第三十七話
ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった。
山岳地帯の冷たい風が消え、代わりにどこか懐かしい森の匂いが鼻をくすぐる。
足元には柔らかな草が生え、周囲には見慣れた木々が並んでいた。
王都近郊の森。
間違いない。
ほんの一歩前まで、俺たちは王都から何日も離れた北方の山岳地帯にいたのだ。それが今では、王都のすぐ近くに立っている。
振り返ると、空間に開いた光の門を、バクゥ様が悠々とくぐってきた。
その後ろから、騎士たちや魔法使いたちも続々と姿を現す。
「……本当に、転移してしまった」
魔法技師が、呆然と呟いた。
「しかも、この距離を一瞬で……。空間の歪みも、魔力の乱れも、ほとんど感じられなかった。いったい、どれほどの技術があれば……」
「人間の魔法使いは、何でも理屈で考えようとするのだな」
バクゥ様が、面白そうに笑った。
「できるから、やった。それだけの話だろう」
「そ、それはそうですが……」
「ならば、よいではないか」
魔法技師は、口を開きかけては閉じた。
どうやら、質問したいことが山ほどあるらしい。
俺だって同じだった。
ゲートの魔法はもちろん、エンシェントドラゴンという存在そのものについても、聞きたいことはいくらでもある。
だが、今はそんなことをしている場合ではなかった。
「バクゥ様、王都までは馬で向かえばよろしいでしょうか?」
「いや、もう一度ゲートを開けばよかろう。今度は王都の中に直接繋げてもよいが……人間どもが大騒ぎするだろうな」
「間違いなく、大騒ぎになると思います」
王都のど真ん中に突然、これだけの人数が現れたらどうなるか。
想像するだけで頭が痛くなった。
王国騎士団が総出で警戒態勢を敷き、街はパニック、王宮にまで緊急報告が届くことになるだろう。
いくら公爵家の騎士団であろうと、突然街中に現れれば怪しいことこの上ない。
その結果、バクゥ様が不機嫌になれば……。
最悪国が消し飛ぶことも頭に入れなければ……。
俺は、なるべく穏便に事を進めたいと思った。
「この森からなら、馬車を使えばそれほど時間はかかりません。エリスのいる病院へ向かう前に、必要な手配をさせてください」
「病院か。人間は、病や怪我をするとそこへ集まるのだったな」
「はい。エリスは現在、王都の医療施設で療養しています」
「では、そこへ案内せよ。ワシは構わん」
バクゥ様は、あっさりと頷いた。
その直後、背後から呻き声が聞こえた。
「うっ……」
振り返ると、負傷した騎士の一人が、仲間に肩を支えられながら膝をついていた。
そうだった。
俺たちはグリーンドラゴンとの戦いで、全員が満身創痍だったのだ。
ゲートをくぐったことで、無事に王都近郊まで戻ることはできた。だが、負傷そのものが治ったわけではない。
腕を吊っている騎士もいれば、足を引きずっている者もいる。魔法使いたちは魔力を使い果たし、立っているだけで精いっぱいの者もいた。
「すぐに治療を受けさせます。負傷者を先に王都へ運びましょう」
俺が指示を出すと、騎士たちが頷いた。
その様子を見ていたバクゥ様が、ふと眉を上げた。
「……何だ。随分と傷だらけではないか」
「グリーンドラゴンとの戦いで負傷しました。バクゥ様が現れる直前まで、俺たちは討伐を続けていたのです」
「ふむ。あの程度の相手に、これほど手こずったか」
あの程度。
俺たちが命懸けで戦った相手を、あの程度と言い切る。
改めて、目の前の存在がどれほど規格外なのかを思い知らされた。
だが、バクゥ様は、傷ついた騎士たちを見渡すと、少しだけ表情を和らげた。
「まあよい。お前たちも、あの光の恩恵を受けておるようだしな」
「……聖なる光のことでしょうか?」
「そうだ。あの人間から受けた光だろう」
バクゥ様は、俺の顔を見た。
「特にお前は、随分と濃い光をまとっておる」
「俺が、ですか?」
「うむ。ほかの者たちにも多少は残っておるが、お前のものは別格だ。あの人間と、よほど深い縁があるのだろうな」
俺は、思わず自分の手を見た。
エリスから受けた光。
そんなものを感じたことは、一度もない。
だが、言われてみれば、あの魔物の群れが王都を襲った日から、俺自身にも変化があったような気がする。
エリスが倒れたと聞いたとき。
一年間も目を覚まさないと告げられたとき。
そして、ようやく目を覚ました彼女が、今度は魔力を失い続ける病に苦しんでいると知ったとき。
胸が引き裂かれるような思いをした。
何度も、代われるものなら代わりたいと思った。
彼女の苦しみを少しでも引き受けられるなら、どんなことでもしたいと願った。
それが、聖なる光と関係しているのだろうか。
「そのことも、エリスに会えばわかるのでしょうか?」
「さてな。まずは本人を診てみなければ、何とも言えん」
バクゥ様は、それ以上は何も言わなかった。
俺は、胸の奥に新たな疑問を抱えながらも、王都へ向かう準備を進めることにした。
王都へ戻るための馬車が到着したのは、それから間もなくのことだった。
事情を説明して呼び寄せた馬車には、負傷者を優先して乗せることにした。
騎士団の中でも比較的軽傷の者たちは、馬に乗って移動する。
バクゥ様には馬車を勧めたのだが、本人はあまり興味がないようだった。
「狭い箱に入って揺られるくらいなら、自分で歩くほうがましだ」
そう言って、馬車の横を平然と歩き始めた。
壮年の男性の姿をしているとはいえ、その正体はエンシェントドラゴンだ。
人間の感覚とは違うのだろう。
俺は馬に乗りながら、バクゥ様の隣へと進んだ。
「バクゥ様。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「先ほど、エリスの聖なる光が必要だとおっしゃっていましたね」
「ああ」
「それは、どのような理由なのでしょうか?」
バクゥ様は、少しだけ目を細めた。
すぐに答えてはくれなかった。
森の中を歩きながら、しばらく考えるように空を見上げている。
「……長い話になる」
「それでも、聞かせていただけませんか」
俺は、真剣に頼んだ。
「エリスを救うために必要なことなら、どんな話でも聞きたいのです」
「ふむ」
バクゥ様は、俺の顔をじっと見た。
「お前は、あの人間を救いたいのだな」
「はい」
「自分の命を懸けてでもか?」
「……必要であれば」
「馬鹿者」
即座に言い返された。
「先ほども言っただろう。命を捨てるような真似をして、何になる。お前が死ねば、あの人間は悲しむだけではないのか?」
俺は言葉に詰まった。
父上にも、同じことを言われた。
エリスを救うために向かうのだから、自分が命を落としては意味がない。
その通りだ。
わかっている。
それでも、彼女がいなくなるかもしれないという恐怖を前にすると、冷静でいることが難しかった。
「……はい。俺は、必ず生きて帰るつもりです」
「ならば、よい」
バクゥ様は、満足そうに頷いた。
「それにしても、お前はあの人間に対して、ずいぶんと強い思いを抱いておるようだな」
「……大切な人ですから」
答えると、バクゥ様は愉快そうに笑った。
「ほう。なるほど。そういうことか」
「何が、そういうことなのですか?」
「いや、何でもない。人間というのは面白いものだと思っただけだ」
どうやら、それ以上話すつもりはないらしい。
俺は少しだけ困惑したが、無理に追及するのはやめた。
今は、エリスのもとへ急ぐことが先決だ。
やがて森を抜けると、王都の外壁が見えてきた。
見慣れた石造りの城壁。
その向こうには、いつもと変わらない街並みが広がっているはずだ。
俺は、ようやく帰ってきたのだと実感した。
ただし、今回は何も持たずに帰ってきたわけではない。
ドラゴンハートこそ失われてしまったが、代わりにエリスを救えるかもしれない存在を連れて帰ってきた。
バクゥ様。
悠久の時を生きるエンシェントドラゴン。
彼が本当に彼女を救えるのかは、まだわからない。
それでも、何もできずに帰るよりははるかにましだった。
「レオン様、門が見えてきました」
騎士の報告に頷く。
「よし。負傷者の搬送を最優先にする。王都へ入ったら、まず医療施設へ向かうぞ」
「はっ!」
俺は、馬の腹を軽く蹴った。
早く会いたかった。
エリスに。
今すぐにでも、彼女の顔を見たい。
そして伝えたい。
まだ、諦めなくていいのだと。
王都の門をくぐった途端、周囲が騒がしくなった。
傷ついた騎士たちの姿を見て、門番たちが慌てて駆け寄ってくる。
「レオン様!いったい何があったのですか!?」
「詳しい説明は後だ。負傷者がいる。すぐに医療施設へ連絡してくれ!」
「はっ、ただちに!」
門番の一人が走り出す。
俺たちは、そのまま王都の通りを進んだ。
だが、問題はそれだけではなかった。
「……おい、あの男は誰だ?」
「レオン様の隣にいる人物……見たことがないぞ」
「騎士団の人間ではないようだが……」
街の人々が、バクゥ様を見て囁き合っていた。
当然だろう。
角の生えた壮年の男性など、普通に暮らしていれば見ることはない。
しかも、本人は周囲の視線など気にする様子もなく、興味深そうに街並みを眺めている。
「ほう。ずいぶんと賑やかな街だな」
「王都ですから」
「ワシが最後にこの辺りを通ったときには、まだこんな街はなかったぞ」
「……何百年前のお話ですか?」
「さてな。二百年か、三百年か。細かいことは忘れた」
俺は、思わず苦笑した。
人間なら、二百年も三百年も前の出来事など、歴史の教科書で学ぶものだ。
だが、バクゥ様にとっては、ついこの間のことのような感覚なのかもしれない。
「それより、あそこにある建物は何だ?」
「市場です」
「ほう。食べ物を売っておるのか。あとで見てみたいものだな」
「……エリスの診察が終わってからにしてください」
「わかっておる。冗談だ」
バクゥ様は、楽しそうに笑った。
その様子を見ていると、本当に先ほどまで巨大な竜の姿をしていたとは思えなくなる。
しかし、彼が放つ魔力の気配は、今も変わらず強大だった。
もし、この力が本気で解放されたら。
王都の一角など、あっという間に消し飛んでしまうのではないだろうか。
そう考えると、やはり恐ろしい。
だが、今のところバクゥ様に敵意はない。
むしろ、エリスを救うために協力してくれると言っている。
俺は、その言葉を信じることにした。
やがて、医療施設の建物が見えてきた。
入口には、すでに何人もの医師や看護師が集まっていた。
俺たちが到着するのを待っていたのだろう。
「レオン様!」
医師の一人が、こちらへ駆け寄ってきた。
「ご無事でしたかそれに、負傷者がこんなに……」
「負傷者の治療をお願いします。詳しい報告は後ほどします」
「承知しました。すぐに処置を始めます!」
騎士たちが馬から降り、負傷者を医師たちへ引き渡していく。
俺も馬を降りると、すぐにバクゥ様へ向き直った。
「バクゥ様。こちらです」
「うむ」
俺は、エリスがいる病室へ向かおうとした。
だが、その前に医師が立ちはだかった。
「レオン様、申し訳ありません。エリス様の病室へは、今すぐにはお通しできません」
「……何だと?」
嫌な予感がした。
「エリスに、何かあったのですか?」
「いえ、今のところ容体に大きな変化はありません。ただ、現在は診察中でして……」
俺は、ほっと息を吐いた。
だが、すぐに気を引き締める。
「わかった。診察が終わるまで待つ。しかし、こちらの方にエリスを診ていただきたいのだ」
そう言って、バクゥ様を紹介しようとした。
しかし、医師の視線は、バクゥ様の角に釘づけになっていた。
「……そちらの方は?」
「バクゥ様だ。エリスを救うために、協力してくださることになった」
「協力……?」
医師は、困惑した表情を浮かべた。
無理もない。
突然、角の生えた見知らぬ男性を連れてきて、病人を診てほしいと言っているのだ。
普通なら、警戒されて当然だろう。
だが、バクゥ様は医師の反応を気にすることなく、あっさりと告げた。
「ワシはエンシェントドラゴンだ。少し、その人間を診せてもらいたい」
「…………は?」
医師の口が、ぽかんと開いた。
その場にいた看護師たちも、動きを止めている。
俺は、思わず額を押さえた。
どうやら、これから説明しなければならないことは、山ほどありそうだった。
それでもようやく、ここまで辿り着いたのだ。
今度こそ、エリスを救うための道を見つける。
俺は、バクゥ様とともに、病室の扉を見つめた。
その向こうに、愛しい人がいる。
どうか、間に合ってほしい。
そして、もう一度。
彼女の笑顔を見られますように。
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