第三十九話
エリスの病室には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
ベッドのそばには、エリスの両親と俺が立っている。
そして窓際には、腕を組んだバクゥ様がいた。
昨日の診察を終えたあと、バクゥ様は医師たちと話し合い、エリスの身体について詳しく調べるための準備を進めていた。
その結果が、今日になってようやくまとまったらしい。
「それで、バクゥ様。エリスを救う方法が見つかったのでしょうか?」
俺が尋ねると、バクゥ様はゆっくりとこちらを向いた。
「方法そのものはある」
その言葉に、エリスの母親が胸元で手を握りしめた。
父親も、顔を上げる。
俺は思わず息を呑んだ。
「本当ですか……?」
「ああ。ただし、昨日も言ったが、完全に治せるわけではない」
バクゥ様は、俺たちの顔を順番に見た。
「それを理解したうえで、最後まで話を聞け」
「……はい」
俺たちは頷いた。
エリスもまた、ベッドの上から真剣な眼差しを向けていた。
バクゥ様は、彼女の方へ視線を戻した。
「まず、お前の身体で何が起きているのか、もう一度説明しておこう」
そう前置きしてから、静かに話し始めた。
「お前の身体には、魔力を蓄える器がある。人間が魔法を使えるのは、その器に魔力を蓄え、必要なときに取り出せるからだ」
俺たちは黙って耳を傾けた。
「だがお前の場合、その器が傷ついておる。魔力を生み出す働きも弱まり、蓄えた魔力が外へ漏れ続けているのだ」
「はい……。医師の方からも、そのように説明を受けています」
エリスが答えた。
「問題は、漏れを止められぬことだ。いくら魔力を補っても、器そのものが壊れている以上いずれ失われる。ドラゴンハートで魔力を生み出す力を高めたとしても、根本的な解決にはならぬ」
バクゥ様は、そこで一度言葉を切った。
「ならば、どうするか。器を広げるのだ」
「器を……広げる?」
エリスの父親が聞き返した。
「そうだ。今のお前の器は、ひどく小さくなっておる。蓄えられる魔力が少ないうえに、そこから絶えず漏れ出している。ならば、器そのものを大きくすればよい」
バクゥ様は、自分の胸元を指で軽く叩いた。
「人間の器には限界がある。だが、竜は違う。長い年月を生きる竜は、人間よりもはるかに大きな魔力を蓄えられる器を持っておる」
「……つまりエリスの身体を竜に近づける、ということでしょうか?」
俺が尋ねると、バクゥ様は頷いた。
「その通りだ」
病室が静まり返った。
竜に近づける。
それは、単に魔力を分け与えるという話ではないのだろう。
エリスの身体そのものを変える。
人間として生きてきた彼女が、人間とは違う存在になる。
その意味を考え、俺は思わず拳を握った。
「具体的には、どうするのですか?」
エリスの父親が尋ねた。
「ワシの眷属にする」
「眷属……?」
「うむ。ワシと魔力の繋がりを結び、竜の性質をその身に宿させる。人間の身体を完全に竜へ変えるわけではない。人間としての姿も、心も、そのまま残る。だが、魔力の器とそれを支える身体の仕組みには変化が生じる」
バクゥ様は、淡々と説明した。
「その結果、人間のままでは耐えられぬほどの魔力を身体に蓄えられるようになる。器が大きくなれば、今よりも多くの魔力を保てるはずだ」
「それなら……!」
俺は思わず声を上げた。
器が大きくなる。
魔力を蓄えられる量が増える。
今のエリスは魔力が失われる速度に対して、身体に残された魔力があまりにも少ない。
ならば、その量を増やすことができれば。
少なくとも、今よりは長く生きられるのではないか。
そんな希望が胸の中に広がった。
だが、バクゥ様は俺の期待を見透かしたように、すぐに続けた。
「ただし、勘違いするな。眷属にしたところで、壊れた器が元通りになるわけではない」
俺は口を閉じた。
「器を広げても、傷が消えるわけではないのだ。魔力が漏れ出すこと自体は変わらぬ。魔力を生み出す働きも、完全に回復するとは限らぬ」
「では……」
エリスの母親が、不安そうに尋ねた。
「それでは、結局、病気は治らないということですか?」
「ああ、治るとは言っておらぬ」
バクゥ様は、はっきりと答えた。
「これは延命のための方法だ」
その言葉が、病室に重く落ちた。
延命。
治療ではなく、延命。
その違いは、決して小さくない。
俺は唇を噛んだ。
エリスの病気を治せる方法が見つかったわけではない。
魔力が漏れ続ける身体を、元に戻せるわけでもない。
ただ、残された時間を延ばす。
それだけなのだ。
「……どれくらい、時間を延ばせるのでしょうか?」
エリスが尋ねた。
声は静かだった。
けれど、俺には彼女がどれほど勇気を振り絞ってその質問をしたのか、わかる気がした。
バクゥ様は、すぐには答えなかった。
「正確なことは言えぬ」
「……そうですか」
「お前の身体が、どこまで竜の性質を受け入れるかによって変わる。器が広がる程度も、魔力が漏れ出す速度も、実際に眷属化してみなければわからぬ」
バクゥ様は、腕を組み直した。
「数年は生きられるかもしれぬ。だが、それ以上になる可能性もあれば、思ったほど延びぬ可能性もある。何年と断言することはできぬ」
数年。
俺は、その言葉を頭の中で繰り返した。
数年生きられるかもしれない。
今のままなら、いつまで持つのかさえわからない。
日ごとに衰弱し、魔力が失われ続けている。
医師たちも、いつ状態が急変するか予測できないと言っていた。
そんなエリスが、数年も。
たとえ完治しなくても。
たとえ、その先に再び同じ問題が待っていたとしても、数年という時間が手に入るのなら、それはあまりにも大きな違いだった。
「……数年」
エリスの母親が、震える声で呟いた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「数年でも……この子と一緒に過ごせる時間が増えるのですね?」
「可能性はある」
バクゥ様は、慎重に答えた。
「だが、必ず数年生きられると約束することはできぬ」
「それでも……」
母親は、涙を拭うことも忘れたまま、エリスを見つめた。
「それでも、今のままでは……」
言葉が続かなかった。
その気持ちは、俺にも痛いほどわかった。
今のエリスは、ベッドから起き上がることさえ難しい。
身体を動かすだけで疲れ、魔力は少しずつ失われていく。
このまま何もしなければ、残された時間は決して長くないかもしれない。
それならば数年でも、時間を延ばせる可能性があるのなら。
俺たちにとって、それは十分すぎるほど大きな希望だった。
「バクゥ様」
エリスの父親が、深く頭を下げた。
「どうか、その方法をお教えください。娘を救うためにできることがあるのなら、私たちは何でも協力いたします」
「お父様……」
エリスが小さく声を上げた。
父親は顔を上げ、娘を見た。
「もちろん、決めるのはお前だ。私たちが勝手に決めてよいことではない」
その言葉に、母親も頷いた。
「そうよ。エリス。私たちは、あなたに生きていてほしい。けれど、あなたの身体のことだもの。あなたの気持ちを一番に考えたいの」
エリスは、両親を見つめていた。
しばらくの間、何も言わなかった。
俺も、口を挟むことはできなかった。
眷属になる。
人間とは違う性質を、その身に宿す。
どのような変化が起きるのか、詳しいことはまだわからない。
バクゥ様は、危険がないとは言っていない。
そして何より、それはエリス自身の身体に関わることだ。
俺が、彼女の代わりに決めていいはずがない。
「……バクゥ様」
やがて、エリスが口を開いた。
「眷属になるというのは、具体的にはどのようなことをするのでしょうか?」
「まず、ワシの魔力をお前の身体に流し、魔力の繋がりを結ぶ。そうして、お前の器に竜の性質を宿させるのだ」
「痛みはありますか?」
「まったくないとは言えぬ。身体が変化するのだからな。だが、無理に耐えられぬほどの痛みを与えるつもりはない」
「途中で、やめることはできますか?」
「繋がりが安定する前なら、止めることはできる。ただし、始めてしまえば身体に何らかの影響が残る可能性はある。途中で止めれば必ず元に戻る、という保証もない」
エリスは、目を伏せた。
簡単な話ではない。
眷属になれば、確実に助かるわけではない。
それでも、何もしなければ病気は進行していく。
どちらを選んでも、危険がある。
ならば、彼女が考えなければならないのは、どちらが怖くないかではなく、どちらを選びたいのか、なのだろう。
「……人間ではなくなってしまうのでしょうか?」
エリスが尋ねた。
バクゥ様は、少しだけ目を細めた。
「お前は、人間でなくなることが怖いのか?」
「……わかりません」
エリスは、正直に答えた。
「今まで、自分が人間であることを疑ったことはありませんでした。魔法が使えなくても、身体が弱くても、私は私だと思っていたから」
そこで、彼女は小さく息を吸った。
「でも、これから身体が変わってしまうのなら……今までの自分とは違う存在になるのなら、少し怖いです」
「そうか」
バクゥ様は、否定しなかった。
「当然だろうな。人間にとって、自分の身体が変わるというのは大きなことだ」
「はい……」
「だが、忘れるな。眷属になることは、お前の心まで竜に変えることではない。お前が本を読むのが好きなら、これからも本を読めばよい。人間の街で暮らしたいのなら、そうすればよい。ワシの眷属になったからといって、必ずしも人間の暮らしを捨てる必要はない」
エリスは、驚いたように顔を上げた。
「本当に……?」
「うむ。もちろん、身体の変化によってこれまでと同じようにはいかぬこともあるだろう。竜の性質がどこまで現れるかも、今はわからぬ。だが、眷属になるというのはワシの意志に従って生きる奴隷になるという意味ではない」
バクゥ様は、そこで少しだけ笑った。
「ワシは、眷属を増やして世界を支配したいわけではないのでな」
思わず、俺は苦笑した。
この方なら、本当に世界を支配しようと思えばできてしまうのではないか。
そんな考えが頭をよぎったが、今は口にしないでおこう。
エリスも、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。大事なのは、お前がどうしたいかだ」
バクゥ様は、真剣な眼差しでエリスを見た。
「ワシの眷属になれば、今より長く生きられる可能性がある。だが、完治するわけではない。器を広げても、魔力は漏れ続ける。いずれ、再び魔力が尽きる日が来るかもしれぬ」
その言葉を、俺は一つも聞き漏らさないように聞いていた。
「それでも、お前は生きたいか?」
エリスは、すぐには答えなかった。
窓の外では、風に揺れた木々が静かに葉を鳴らしていた。
病室の中にいる誰もが、彼女の言葉を待っていた。
やがて、エリスはゆっくりと口を開いた。
「……私は、生きたい……!!!」
その声は、小さかった。
けれど、はっきりとしていた。
「まだ、やりたいことがたくさんあります。読みたい本もありますし、行ってみたい場所もあります」
エリスは、俺を見た。
「レオンと、一緒に図書館へ行く約束もしました」
「……ああ」
俺は頷いた。
「それに、まだ……レオンと一緒に過ごしたいです」
胸が、強く締めつけられた。
彼女は、俺の手を見つめていた。
「だから、怖くても……身体が変わってしまうとしても、私は生きるためにできることをしたいです」
そして、バクゥ様へ視線を戻した。
「私を、あなたの眷属にしてください」
その言葉を聞いた瞬間、母親が口元を押さえた。
父親は、深く目を閉じてから、娘に向かって頷いた。
「……わかった。お前が決めたことなら、私たちは支える」
「お父様……お母様……」
「ただし、無理はしないこと。何かあったら、すぐに教えてちょうだい」
母親は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「私たちは、あなたが生きていてくれるだけで嬉しいのだから」
エリスの目にも、涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
俺は、彼女のそばへ一歩近づいた。
「エリス」
「レオン……」
「俺も、君の決断を支える。怖いことも、わからないことも、これからたくさんあると思う。それでも、一緒に考えていこう」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
俺は、彼女の手をそっと握った。
細く、頼りない手だった。
けれど、その手には、確かに温もりがあった。
まだ、生きている。
まだ、一緒にいられる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「では、準備を始める前にもう一つだけ伝えておくことがある」
バクゥ様の声に、俺たちは顔を上げた。
「眷属化を行うには、ワシとお前の魔力を繋ぐ必要がある。そのためには、ワシの魔力をお前の身体に受け入れられる状態に整えなければならぬ」
「それは、難しいことなのでしょうか?」
エリスの父親が尋ねた。
「人間にとっては、簡単なことではない。ワシの魔力は、お前たちが普段扱っているものとは性質が違う。何の準備もなく流し込めば、身体が耐えられぬ可能性もある」
バクゥ様は、医師の方を見た。
「まずは、この娘の現在の状態を正確に把握する。魔力の残量、身体の衰弱の程度、そして魔力が漏れ出す速度。できる限りの情報を集めるのだ」
「承知しました」
医師は真剣な表情で頷いた。
「我々も協力いたします」
「うむ。ワシも、竜の魔力を人間の身体により適応させる方法を考えよう。急いで始めるより、少しでも成功の可能性を高める方がよい」
その言葉に、俺は安堵した。
早くエリスを救いたい。
一刻も早く、彼女の苦しみを終わらせたい。
だが、焦って彼女を危険にさらしてしまえば意味がない。
俺たちは、今度こそ慎重に進まなければならないのだ。
「バクゥ様。準備には、どれくらいかかるのでしょうか?」
「そうだな……。身体の状態を調べるだけなら、数日もあればよかろう。だが、眷属化の手順を整えるには、もう少し時間が必要かもしれぬ」
数日。
それだけの時間が、今のエリスにとってどれほど貴重なのか。
俺は、改めて思い知らされた。
「……急いでいただけると助かります」
「わかっておる。だが、無理に急いで失敗すれば、それこそ取り返しがつかぬ」
「はい……」
俺は頷いた。
待つしかない。
今は、それしかできない。
だが、昨日までとは違う、エリスを救う方法が見つかったのだ。
完治ではない。
いつまで生きられるかもわからない。
それでも、明日にも失われるかもしれなかった命に、数年という時間を与えられる可能性がある。
俺たちにとって、それは何にも代えがたい希望だった。
その日の夕方。
エリスの両親が医師と今後の相談をするために病室を離れ、バクゥ様も準備を進めるために別室へ向かった。
病室には、俺とエリスだけが残った。
窓の外は、少しずつ夕暮れに染まり始めていた。
「……レオン」
「どうした?」
「私、本当に人間じゃなくなってしまうのかな」
エリスは、天井を見つめたまま呟いた。
俺は、すぐには答えられなかった。
身体にどのような変化が起きるのか、俺にもわからない。
角が生えるのか。
鱗が現れるのか。
それとも、外見にはほとんど変化がないのか。
何もわからなかった。
「……正直、俺にもわからない」
「そうよね」
「でも、バクゥ様は、君の心まで変わるわけじゃないと言っていた」
「うん」
「俺はエリスがどんな姿になっても、エリスのことをエリスだと思う」
彼女が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……本当に?」
「ああ。もちろん、何か変わったら驚くかもしれないけどな」
「もう……」
エリスが、小さく笑った。
その笑顔を見たのは、久しぶりだった。
ほんの一瞬。
すぐに消えてしまいそうな、弱々しい笑顔だった。
それでも、俺には十分だった。
「でも、そうね。レオンがそう言ってくれるなら、少し安心したわ」
「よかった」
俺は椅子を引き寄せ、ベッドのそばに座った。
「眷属になったら、何ができるようになるのか、少し楽しみでもあるな」
「楽しみ?」
「ああ。今まで魔法が使えなかった君が、もしかしたらこれまでとは違う力を使えるようになるかもしれないだろう?」
「……そうね。でも、まずは普通に起き上がれるようになりたいわ」
「それは大事だな」
俺たちは、顔を見合わせて笑った。
何気ない会話だった。
けれど、こうして彼女と話せることが、どれほど幸せなのか。
俺は、改めて感じていた。
「エリス」
「なあに?」
「必ず、一緒に図書館へ行こう」
彼女は、少しだけ目を見開いたあと柔らかく微笑んだ。
「……うん。約束よ」
その約束を、俺は決して忘れない。
数年という時間が手に入るのなら、その間にできるだけ多くの思い出を作りたい。
一緒に本を読んで。
一緒に食事をして。
街を歩いて。
何でもないことで笑い合って。
いつか、病室の外へ出られる日が来たら……そのときは、彼女の好きな本を買いに行こう。
そして、帰り道に少し遠回りをして王都の景色を眺めるのもいい。
俺は、そんな未来を思い描いた。
まだ、何一つ確かなことはない。
眷属化が成功する保証もない。
エリスの病気が治るわけでもない。
それでも彼女と一緒に過ごせる未来を、もう一度考えられるようになった。
それだけで、俺は前を向くことができた。
窓の外では、夕日が静かに沈んでいく。
その光を受けながら、エリスは穏やかな表情で目を閉じた。
俺は、彼女の手を握ったまま、静かに見守っていた。
今度こそ。
今度こそ、彼女と一緒に未来へ進むために。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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