第四十話
翌朝、俺がエリスの病室を訪れると、すでにバクゥ様と医師たちが集まっていた。
部屋の隅には見慣れない器具がいくつも並べられ、机の上には分厚い書物と何枚もの記録用紙が広げられている。
医師の一人が、エリスの手首に細い銀色の輪を取りつけていた。
「おはよう、レオン」
ベッドの上から、エリスが微笑んだ。
「おはよう。……今日はずいぶんと賑やかだな」
「ええ。朝から身体の状態を調べてもらっているの」
そう言って、エリスは自分の手首に視線を落とした。
「この輪で、魔力の流れを測定しているそうよ。身体の中に残っている魔力が、どれくらいの速さで失われているのかを調べるんですって」
「なるほど……」
俺は彼女のそばまで歩み寄った。
昨日、バクゥ様から眷属化の話を聞いた。
人間の身体に竜の性質を宿し、魔力を蓄える器を広げる。
それによって、エリスが生きられる時間を延ばせる可能性がある。
ただし、それは病気を治す方法ではない。
魔力が漏れ続けるという問題は、そのまま残る。
それでも、今の彼女に残された時間を考えればわずかな可能性にも縋りたかった。
「それで、バクゥ様。何かわかりましたか?」
俺が尋ねると、窓際で腕を組んでいたバクゥ様が振り返った。
「うむ。ひとまず、この娘の身体の状態については把握できた」
その声に、室内の空気が引き締まった。
「魔力の漏出は、昨日考えていたよりも厄介だ。単純に器が傷ついているだけではない。魔力を生み出す流れそのものが乱れ、蓄えた魔力を維持する働きも弱まっておる」
「それは……悪くなっているということですか?」
思わず尋ねる。
「少なくとも、良くはなっておらぬ」
バクゥ様は率直に答えた。
エリスの母親が、そっと娘の肩に手を置いた。
「そんな……」
「だが、眷属化の可能性が失われたわけではない。むしろ、器を広げる必要性ははっきりしたと言える」
バクゥ様は机の上に置かれた記録用紙を指で示した。
「今のエリスは、器に残された魔力があまりにも少ない。身体を維持するために必要な魔力すら、十分に保てなくなりつつある。器を広げ、より多くの魔力を蓄えられるようになれば、漏れ続ける魔力を差し引いても今より長く身体を維持できる可能性がある」
「では、眷属化さえ成功すれば……」
エリスの父親が、期待を込めた声で言った。
「成功すれば、今より長く生きられる可能性はある。だが何度も言うように、それがどれほどの時間になるかはわからぬ」
バクゥ様はエリスの父親の期待を否定することなく、しかし安易な希望も与えなかった。
「それに、眷属化はただ魔力を流し込めば済むものではない」
「具体的には、どのような手順になるのでしょうか?」
今度は俺が尋ねた。
バクゥ様は少し考えるように顎を撫でたあと、説明を始めた。
「まず、ワシの魔力を少量ずつエリスの身体に流す。そこで拒絶反応が起きないかを確かめながら、身体が竜の魔力を受け入れられるように調整するのだ」
「拒絶反応……」
「人間と竜では、魔力の性質が違う。人間の身体に竜の魔力を無理に流し込めば、器が耐えきれずに壊れることもある。今のエリスにそんなことが起きれば、命に関わる」
俺は息を呑んだ。
助けるために行うはずのことが、逆にエリスの命を危険にさらすかもしれない。
それは、決して軽く考えていい話ではなかった。
「だからこそ、事前に身体の状態を調べておく必要があった。医師たちには、人間の身体に起きる変化を見極めてもらう。ワシは竜の魔力を調整し、少しずつ馴染ませる方法を探る」
「どれくらいの時間が必要でしょうか?」
エリスが尋ねた。
「本来ならば、もっと時間をかけたいところだ。だが……」
バクゥ様は、彼女の顔をじっと見つめた。
「今のお前に、悠長に構えていられる時間がどれほど残されているか。それが問題なのだ」
誰も何も言わなかった。
俺たちは、全員が同じことを考えていた。
準備に時間をかければ、眷属化の成功率は上がるかもしれない。
だが、その間にもエリスの魔力は失われ続ける。
慎重になりすぎれば、準備が整う前に手遅れになる可能性だってあるのだ。
「……バクゥ様」
エリスが静かに口を開いた。
「私の身体は、あとどれくらい持つのでしょうか?」
俺は、彼女の手を握りたくなった。
けれど、今は答えを聞かなければならない。
バクゥ様は、しばらく黙っていた。
「正確なことは言えぬ。魔力の残量だけでなく、身体がどこまで耐えられるかにも左右されるからな」
「そうですか……」
「ただし、これだけは言っておく。今の状態が続けば、身体の衰弱はさらに進む。魔力が一定の水準を下回れば、立ち上がることや食事をすることさえ、今以上に難しくなるだろう」
エリスは、静かに頷いた。
「わかりました」
その返事は落ち着いていた。
だが、俺にはわかった。
彼女だって怖いのだ。
自分の身体がどうなっていくのか。
いつまで生きられるのか。
そして、眷属化に成功したとしても本当に未来が手に入るのか。
わからないことばかりなのだから。
それでもエリスは、目を逸らさなかった。
「バクゥ様。準備が整ったら、すぐに始めてください」
「エリス……」
俺は思わず彼女の名前を呼んだ。
彼女は俺を見て、少しだけ微笑んだ。
「レオン……。もちろん、危険があることはわかっているわ。でも、何もしないまま時間が過ぎていくのを待つのはもっと怖いの」
「……ああ」
「だからできる限りの準備をして、私にできることをして欲しい」
バクゥ様は、ゆっくりと頷いた。
「わかった。可能な限り急ごう」
「ありがとうございます」
その言葉を聞いて、俺はようやく息を吐いた。
まだ何も解決していない。
けれど、少なくとも俺たちは、前へ進もうとしていた。
それから数時間、病室では検査が続いた。
魔力の残量を測定し、身体の状態を調べ、魔力がどのように流れているのかを記録する。
医師たちは交代でエリスの様子を確認し、バクゥ様はその結果をもとに何度も魔力の調整を試みていた。
俺は邪魔にならないよう、部屋の隅でその様子を見守っていた。
エリスは何度も検査を受けながらも、不満を口にしなかった。
疲れているはずなのに、医師たちの質問には一つひとつ丁寧に答えている。
時折、苦しそうに目を閉じることはあった。
そのたびに俺は立ち上がりそうになったが、彼女は小さく首を振り、まだ大丈夫だと伝えてくる。
そんな彼女を見るたびに、胸の奥が締めつけられた。
エリスは、いつだってそうだった。
自分が苦しいときでさえ、周りを気遣おうとする。
俺に心配をかけまいとしているのだろう。
だからこそ、俺は彼女のために何かをしたかった。
ただそばにいるだけではなく、彼女を救うために力を尽くしたかった。
だが、今の俺にできることは少ない。
バクゥ様のように竜の魔力を操ることはできないし、医師たちのように病気を調べる知識もない。
結局、俺は彼女の手を握り声をかけることしかできなかった。
それが、もどかしかった。
「レオン」
検査の合間、エリスが俺を呼んだ。
「どうした?」
「そんなに難しい顔をしないで」
「え?」
「ずっと眉間に皺が寄っているわ」
そう言われて、俺は慌てて額に手を当てた。
「……本当か?」
「ええ」
エリスは、かすかに笑った。
「私の方が検査を受けているのに、レオンの方が疲れているみたい」
「そんなことはないさ」
「ふふ。そうかしら」
彼女は、俺の手をそっと握り返した。
「そばにいてくれるだけで、私は心強いのよ」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
「……ありがとう」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
彼女は、静かに頷いた。
「うん」
そのとき、少し離れた場所で検査結果を確認していた医師が慌ただしくバクゥ様のもとへ歩み寄った。
「バクゥ様。こちらをご覧ください」
「どうした?」
「先ほどの測定結果ですが、魔力の残量が予測よりも低下しています」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「低下……?」
医師は、手元の記録を見つめながら説明した。
「検査を始めた時点と比べて、明らかに減少しています。短時間の変化としては、看過できない数値です」
「検査の負担が原因ではないのか?」
バクゥ様が尋ねる。
「その可能性も考えました。しかし、検査によって魔力を消費するような処置は行っていません。身体への負担も、可能な限り抑えています」
バクゥ様は記録用紙を受け取り、目を通した。
そして、眉間に深い皺を寄せた。
「……思った以上に漏出が進んでおるな」
その声を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
「バクゥ様。どういうことですか?」
俺が尋ねると、バクゥ様は記録用紙から目を離した。
「この娘の魔力は、ただ時間が経てば少しずつ減るという程度ではない。身体の状態によって、漏れ出す速度が変わっておる」
「身体の状態……?」
「あくまでも仮説だが……。疲労や緊張、検査による負担。それらが引き金となり、魔力の流れがさらに乱れるのかもしれぬ」
俺は、エリスを振り返った。
彼女は、ベッドの上で静かに横になっていた。
先ほどまで会話をしていたときよりも、顔色が悪くなっている。
「エリス?」
呼びかけると、彼女はゆっくりと目を開いた。
「……大丈……夫……よ」
そう答えようとしたのだろう。
けれど、その声はかすれていた。
エリスは小さく息を吸い、胸元に手を当てた。
「少し……身体が重いわ」
俺はすぐに彼女のそばへ駆け寄った。
「先生!エリスが……!」
「落ち着いてください。すぐに確認します」
医師たちがベッドを取り囲み、身体の状態を調べ始める。
バクゥ様もエリスの手首に触れ、魔力の流れを確かめていた。
俺は、彼らの邪魔にならないよう一歩下がった。
だが、目を離すことはできなかった。
エリスの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
その様子を見ているだけで、胸が張り裂けそうだった。
「……バクゥ様」
やがて、医師が緊張した声で尋ねた。
「眷属化の準備を、予定より早めることはできませんか?」
バクゥ様は、すぐには答えなかった。
彼はエリスの手首から手を離し、難しい顔で記録用紙を見つめていた。
「本来ならば、もう少し調整を重ねたいところだ」
「ですが、このままでは……」
「わかっておる」
バクゥ様の声は、いつになく低かった。
「この娘の身体は、ワシらが考えていた以上に不安定だ。準備に時間をかけすぎれば、眷属化を行う前に限界を迎える可能性がある」
俺は、拳を握りしめた。
やはり、時間がないのだ。
何日もかけて準備を整える余裕など、ないのかもしれない。
「では、すぐに始めるべきではありませんか?」
思わず声が出た。
「レオン……」
エリスが、かすかに俺を呼んだ。
俺は彼女の方を向いた。
彼女は苦しそうに息をしながらも、俺を見つめていた。
「焦らないで……。バクゥ様も、先生たちも、私を助けようとしてくれているのだから」
「……わかっている」
俺は、彼女の手を握った。
「わかっているけど……」
言葉が続かなかった。
焦っているのは、俺自身だった。
今すぐにでも彼女を救いたい。
この苦しみから解放してやりたい。
だが、焦って失敗すれば、取り返しがつかない。
それも、わかっていた。
バクゥ様はしばらく考え込んでいたが、やがて決断したように顔を上げた。
「……予定を変更する」
その言葉に、全員がバクゥ様を見た。
「これ以上、長く準備を続けることはできぬ。必要な確認を終えたら、眷属化の第一段階に入る」
「第一段階……?」
俺が尋ねると、バクゥ様は頷いた。
「まずはワシの魔力を少量だけ流し、この娘の身体が受け入れられるかを確かめる。そこで問題がなければ、次の段階へ進む。危険な兆候があれば、ただちに中断する」
「それで、エリスは……」
「成功するかどうかは、実際に始めてみなければわからぬ」
バクゥ様は、エリスを見つめた。
「だが、今は待ち続けることにも危険がある。ならば、可能な限り安全を確保したうえで前へ進むしかあるまい」
俺は、深く頷いた。
エリスを救うための方法は見つかった。
しかし、その方法を実行するための時間さえ、十分には残されていない。
それが、今の現実だった。
夕方になっても、エリスの容体は完全には落ち着かなかった。
医師たちは必要な処置を続け、バクゥ様は眷属化に使う魔力の調整を進めていた。
俺は一度、エリスの両親とともに病室の外へ出た。
彼女が休めるようにするためだ。
扉が閉まると、母親は壁に手をつき深く息を吐いた。
「……あの子、苦しかったでしょうに」
その声は震えていた。
「それでも、私たちの前では大丈夫だと言おうとするのね」
父親は、妻の肩をそっと抱いた。
「エリスは昔から、そういう子だった」
「もっと早く、私たちにできることがあれば……」
「今は、そう考えるのはやめよう」
父親は、静かに首を振った。
「私たちにできることは、あの子を信じて支えることだ。バクゥ様も、医師たちも、全力を尽くしてくださっている」
「……そうね」
母親は目元を拭った。
俺は、何も言えずに立ち尽くしていた。
両親の気持ちは、痛いほどわかる。
俺だって、何度も考えていた。
もっと早く異変に気づけていたら。
もっと早く、彼女を救う方法を見つけられていたら。
そんなことを考えても、過ぎた時間は戻らない。
だからこそ、今できることをするしかないのだ。
「……俺は、エリスのそばに戻ります」
そう告げると、父親が頷いた。
「頼む。あの子は、君がそばにいると安心するようだからな」
「はい」
俺は、病室の扉に手をかけた。
その向こうにいる彼女を、今度こそ守りたい。
たとえ眷属化が成功したとしても、病気が完全に治るわけではないとしても。
彼女と過ごせる時間がほんの少しでも増えるのなら。
俺は、その時間を大切にしたい。
図書館へ行って、彼女が読みたいと言っていた本を一緒に読もう。
何気ない話をして、笑い合おう。
いつか彼女が自分の足で歩けるようになったら、王都の街を一緒に歩こう。
そんな未来を、諦めたくなかった。
病室へ戻ると、エリスは目を閉じていた。
眠っているのかと思ったが、俺が近づくとゆっくりと目を開いた。
「……レオン?」
「ああ。ここにいるよ」
俺は椅子を引き寄せ、ベッドのそばに座った。
「少しは楽になったか?」
「うん……さっきよりは」
エリスは、かすかに微笑んだ。
「ねえ、レオン」
「どうした?」
「眷属になったら……私達、一緒に本を読めるようになるかしら」
その質問に、俺は胸を締めつけられた。
彼女が望んでいるのは、特別な力でも、誰かに称賛されることでもない。
ただ、本を読めること。
好きな場所へ行けること。
大切な人と一緒に過ごせること。
そんな、ごく普通の未来なのだ。
「きっと……いや、絶対読めるようになるさ」
俺は、できるだけ明るい声で答えた。
「そのときは、俺が本を選ぶよ。君が好きそうな本をたくさん見つけておく」
「……ふふ。楽しみにしているわ」
「もちろんだ」
俺は彼女の手を握った。
その手は、まだ少し冷たかった。
けれど、確かな温もりが残っている。
俺は、その温もりを忘れないように、そっと指を絡めた。
「エリス。絶対に、一緒に行こう」
「……うん」
彼女は、目を閉じながら小さく頷いた。
俺は、その横顔を見つめた。
窓の外では、夕暮れが夜へと変わり始めていた。
明日、眷属化の第一段階が始まる。
それが成功する保証はない。
彼女がどれほど長く生きられるようになるのかも、わからない。
それでも、俺たちは進む。
失われていく時間を、ただ見送るわけにはいかないのだから。
俺はエリスの手を握ったまま、静かに目を閉じた。
どうか、明日が来ますように。
そして、その先にも……彼女と一緒に過ごせる明日が、ひとつでも多くありますように。
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