる。
外に出れば、風の匂いも、街の音も、何もかもが違って感じられるのかもしれない。
そう考えただけで、胸が弾んだ。
「レオン」
「ん?」
「私、退院したら……まず図書館に行きたいわ」
「おっ、いいね!」
「でも、まだ長時間歩くのは難しいと思うの」
「それなら馬車で行こう。図書館の近くまで乗りつければいい」
「……そんなことをしてもいいのかしら」
「何の問題もないだろう?君は病み上がりなんだから」
あまりにも自然に言われて、私は小さく笑った。
彼は、私がしたいことを否定しない。
できない理由を並べるのではなく、どうすればできるのかを一緒に考えてくれる。
その優しさに、何度救われたことだろう。
私は、もう一度彼の手を握った。
今度は、私から。
退院した翌日。
私は、久しぶりに自室で目を覚ました。
窓から差し込む朝の光。
見慣れた天井。
ベッドのそばに置かれた、読みかけの本。
何もかもが懐かしかった。
「……帰ってきたのね」
小さく呟く。
病院で過ごした日々が、遠い出来事のように思えた。
もちろん、身体はまだ本調子ではない。
少し歩けば疲れるし、長時間起きていると魔力が身体の奥から抜けていくような感覚に襲われることもある。
医師からは、当面は安静を心がけるように言われていた。
それでも、自分の部屋で朝を迎えられることがこんなにも嬉しいなんて。
私は枕元の本に手を伸ばした。
表紙を撫でてから、そっと開く。
文字を追っているだけで、心が落ち着いていく。
私は、やっぱり本が好きだ。
そして、これからも本を読み続けたい。
そんな当たり前の願いを、私はもう遠慮しないことにした。
コンコン、と扉を叩く音がした。
「エリス、起きているかい?」
父の声だった。
「はい。どうぞ」
扉が開き、父と母が入ってくる。
二人とも、私の顔を見るなり安堵したように微笑んだ。
「おはよう、エリス。よく眠れたかい?」
「ええ。久しぶりに、自分の部屋で眠れましたから」
「そうか……」
父は嬉しそうに頷いた。
母は私のそばに座り、そっと髪を撫でてくれる。
「無理をしてはいけませんよ。何かあれば、すぐに私たちに言うのですからね」
「はい、お母様」
少し前まで、両親は私の命が失われるかもしれないという恐怖に苦しんでいた。
私が目を覚ましたあとも、二人はどこか不安そうだった。
今だって、その心配がなくなったわけではないのだろう。
それでも、こうして私のそばにいてくれる。
私は、二人の手に自分の手を重ねた。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「謝る必要などない」
父が、すぐに答えた。
「お前が生きていてくれる。それだけでいいのだ」
母も、何度も頷いた。
「そうですよ。これからは、少しずつ元気になっていきましょうね」
私は、目頭が熱くなるのを感じた。
生きている。
今、私は家族と話をしている。
そんな幸せを、私は二度と当たり前だと思わないだろう。
数日後。
私は、両親に勧められて応接室へ向かった。
そこには、思いがけない二人が待っていた。
「エリスさん!」
私を見るなり、女性が立ち上がる。
「ミレイアさん……!」
学園時代の友人、ミレイアだった。
その隣には、王立アルヴァリア魔法学園の学園長も座っている。
「お久しぶりです、エリスさん。退院されたと聞き、どうしても一度お話ししておきたいことがありましてね」
学園長は穏やかに微笑んだ。
「お身体は大丈夫ですか?」
「はい。まだ安静にする必要はありますが、以前よりずっと落ち着いています」
「それは何よりです」
ミレイアは私の手を取ると、ほっと息を吐いた。
「本当に心配しました。目を覚ましたと聞いたときも、まだ安心できなくて……。でも、こうしてご自分で歩いている姿を見られてよかったです」
「ありがとうございます、ミレイアさん」
彼女の言葉が、胸に染みた。
私は椅子に座り、両親も交えて話を始めた。
最初は、学園の近況や共通の知人の話だった。
懐かしい話に笑っているうちに、私は少しずつ、学園にいた頃の自分を思い出していた。
あの頃は、こんな未来が待っているなんて想像もしていなかった。
本を読んでいる時間が好きで、人目を避けて静かに過ごしていた私。
レオンと出会い、少しずつ変わっていった私。
そして、誘拐事件。
思い出した途端、胸の奥がわずかに冷えた。
あの出来事は、私の中で今も完全に過去になったわけではない。
けれど、ミレイアさんと学園長がわざわざ訪ねてきたのは、ほかにも理由があるようだった。
「実は、エリスさん」
学園長が、少し表情を引き締めた。
「以前の誘拐事件について、あなたにお伝えしておくべきことがあります」
私は、思わず背筋を伸ばした。
「……何かわかったのですか?」
学園長は一度、ミレイアさんに視線を向けた。
彼女も静かに頷く。
「事件の背後には、神殿の一部が関わっていた可能性があったのです」
「神殿が……?」
思わず声が漏れた。
神殿。
人々の信仰を集め、聖なる力を管理する組織。
私自身、あの事件のあとで何度かその名前を耳にしていた。
けれど、誘拐事件と直接結びつくとは思ってもいなかった。
「もちろん、神殿全体が関与していたと断定されたわけではありません」
学園長は慎重に言葉を選んだ。
「一部の者が、あなたの持つ特異な力に関心を抱いていた。その可能性を示す情報が見つかったのです。ですが、具体的に何を企てていたのか、どこまで関与していたのかについては、今も明らかになっていない部分があります」
「私の……力に?」
「ええ。あなたが大規模な治癒魔法を使ったことは、すでに多くの人々が知っています。あの力が知られる以前から、何らかの兆候を掴んでいた者がいた可能性も否定できません」
私は、膝の上で手を握りしめた。
誘拐されたとき、私は何も知らなかった。
自分の力が何なのかも、よくわかっていなかった。
ただ、怖かった。
知らない人たちに連れ去られ、どうなるのかもわからないまま、助けを待つしかなかった。
あの恐怖が、少しだけ蘇る。
「……それで、今も危険があるのでしょうか?」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
ミレイアが、私の手をそっと握った。
「その点は、もう心配いりません」
「ですが……」
「レオン様のお父様である、ヴァレンシュタイン公爵様がすべて対応してくださったの」
ミレイアは、はっきりと言った。
「事件のあと、あなたの身辺や関係者について徹底的に調べ、神殿側から接触があった場合にもあなたの安全を最優先にするよう手を打ってくださったようです」
私は、息を呑んだ。
レオンのお父様が……。
「公爵家の当主は、王家とも連携してあなたに関する情報が不用意に外へ漏れないよう管理していました。神殿の一部が動こうとしていたとしても、あなたに近づけないよう、必要な手続きをすべて整えてくださったのです」
学園長が続けた。
「私たちも、学園に関係する情報の管理を徹底しました。あなたが再び危険にさらされることのないように。今回、この話をすることにしたのも、現在の状況を確認したうえで、もう隠し続ける必要はないと判断したからです」
「……そうだったのですね」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
知らないところで、そんなことが行われていたなんて。
レオンのお父様は、私を守るためにそこまでしてくださっていたのだ。
「それでは……今は、問題ないのですね?」
「ええ。少なくとも、私たちが把握している範囲では、あなたに対して何かを仕掛けられるような状況にはありません」
学園長は、穏やかに頷いた。
「もちろん、何があっても絶対に安全だと断言することはできません。しかし、公爵家が必要な備えを整えています。あなたが一人で警戒し続ける必要はありませんよ」
その言葉を聞いたとき、私は肩の力を抜くことができた。
私はずっと、あの事件のことを心のどこかで恐れていたのだと思う。
もう一度、同じことが起こるのではないか。
自分の知らないところで、何かが動いているのではないか。
そんな不安が、完全に消えていたわけではなかった。
けれど、私が知らないところで、私を守ろうとしてくれた人たちがいた。
その事実が、何よりも心強かった。
「……ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
「私の知らないところで、そんなにたくさんの方が動いてくださっていたなんて……」
「あなたが謝ったり、恐縮したりする必要はありませんよ」
学園長は微笑んだ。
「あなたは、これからの人生を大切にしてください。それが、あなたを守ろうとした人々にとっても、何よりの報いになるでしょう」
これからの人生。
その言葉が、胸の中に静かに広がった。
私は、もう一度生きる機会を得た。
ならば、その時間を恐怖だけに費やしたくはない。
好きな本を読みたい。
行きたい場所へ行きたい。
大切な人たちと、笑って過ごしたい。
そして……。
私は、ふとレオンの顔を思い浮かべた。
彼と、これから先も一緒にいたい。
その願いが、以前よりもずっと強くなっていることに気づいた。
「ところで、エリスさん」
ミレイアが、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「レオン様とは、どうなってますの?」
「……え?」
突然の質問に、私は瞬きをした。
「どう、とは……?」
「もう。そんなの、決まっているでしょう?」
ミレイアは、私の顔を覗き込んだ。
「これからのことです」
「これから……」
「あなたが病気になってから、レオン様がどれだけ必死だったか、少しは聞いているでしょう?」
私は、言葉に詰まった。
もちろん、知っている。
レオンは、私が眠り続けていた間も、目を覚ましてからも、ずっとそばにいてくれた。
私を救うために危険な遠征へ向かい、バクゥ様を連れて帰ってきてくれた。
そして眷属化が行われたときも、ずっと私の手を握ってくれていた。
彼がどれほど私を大切に思ってくれているのか。
それを、私は十分すぎるほど知っていた。
「……はい」
頬が熱くなる。
「レオンは、とてもよくしてくれています」
「それだけ?」
「えっ?」
「エリスさん。あなたは、これからもレオン様と一緒にいたいのでしょう?」
私は、すぐには答えられなかった。
もちろん、一緒にいたい。
けれど、それを口にするのはまだ少し恥ずかしかった。
ミレイアさんは、そんな私の様子を見て、小さくため息をついた。
「ええ……私も、レオンと一緒にいたいです」
今度は、きちんと言葉にできた。
「これからも、ずっと」
ミレイアは、満足そうに頷いた。
「なら、あとは二人で話し合うだけね」
「……そうですね」
私は微笑んだ。
けれど、その胸の奥には、小さな不安が残っていた。
私は、いつまで生きられるのかわからない。
バクゥ様は、眷属化によって数年は生きられる可能性があるとおっしゃった。
けれど、それ以上のことはわからない。
そんな私が、レオンの人生を縛ってしまってもいいのだろうか。
彼は、優しい人だ。
私が望めば、きっとそばにいてくれる。
けれどその優しさに甘えて、彼の未来を狭めてしまうことが怖かった。
私は、自分の指先を見つめた。
そのとき、ミレイアさんが静かに口を開いた。
「エリスさん。あなたが何を心配しているのか、なんとなくわかります」
「……ミレイアさん」
「でもね。あなたがレオン様のためを思って、自分の気持ちを隠したとしても、彼が喜ぶとは限らないでしょう?」
私は、顔を上げた。
「それにレオン様だって、自分の人生をどう生きるか、きちんと考えられる人ですよね?あなたが一人で答えを出して、彼の気持ちまで決めてしまう必要はないと思います」
その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。
そうだ。
私は、彼の気持ちを勝手に決めつけてはいけない。
レオンがどうしたいのか。
私とどう生きたいのか。
それは、私が一人で悩んで決めることではないのだ。
「……ありがとうございます、ミレイアさん」
「どういたしまして。レオン様にはちゃんと自分の気持ちを伝えた方が良いと思います」
「はい」
私は、今度こそ迷わず頷いた。
その日の夕方。
レオンが、私の家を訪ねてきた。
「エリス、具合はどう?」
「大丈夫よ。今日はミレイアさんと学園長がお見舞いに来てくださったの」
「そうだったのか。何かあった?」
「ええ。少し、以前の事件について話を聞いたの」
私は神殿の一部が関わっていた可能性と、公爵様が私を守るために動いてくださっていたことを伝えた。
レオンは、真剣な表情で話を聞いていた。
「父上が……そうか」
「あなたのお父様には、本当に感謝しているわ。私の知らないところで、ずっと守ってくださっていたのね」
「父上は、君を危険な目に遭わせたくなかったんだと思う。俺も、同じ気持ちだよ」
レオンは、少しだけ表情を和らげた。
「でもこれからは何かあったら、俺にも相談してほしい。君が一人で不安を抱え込む必要はないから」
「……ええ。そうするわ」
私は頷いた。
そして、彼が持ってきてくれた本をテーブルに置くと、思い切って口を開いた。
「レオン。少し、話したいことがあるの」
「うん。何でも聞くよ」
いつもと変わらない、まっすぐな瞳。
私は一度、深呼吸した。
「私……これからも、あなたと一緒にいたいの」
レオンが、目を見開いた。
「エリス……」
「本当は、ずっとそう思っていたわ。でも、私の病気は治ったわけではないし、これから先どうなるのかもわからないでしょう?」
言葉にすると、胸が少し苦しくなった。
「だから、あなたの未来を縛ってしまうのではないかと怖かったの」
レオンは、何も言わずに私の話を聞いてくれた。
「でも、ミレイアさんに言われてハッとしたの。あなたの気持ちまで、私が勝手に決めてはいけないって」
私は、彼の目を見つめた。
「だから、聞かせてほしいの。レオンは……私と、これからも一緒にいたいと思ってくれる?」
しばらく、沈黙が流れた。
私の心臓が、早鐘のように鳴っている。
やがて、レオンは私の手を取った。
「もちろんだ」
その返事は、あまりにも早かった。
「俺は、君と一緒にいたい。これから先も、ずっと」
「……本当に?」
「ああ。君が病気だからとか、守ってあげたいからとか、そういう理由だけじゃない」
レオンは、私の手を両手で包み込んだ。
「俺は、エリスが好きなんだ。君と本の話をするのが好きだし、君が楽しそうに笑う顔を見るのが好きだ。何も話さずに一緒にいる時間だって、心地いい」
私は、目を伏せた。
涙がこぼれそうだった。
「君と一緒に、これからの人生を過ごしたい。行きたい場所へ行って、面白い本を見つけて、時には失敗して、一緒に笑って……そんな毎日を、君と送りたいんだ」
彼の声が、優しく響いた。
「だから、俺の気持ちを心配して、遠慮しないでほしい」
「……レオン」
「それに、エリスが俺の未来を縛るなんてことはないよ。俺は、自分で君と一緒にいたいと決めているんだから」
私は、もう我慢できなかった。
頬を伝った涙を、レオンがそっと拭ってくれる。
「……あなたが好き」
ようやく、言葉にできた。
「あなたと一緒にいたい。これからも、ずっと……」
レオンは、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。ありがとう、エリス」
そして、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「……それで、なんだけど」
「何かしら?」
「俺、君と結婚したいと思っているんだ」
「……え?」
あまりにも突然の言葉に、私は固まってしまった。
レオンは、慌てたように付け加える。
「いや、もちろん、君の身体のこともあるし、急いで決める必要はないと思っている。でも、俺の気持ちは、ちゃんと伝えておきたくて」
結婚。
その言葉が、頭の中を何度も巡った。
レオンと、夫婦になる。
同じ家で暮らして、朝を迎えて、食事をして、本を読んで。
今まで想像することすらためらっていた未来が、突然、目の前に現れたようだった。
「……私で、いいの?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
レオンは、少し困ったように笑った。
「エリスじゃなきゃ、嫌だよ」
胸が、いっぱいになった。
私は、彼の手を強く握り返した。
「……私も、あなたと結婚したい」
今度は、迷わなかった。
「レオンと一緒に暮らしたい。これからも、あなたの隣で本を読んでいたいわ」
レオンの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当?」
「ええ」
「……よかった!」
彼は、心の底から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私も笑った。
私たちは、まだ何も解決していない。
私の病気が完全に治る方法は見つかっていないし、これから先の時間も保証されていない。
それでも、私たちは一緒に生きていくと決めた。
先のことがわからないからこそ、今、自分の気持ちを伝えたかった。
明日が来ることを願うだけではなく、その明日を誰と過ごしたいのか、ちゃんと選びたかったのだ。
翌日。
レオンは、早速ご両親に結婚の意思を伝えたらしい。
そしてその日の午後には、私の両親のもとへ公爵様ご夫妻が訪ねていらした。
あまりにも話が早くて、私は驚くばかりだった。
「エリスさん」
公爵夫人は、私の手を優しく握ってくださった。
「息子が、あなたと結婚したいと申しております。あなた自身もそれを望んでくださると聞きました」
「は、はい……!」
私は、緊張しながら頷いた。
「でしたら、私たちに異存はありません」
公爵様も、穏やかに微笑んだ。
「レオンは、あなたを救うために必死だった。あの子がどれほどあなたを大切に思っているか、私たちはよく知っている」
その言葉に、胸が熱くなった。
「あなたが抱えている事情も、もちろん理解している。だからといって、息子との結婚を遠慮する必要はない」
「……ありがとうございます」
「ただし、無理はしないこと。結婚の準備も、あなたの身体を第一に考えて進めよう」
公爵様の言葉に、私の父も深く頷いた。
「私たちも同じ考えです。エリスが望むのであれば、喜んで二人を祝福します」
母は、目元を押さえながら微笑んでいた。
「エリスが幸せになれるのなら、それが一番です」
私は、言葉が出なかった。
結婚。
つい昨日まで、私には遠い未来の話だと思っていた。
それなのに、両親も公爵様ご夫妻もこんなにも温かく受け入れてくださっている。
もちろん、これから決めなければならないことはたくさんある。
式の日取りも、住む場所も、私の身体に負担をかけないための準備も。
けれど、誰も私たちの結婚を反対してはいなかった。
むしろ皆が二人の未来を考え、協力しようとしてくださっている。
「……私、幸せです」
気づけば、そう呟いていた。
公爵夫人が、そっと私の肩を抱いてくださった。
「これから、もっと幸せになりましょうね」
私は、何度も頷いた。
数日後。
レオンの妹、リリアが私の家を訪ねてきた。
「エリスさん!」
部屋に入るなり、彼女は私のそばへ駆け寄ってきた。
「お身体はもう大丈夫なんですか?」
「ええ。まだ無理はできないけれど、ずいぶん落ち着いたわ」
「よかった……!」
リリアは、心から安堵したように胸を撫で下ろした。
「兄様ったら、エリスさんの容体が少し変わるたびに、家の中を歩き回って落ち着かなくなるんですもの。父様にも、何度も同じことを聞いていました」
「レオンが……?」
「はい。『本当に大丈夫なのか』『今すぐできることはないのか』って。母様が、少しは座っていなさいって注意しても、すぐに立ち上がってしまうんです」
私は、思わず笑ってしまった。
目に浮かぶようだった。
レオンは、心配になるとじっとしていられない人だ。
「でも……」
リリアは、少しだけ真剣な顔になった。
「兄様があんなに必死になるところ、私、初めて見ました」
「……そうなの?」
「はい。兄様は昔から明るくて、何でも自分でどうにかしてしまう人でした。でも、エリスさんのことになると、全然違うんです」
彼女は、私の手を取った。
「兄様、エリスさんが目を覚ましたって聞いたとき、泣いていたんですよ」
「えっ……?」
思わず目を見開いた。
「本当です。私、あんな兄様を見たのは初めてでした。ずっと我慢していたんだと思います。エリスさんが眠っている間も、兄様は何度も病院へ通っていましたから」
私は、胸がいっぱいになった。
レオンは、私の前ではいつも笑っていた。
不安なときも心配なときも、私を安心させようとしてくれていたのだろう。
その裏で、どれほど苦しんでいたのか私は、知らなかった。
「……そうだったのね」
「だから私、とても嬉しいんです」
リリアは、にっこりと笑った。
「兄様がエリスさんと結婚するって聞いて、本当に嬉しかったんです。兄様には、ずっと幸せでいてほしいと思っていましたから」
「リリア……」
「もちろん、エリスさんにも幸せになってほしいです。兄様と一緒に、たくさん笑ってほしいんです」
私は、彼女の手を握り返した。
「ありがとう。私も、レオンと一緒に幸せになりたいわ」
「はい!」
リリアは嬉しそうに頷いた。
それから、少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべる。
「それで、エリスさん」
「なあに?」
「結婚したら、兄様のことをよろしくお願いしますね」
「……え?」
「兄様、明るくて頼りになるように見えるけれど、意外と抜けているところもあるんです。夢中になると周りが見えなくなりますし、本の話を始めたら、いつまでも止まりません」
「ふふっ……。そうなのね」
「はい。それに、兄様は自分のことを後回しにしがちですから、疲れているときはちゃんと休ませてあげてください」
私は、真剣に頷いた。
「わかったわ。私も、気をつけるわね」
「お願いします」
リリアは満足そうに笑った。
けれど、今度は少しだけ声を落とした。
「……でも、エリスさん」
「ええ?」
「兄様のことばかり気にして、ご自分のことを後回しにしないでくださいね」
私は、はっとした。
「エリスさんは、兄様に守られてばかりじゃなくていいんです。兄様だって、エリスさんに頼りたいことがあると思いますから」
その言葉に、私は静かに頷いた。
そうだ。
私は、レオンに守られるだけの存在でいたいわけではない。
彼が私のためにしてくれたことを、同じように返せるとは限らない。
それでも、彼が疲れたときには話を聞きたい。
落ち込んだときには、そばにいたい。
何もできない日があったとしても、同じ部屋で本を読んで、彼が安心できる時間を作りたい。
「……ありがとう、リリア」
私は、心からそう伝えた。
「私、レオンと一緒に支え合って生きていきたいわ」
「はい。それなら、きっと大丈夫です!」
リリアは、晴れやかな笑顔を見せてくれた。
その日の帰り際、リリアは一冊の本を私に渡してくれた。
「これ、兄様が子供の頃に好きだった本なんです」
受け取って表紙を見ると、冒険者が古い遺跡を巡る物語だった。
「レオンが、子供の頃に?」
「はい。何度も読んで、ぼろぼろになるまで大切にしていたんですよ」
私は、本をそっと開いた。
ページの端には、幼い子供がつけたらしい小さな印がいくつも残っていた。
「兄様、今でも本が好きですけれど昔から変わらないんです。面白いものを見つけると、誰かに教えたくて仕方がないんですよ」
リリアは、懐かしそうに笑った。
「だからエリスさんと出会ってからは、きっと楽しかったんだと思います。同じように本を楽しめる人ができて」
私は、表紙を撫でた。
レオンが子供の頃に読んでいた本。
彼がどんなことを考え、どんな物語に胸を躍らせていたのか。
それを知ることができると思うと、嬉しかった。
「大切な本を、私に貸してくれてありがとう」
「いえ。兄様も、エリスさんに読んでもらえたら喜ぶと思います」
リリアは扉の前で振り返り、明るく笑った。
「結婚式、楽しみにしていますね!」
「……ええ!」
その言葉に、私は少し照れながらも頷いた。
扉が閉まったあと、私はもう一度本を開いた。
この本を読んだら、レオンに感想を伝えよう。
きっと彼は嬉しそうに笑って、どの場面が好きだったのか、どんなところが面白かったのか、たくさん話してくれるはずだ。
そして、いつか。
私たちの家の本棚にも、この本を並べたい。
彼が子供の頃に大切にしていた本も、私がこれまで読んできた本も。
二人で少しずつ増やしていけたら、どんなに素敵だろう。
私は、窓の外を眺めた。
空は、夕焼けに染まり始めていた。
つい最近まで、私は明日を迎えられるかどうかさえわからなかった。
それが今は、明日のことを考えている。
来週のことを考えている。
そして、その先にある結婚生活を想像している。
病気が治ったわけではない。
これから先、どんな困難が待っているのかもわからない。
けれど私はもう、一人で未来を恐れる必要はないのだ。
レオンがいる。
両親がいる。
公爵家の皆様がいて、ミレイアやリリアもいてくれる。
私を守ろうとしてくれる人たちが、こんなにもたくさんいる。
その事実を、私は大切にしたいと思った。
そしていつかレオンと一緒に、海沿いの図書館へ行こう。
知らない街を歩いて、知らない本を手に取って、夕暮れまで語り合おう。
そんな未来を何度でも想像しよう。
私は本を胸に抱きしめた。
「……レオン」
名前を呼ぶだけで、自然と笑みがこぼれる。
彼と結婚する。
彼と同じ家で暮らす。
これから先の人生を、彼と一緒に歩いていく。
その未来が、少しずつ現実になろうとしていた。
私は窓から差し込む夕陽を眺めながら、そっと目を閉じた。
明日も、きっといい日になる。
そう思えることが、今の私には何よりも幸せだった。
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