第三十八話
「……エンシェントドラゴン?」
医師の声が、廊下に響いた。
その場にいた看護師たちも、誰一人として動かなかった。
無理もない。
エンシェントドラゴンといえば、古い伝承や神話に登場する存在だ。人間が生きている間に実際に目にすることなど、まずあり得ない。
それが今、医療施設の廊下に立っている。
しかも、本人が自らそう名乗ったのだ。
「……レオン様。これは、どういうことでしょうか?」
医師が困惑した顔で俺を見る。
説明しろと言われても、何から話せばいいのかわからない。
北方の山岳地帯でグリーンドラゴンと戦ったこと。
その最中に、突然現れた巨大な竜がグリーンドラゴンを踏み潰したこと。
そしてその竜が人間の姿に変わり、伝説の魔法であるゲートを使って俺たちを王都近郊まで連れてきたこと。
どれも、普通に話したところで信じてもらえないだろう。
「詳しい事情は後ほど説明する。バクゥ様はエリスを救うために来てくださったのだ」
「しかし……」
「バクゥ様にエリスの容体を診ていただきたい。頼む……」
俺は深く頭を下げた。
医師は困ったようにバクゥ様を見上げた。
バクゥ様は、そんな医師の視線を受けても特に気にした様子はない。
「おい、人間」
「は、はい!」
「お前たちは、あの娘の病を治せぬのだろう?」
「……それは」
医師の顔が曇った。
エリスが目を覚ましてから、俺たちは何度も医師たちの説明を聞いてきた。
魔力回復不全症。
魔力を回復する力が著しく低下し、さらに身体に蓄えた魔力までもが失われていく病。
魔力を使わずに安静にしていても、少しずつ状態が悪化していく。
治療法は確立されていない。
今できることは、身体への負担を減らし残された魔力が尽きるのを少しでも遅らせることだけだった。
医師は、それを誰よりも理解している。
「……現時点では、病状の進行を止める方法が見つかっておりません。もちろん、我々としても可能な限りの治療を続けています。しかし、根本的な解決策は……」
「ならば、試せることは試すべきだろう」
バクゥ様は、淡々と言った。
「ワシは、あの娘の魔力に興味がある。お前たちが見落としているものも、あるかもしれぬ」
「ですが、患者への影響がわからない以上、無条件に診察を許可することは……」
「ほう」
バクゥ様の目が、わずかに細くなった。
空気が変わった。
廊下を満たしていた人々の気配が、一瞬にして静まり返る。
強い。
ただ立っているだけなのに、全身が押し潰されるような圧迫感があった。
俺でさえ息を呑んだ。
これが、エンシェントドラゴン。
その気になれば、この医療施設どころか王都そのものを滅ぼしかねない存在なのだ。
「ワシが、あの娘を傷つけると思うのか?」
「い、いえ!そのような意味では……!」
「ならば、心配するな。無理に魔法を使わせるつもりも、身体を切り刻むつもりもない」
バクゥ様は、そこで一度言葉を切った。
「ただ、診るだけだ」
医師はしばらく迷っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……わかりました。ただし、患者の状態を確認しながら、こちらも立ち会わせていただきます。それでよろしいでしょうか」
「好きにせよ」
あっさりと返事をしたバクゥ様に、医師は少しだけ肩の力を抜いた。
どうやら、ひとまず話はまとまったらしい。
俺は胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いぞ、レオン」
バクゥ様が俺を見る。
「診たところで、何もできぬ可能性もある。過度な期待はするな」
「……はい」
わかっている。
わかっているつもりだった。
それでも、期待せずにはいられなかった。
エリスを救う方法があるかもしれない。
その可能性が、目の前にあるのだから。
エリスの病室へ続く廊下を、俺たちは静かに歩いた。
医師が先導し、その後ろをバクゥ様と俺が続く。
病室の前まで来ると、医師が立ち止まった。
「現在、エリス様はご両親と一緒にいらっしゃいます。先ほど、体調の確認が終わったばかりです」
「エリスのご両親が……?」
「はい。ご帰還を知らせる連絡が届いたため、こちらへいらしたようです」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ驚いた。
エリスの両親は、娘が目を覚ましてからも、あまり病室を訪れていなかった。
もちろん、娘を心配していないわけではない。
娘を救うために、あらゆる場所を巡って治療法を探していたのだと聞いている。
そしてドラゴンハートの存在を知り、俺たちの遠征にも協力してくれた。
結局、ドラゴンハートを手に入れることはできなかった。
だとしても、彼らは諦めないのだろう。
俺は扉の前で、一度だけ深呼吸をした。
エリスは、今どんな顔をしているだろうか。
俺が帰ってきたと知れば、喜んでくれるだろうか。
それとも、また無理をしたのかと怒られるだろうか。
……どちらでもいい。
ただ、彼女に会いたかった。
「エリス。入ってもいいか?」
扉越しに声をかける。
少しの間があって、返事が聞こえた。
「……レオン?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「そうだ。俺だ」
「帰ってきたの?」
「ああ。今、戻ったところだ」
「……よかった」
小さな声だった。
けれどその一言だけで、遠征の疲れが少し軽くなった気がした。
「入るぞ」
俺は扉を開けた。
窓から差し込む午後の日差しが、病室の中を柔らかく照らしている。
ベッドの上には、エリスが横たわっていた。
以前よりも、ずっと痩せてしまった。
頬は細くなり、手首も驚くほど華奢になっている。
それでも、俺の姿を見つけると、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「おかえりなさい、レオン」
「……ただいま、エリス」
思わず、彼女のそばへ駆け寄りそうになった。
だが、すぐに足を止める。
今のエリスは、少しの負担でも身体に影響が出るかもしれない。
強く抱きしめることも、無理に起き上がらせることもできない。
俺は、できるだけ穏やかな表情を作って、ベッドのそばに立った。
「身体の具合はどうだ?」
「今日は、昨日より少しだけ楽よ。……でも、起き上がるのはまだ難しいわ」
「そうか」
「レオンは?」
「俺は大丈夫だ。少し疲れたけど、怪我も治療してもらえる」
「そう……。よかった」
エリスは安心したように目を細めた。
その視線が、俺の後ろへと移る。
「……そちらの方は?」
当然の疑問だった。
角の生えた壮年の男性が、俺の後ろに立っているのだから。
「ああ。紹介するよ。この方は、バクゥ様だ」
「バクゥ……様?」
「エンシェントドラゴンだ」
「…………え?」
エリスの目が、ぱちりと開いた。
その隣に座っていた彼女の母親も、父親も、そろって動きを止める。
医師でさえ、先ほどまで似たような顔をしていたのだ。
驚くのも当然だろう。
「え、エンシェントドラゴンというと……あの、伝承に出てくる?」
「そうだ」
バクゥ様は、あっさりと頷いた。
「細かい説明は後にしよう。まずは、お前を診せてもらいたい」
エリスは俺を見た。
俺は頷いた。
「この方なら、エリスの病気について何かわかるかもしれない。そう思って、連れてきたんだ」
「……そうなのね」
彼女は、ほんの少しだけ視線を落とした。
期待していいのか。
また、期待して傷つくことになるのではないか。
そんな迷いが、その表情に浮かんでいるように見えた。
無理もない。
これまで、何度も治療法を探してきた。
医師たちも、両親も、俺も。
それでも、病気は少しずつ進行している。
エリス自身も、もう十分に理解しているのだろう。
「……お願いします」
それでも彼女は、バクゥ様に向かって小さく頭を下げた。
「私の身体を、診ていただけますか?」
「うむ」
バクゥ様はベッドのそばへ進んだ。
「ただし、先に言っておく。ワシにも、まだ何ができるかはわからぬ。診察した結果、何もできぬと言う可能性もある」
「はい。わかっています」
「それでもよいのか?」
「……はい」
エリスは、もう一度頷いた。
「何もしないまま、諦めたくはありませんから」
その言葉に、俺は思わず彼女を見つめた。
弱っている。
身体は、以前とは比べものにならないほど衰えている。
それなのに、彼女の目には、まだ確かな意志が残っていた。
諦めたくない。
生きたい。
その気持ちは、今も変わっていないのだ。
バクゥ様は、エリスの顔をじっと見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「よかろう。では、少し失礼するぞ」
彼はベッドの脇に椅子を置かせると、そこへ腰を下ろした。
そして、エリスの手に視線を落とす。
「手を出せるか?」
「はい」
エリスが、布団から右手を出した。
バクゥ様は、その手に触れた。
次の瞬間、病室の空気が微かに震えた。
窓辺に置かれた花瓶の水面が揺れる。
医師が驚いたように息を呑んだ。
俺にもわかった。
バクゥ様の身体から、目に見えない何かが広がっていく。
魔力だ。
ただし、俺たち人間が使う魔力とは、まるで質が違っていた。
重く、深く、どこまでも広がっていく。
それでいて、不思議なほど静かだった。
バクゥ様は目を閉じ、エリスの手を取ったまましばらく動かなかった。
やがて、眉間に皺を寄せる。
「……なるほどな」
「何か、わかったのですか?」
俺は思わず尋ねた。
「黙っておれ。今、確かめておる」
「……すみません」
俺は口を閉じた。
時間が、ひどく長く感じられた。
バクゥ様はエリスの手を離さず、何かを探るように意識を集中させている。
やがて、その表情が少しずつ険しくなった。
「これは……」
低い声が漏れた。
「ふむ……」
その一言に、エリスの母親が身を乗り出した。
「何か問題があるのでしょうか?」
「問題だらけだ」
バクゥ様は、エリスの手をそっと布団の上へ戻した。
「この娘の身体からは、今も魔力が漏れ続けておる」
「……やはり、そうなのですね」
医師が、苦しそうに答えた。
「我々もそれは確認しております。魔力を消費していない状態でも、体内の魔力が徐々に減少しているのです」
「ふむ。だが、人間の医師が測定できるのは、魔力の総量だけなのだろう?」
「はい。魔力の流れを詳しく調べる方法は、現在の魔法医学では確立されていません」
「ならば、見落としておったものがある」
バクゥ様は、エリスの胸元へ視線を向けた。
正確には、その身体の奥にある何かを見ているようだった。
「魔力が漏れておるだけではない。魔力を生み出す流れそのものが、ひどく乱れている」
「魔力を生み出す流れ……?」
エリスが、かすれた声で繰り返した。
「人間の身体には、魔力を蓄えるだけでなく少しずつ生み出すための仕組みがある。お前の身体では、その働きが弱まっておる。しかも、魔力を身体に留めておく働きまで損なわれているようだ」
「それは……魔力回復不全症とは、違うのでしょうか?」
医師が尋ねた。
「呼び名など、どうでもよい。人間が観察できる症状に名前をつけただけだろう」
バクゥ様は、少し呆れたように言った。
「重要なのは、なぜそうなったか。そして、どうすれば止められるかだ」
その言葉に、病室の空気が変わった。
止められるか。
今、バクゥ様は確かに、そう言った。
俺は息を詰めた。
「バクゥ様。エリスを救う方法が、あるのですか?」
「早まるな。まだ、あるともないとも言っておらぬ」
バクゥ様は俺を制した。
「ただ、この娘の状態は単に魔力が不足しているという話ではない。魔力を補充したところで、漏れ続けるならばいずれまた尽きる」
「では……ドラゴンハートを使っても、意味はないということでしょうか?」
エリスの父親が、重い声で尋ねた。
俺たちが北方へ向かった理由。
それは、ドラゴンハートを手に入れるためだった。
古い研究書には、ドラゴンハートが人間の魔力を生み出す力を大きく高める可能性があると記されていた。
エリスの魔力を生み出す力が弱まっているのなら、ドラゴンハートで補えるのではないか。
そう考えたのだ。
だが、バクゥ様は首を横に振った。
「普通のドラゴンの心臓を移植したところで、この娘の身体が耐えられるとは思えぬ。そもそも、魔力を生み出す力だけを強めても、保持する力が壊れたままなら結果は同じだ」
「……そうですか」
エリスの父親が、悔しそうに拳を握った。
俺も、言葉を失った。
遠征の目的だったドラゴンハートは、手に入らなかった。
そして仮に手に入ったとしても、それだけではエリスを救えなかった可能性が高い。
俺たちは、何もかも間違っていたのだろうか。
いや。
まだだ。
バクゥ様は、診察を終えていない。
「だがな」
その声に、俺は顔を上げた。
「この娘には、奇妙なものがある」
バクゥ様は、エリスの胸元を見つめたまま続けた。
「本来ならば、これほど魔力が失われれば、身体の機能にも深刻な影響が出ておるはずだ。実際、この娘は衰弱しておる。だが、完全には崩れていない」
「それは……どういう意味でしょうか?」
医師が尋ねる。
「身体の奥に、まだ消えていない光があるのだ」
光。
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏にあの日の光景がよみがえった。
王都を襲った魔物の群れ。
傷ついた人々。
そしてエリスが放った、あまりにも大きな癒やしの光。
彼女は、あのとき多くの人々を救った。
その代償として、一年間も眠り続けることになったのだ。
「……聖なる光、でしょうか?」
俺が尋ねると、バクゥ様はゆっくりと頷いた。
「そうだ。人間の魔法として分類されるものとは、少し違う。あの娘が持つ光は、ただ傷を癒やすだけの力ではないようだ」
エリスは、戸惑ったように自分の手を見つめた。
「でも、私は……もう、ほとんど魔法を使えません」
「今はな」
「以前のように、誰かを治療することもできないと思います。少し身体を動かすだけでも、疲れてしまいますから……」
「それは、お前の力が完全に失われたからではない」
バクゥ様は、静かに告げた。
「力が失われていることと、力そのものが消えたことは違う」
エリスが顔を上げる。
「お前の身体には、まだ聖なる光が残っておる。だがその光もまた、魔力の流れに引きずられるように弱まっている」
「……では、私の魔法がなくなってしまうのも時間の問題なのでしょうか?」
その質問に、バクゥ様はすぐには答えなかった。
長い沈黙が落ちる。
俺は、エリスの表情を見つめた。
怖いのだろう。
自分の身体がどうなっていくのか、いつまで生きられるのか。
何もわからないまま、日々弱っていくことが。
それでも彼女は、逃げずに答えを求めていた。
「……可能性はある」
バクゥ様は、正直に答えた。
「今のままならば、いずれ身体に残された魔力も聖なる光も失われていくかもしれぬ」
エリスの母親が、口元を押さえた。
父親は、目を伏せたまま動かなかった。
俺は、強く拳を握った。
わかっていたはずだ。
病気が進行していることも、時間が残されていないかもしれないことも。
それでも、改めて言葉にされると胸の奥を抉られるようだった。
「ですが」
エリスが、静かに口を開いた。
「それを止める方法は、あるのでしょうか?」
バクゥ様は、彼女を見つめた。
そして、ゆっくりと口元を緩めた。
「あるかもしれぬ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
「本当ですか!?」
「だから、早まるなと言っておるだろう」
バクゥ様は苦笑した。
「確実に治せると約束したわけではない。だが、少なくとも、試す価値のある方法は思いついた」
「それは、どのような方法なのですか?」
エリスの父親が、前のめりになって尋ねた。
バクゥ様は、すぐには答えなかった。
代わりに、俺の方を見た。
「レオン。お前、先ほど自分が聖なる光をまとっていると言われたことを覚えておるな?」
「はい」
「少し、こちらへ来い」
俺は言われた通り、ベッドの反対側へ回った。
バクゥ様は俺の右手を取ると、目を細めた。
「やはりな。お前の中に、あの娘の光が残っておる」
「俺の中に……?」
「うむ。あの娘が魔物の群れを癒やしたとき、お前もまたその光に触れたのだろう。いや、ただ触れただけではないな」
バクゥ様の視線が、俺とエリスの間を行き来した。
「お前は、あの娘の光を受け入れておる」
「受け入れる……?」
「普通、人間の魔力は他人の身体に長く留まらぬ。まして、聖なる光のような特殊な力ならばなおさらだ。だが、お前の中にある光は消えるどころか、今も安定しておる」
俺は、自分の手を見つめた。
何も感じない。
いつもと変わらない、ただの手だ。
それなのに、バクゥ様には何かが見えているらしい。
「……それが、エリスを救うことと関係するのでしょうか?」
「まだわからぬ。だが、一つ試してみたいことがある」
バクゥ様は、俺の手を離した。
「この娘の魔力が漏れ続けているのならば、まずは、その流れを一時的にでも抑えられないか試す。お前に残った聖なる光を使えば、何らかの変化が起きるかもしれぬ」
「俺の光で……エリスの魔力の流出を抑える、ということですか?」
「そうだ。ただし、成功する保証はない。お前に何が起きるかも、わからぬ」
「俺は構いません」
即答していた。
エリスが目を見開く。
「レオン、待って」
「エリス?」
「何が起きるかわからないのでしょう?それなら、そんな簡単に決めてはいけないわ」
彼女の声は弱々しかった。
それでも、その言葉には確かな力があった。
「私を助けるために、レオンまで危険な目に遭う必要はないの」
「……でも」
「お願い。私のために、あなたが傷つくのは嫌」
俺は、言葉を失った。
遠征へ出る前にも、同じことを考えた。
自分が傷ついても構わない。
命を懸けても、エリスを救いたい。
けれど、父上にもバクゥ様にも言われたのだ。
自分の命を粗末にするな、と。
俺が死んでしまえば、エリスが悲しむだけだ。
その事実を、俺はようやく理解し始めていた。
「……わかった。危険があるなら、先に確かめる。無理はしない」
「本当に?」
「ああ。約束する」
エリスは、少しだけ安心したように息を吐いた。
バクゥ様は、そのやり取りを眺めながら愉快そうに笑った。
「なるほど。お前たちは互いのこととなると、ずいぶん面倒な人間になるのだな」
「……バクゥ様」
「責めておるわけではない。むしろ、悪くないと思っておる」
バクゥ様は椅子から立ち上がった。
「今日は、これ以上のことはせぬ。まずは、魔力の流れを詳しく調べる必要がある。お前たち人間の医師にも協力してもらおう」
「もちろんです!」
医師が、すぐに頷いた。
「我々としても、エリス様を救える可能性があるのなら、できる限りのことをいたします」
「よし。では、明日から準備を始める」
バクゥ様はそう言うと、エリスへ視線を戻した。
「娘よ。少しばかり時間がかかるかもしれぬ。それでも、構わぬな?」
エリスは、ゆっくりと頷いた。
「はい。お願いします」
「うむ」
バクゥ様は満足そうに笑った。
「ならば、今日はよく休め。無理をして魔力を使う必要はない。お前が今すべきことは、生きておることだ」
その言葉を聞いた瞬間、エリスの表情がほんの少しだけ変わった。
生きておること。
ただそれだけでいい。
何かを成し遂げなくてもいい。
誰かを救えなくてもいい。
今は、生きていることそのものが大切なのだ。
俺は、ベッドのそばに置かれた彼女の手にそっと自分の手を添えた。
「エリス。もう少しだけ、一緒に頑張ろう」
「……うん」
彼女は小さく微笑んだ。
「私、まだレオンと図書館に行きたいもの」
その言葉に、胸が熱くなった。
そうだ、俺たちにはまだ約束が残っている。
エリスが眠っている間に見つけた本のこと。
彼女と一緒に読みたい物語のこと。
並んで座って、何も話さずに本を読む時間のこと。
まだ、何一つ叶えていない。
「必ず行こう」
俺は、彼女の手をそっと握った。
「一緒に図書館へ行って、面白い本を探そう。読み終わったら、また次の本を探せばいい」
「……楽しみね」
「ああ。だから、今はゆっくり休んでくれ」
エリスは、安心したように目を閉じた。
その顔を見つめながら、俺は心の中で誓った。
今度こそ、彼女を救う。
自分の命を投げ出すのではなく、生きて彼女と一緒に未来へ進むために。
そして、ベッドの傍らでは、バクゥ様が静かにエリスを見つめていた。
「……聖なる光か」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、彼は呟いた。
「まさか、人間の身にこれほどのものが宿っておるとはな」
その表情からは、先ほどまでの飄々とした笑みが消えていた。
古き竜は、何かを思い出すように目を細める。
そして、誰にも告げることなく胸の奥で一つの決意を固めていた。
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