第三十六話
誰も、動けなかった。
目の前にいる巨大な竜。
深い灰色と古びた金色が混じり合った鱗。幾重にも枝分かれした角。山の斜面を覆い尽くすほどの翼。そして、こちらを見下ろす黄金色の瞳。
その足元では、先ほどまで俺たちを苦しめていたグリーンドラゴンが、地面に押し潰されていた。
あれほどの巨体を誇っていたドラゴンが、まるで小さな獣のように見える。
グリーンドラゴンとの戦いで、俺たちはすでに満身創痍だった。
何人もの騎士が負傷し、魔法使いたちも魔力を消耗している。俺自身、身体のあちこちに痛みがあり、剣を握る腕にも疲労が蓄積していた。
そんな俺たちが、目の前の存在に勝てるはずがない。
そもそも、戦いになるのかどうかすらわからなかった。
あのグリーンドラゴンでさえ、討伐するためには全員の力を結集しなければならなかったのだ。
そのグリーンドラゴンを、たった一撃で踏み潰した存在。
それが、エンシェントドラゴン。
伝承の中でしか聞いたことのない、悠久の時を生きる古代の竜だった。
「……馬鹿な」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「エンシェントドラゴンだと……?そんなものが、本当に存在していたのか」
「文献には記録がある。だが、実際に目撃したという報告は、何百年も前のものばかりだ……」
「逃げろ……」
別の騎士が、小さく口にした。
「勝てるわけがない。こんな相手に……」
その声を聞いても、俺は何も言えなかった。
逃げるべきなのかもしれない。
今なら、まだ何人かは動ける。
エンシェントドラゴンが俺たちに興味を失い見逃してくれるのなら、負傷者を連れて退却できる可能性もあるだろう。
だが、そんな都合のいいことがあるだろうか。
目の前の存在が、俺たちを敵と認識しているのなら。
あるいは、ただ気まぐれに踏み潰すだけのつもりなら。
どちらにしても、俺たちにできることはほとんどない。
それでも、俺は剣を下ろさなかった。
エリスの顔が、脳裏に浮かんだからだ。
ベッドの上で、力なく横たわる彼女。
自分の身体から魔力が失われていくことに怯えながら、それでも俺に心配をかけまいと笑おうとする彼女。
もう一度、本を自分の手で持てるようになりたい。
自分の足で歩けるようになりたい。
その願いを叶えるために、俺はここまで来たのだ。
ここで諦めてしまえば、エリスを救うための道が閉ざされてしまう。
いや。
そもそも、まだ何も終わっていない。
目の前の存在がどれほど強大であろうと、話をすることくらいはできるかもしれない。
先ほど、このドラゴンは確かに人間の言葉を話した。
ならば、こちらの言葉も理解できるはずだ。
俺は震えそうになる足を踏みしめ、一歩前へ出た。
「……あの」
声が、思ったよりも小さくなった。
エンシェントドラゴンの視線が、俺に向けられる。
その瞬間、全身に圧力がかかったような感覚に襲われた。
息が詰まる。
身体が本能的に警告を発していた。
これ以上近づくな。
逆らうな。
目の前の存在は、お前たちとは次元が違う。
それでも、俺は目を逸らさなかった。
「どうしても、ドラゴンハートが必要なのだ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「そのグリーンドラゴンの心臓を、どうか譲ってほしい!」
エンシェントドラゴンは、足元に押さえつけたグリーンドラゴンへ視線を落とした。
そして、何でもないことのように答えた。
「すまんな。先ほどの急降下で潰れてしもうた」
「…………は?」
思考が止まった。
今、何と言った?
潰れた?
ドラゴンハートが?
「い、いや……潰れたというのは……」
「聞こえなかったか?ワシが踏み潰してしもうた。心臓も無事ではあるまい」
あまりにもあっさりとした言葉だった。
まるで、道端のアリを踏んでしまったとでもいうような口調。
俺は、足元から血の気が引いていくのを感じた。
ここまで来た。
危険を承知で王都を出て、何度も魔物と戦い、負傷者を出しながら、ようやくドラゴンのもとへ辿り着いた。
そして、あと少しというところまで来た。
それなのに……手に入るはずだったドラゴンハートは、目の前の存在によって踏み潰されてしまったという。
これでは、何のために……。
いや。
まだだ。
グリーンドラゴンの心臓が駄目になったのなら、別の方法を探せばいい。
エンシェントドラゴンも、同じドラゴンなのだ。
その心臓なら、あるいは――。
「では、次はお前だ」
「…………え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
エンシェントドラゴンは、黄金色の瞳を細めていた。
「ワシの住処で勝手に騒ぎ立ておって。あの小僧を追い払うために戻ってきたというのに、まさか人間まで集まっておるとはな」
小僧。
その言い方に、俺は言葉を失った。
あれほどの巨体を持つグリーンドラゴンが、小僧。
このエンシェントドラゴンにとっては、取るに足らない存在だったのだろう。
「さて、どうしたものか。まとめて追い払うか、それとも――」
「お、お待ちください!」
慌てて声を上げた。
このままでは、本当に殺されてしまう。
せめて、事情を説明する時間だけでも欲しかった。
だが、エンシェントドラゴンは俺の言葉を遮るように、ふと何かに気づいた様子で首を傾げた。
「……ん?」
黄金色の瞳が、俺たちを一人ずつ見ていく。
そして、少し意外そうな声を出した。
「何人か、聖なる光の恩恵を受けているものがいるな。特にお前、とびきりの恩恵を受けておるな」
「聖なる光……?」
俺は思わず聞き返した。
エンシェントドラゴンは俺の疑問には答えず、騎士たちや魔法使いたちをじっくりと見つめていた。
その視線が向けられるたび、身体の奥を見透かされているような感覚がする。
やがて、竜は俺へと視線を戻した。
「ふむ。なるほどな」
何かを納得したように頷く。
「ワシはその辺の魔物ではない。お前たち人間は、こういうとき『対話』というのだろう?」
その言葉に、俺は目を見開いた。
対話。
確かに、そうだ。
俺たちは最初から、この存在を敵と決めつけて戦うしかないと思い込んでいた。
だが、相手は人間の言葉を話す。
そして、こちらの言葉を理解している。
ならば、事情を説明することができるかもしれない。
「事情を話してみろ。ワシなら、なんとかできるかもしれんぞ?」
その言葉に、討伐隊の間にわずかなざわめきが広がった。
なんとかできる。
その一言が、暗闇の中に差し込んだ小さな光のように思えた。
だが、すぐに反論の声が上がった。
「信用できない!」
声を上げたのは、負傷した騎士の一人だった。
片腕を押さえながら、エンシェントドラゴンを睨みつけている。
「人間を助けるドラゴンなど、聞いたことがない! それに、そもそもお前はグリーンドラゴンを踏み潰したんだぞ!」
「ほう?」
エンシェントドラゴンが、面白そうに目を細めた。
「それで、ワシが悪いとでも言いたいのか?」
「そ、それは……!」
「ワシのレアルに勝手に住みつき、何百年も好き放題に振る舞っておったのだ。戻ってきた主が、居候を追い出す。何かおかしいか?」
「レアル……?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉を寄せた。
すると、エンシェントドラゴンは当然のように答えた。
「住処のことだ。お前たち人間は、何と呼ぶのだったか。洞窟か?巣か?まあ、好きに呼ぶがよい」
つまり、ここはこのエンシェントドラゴンの住処だったということか。
それなら、あの洞窟がグリーンドラゴンにしては不自然なほど大きかった理由もわかる。
俺たちは、グリーンドラゴンの生息地だと考えて、この場所へやってきた。
だが、実際には違ったのだ。
グリーンドラゴンは、長い間留守にしていたエンシェントドラゴンの住処を勝手に占拠していたにすぎない。
そして、その本来の主が帰ってきた。
それだけの話だった。
「ワシは、世界中を転々としておったからな。ここへ戻るのも、数百年ぶりだ」
「数百年……?」
魔法技師が、信じられないという顔で呟いた。
「では、その間ずっと……?」
「ずっと、とは?」
「この場所を離れていたのですか?」
「そう言っておるだろう」
エンシェントドラゴンは、少し面倒そうに答えた。
「長く生きておると、同じ場所に留まるのも退屈でな。山を越え、海を渡り、気の向くままに世界を巡っておった。人間の国もいくつか見たぞ。もっとも、お前たちの国の名前は、ほとんど覚えておらんが」
数百年。
世界中を旅してきた。
そんな存在が、目の前にいる。
もはや、伝承に登場する古代の竜というより、歴史そのものを生きてきた存在だった。
「では、なぜ今になって戻ってこられたのですか?」
俺が尋ねると、エンシェントドラゴンは、ふと真面目な顔になった。
「強い聖なる光を感じ取ったからだ」
「聖なる光……?」
「そうだ。遠く離れた場所からでも、はっきりと感じられるほどの力だった。あれほど純粋で強い光は、そうそうあるものではない」
その言葉に、俺の胸がざわついた。
聖なる光。
それは、もしかして……エリスのことなのだろうか。
魔物の群れが王都を襲ったあの日。
エリスは、傷ついた人々を救うために大規模な治癒魔法を使った。
彼女が倒れるまで使い続けた、あの力。
俺たちは、彼女の魔法が普通の治癒魔法とは違うことを知っていた。
だが、それを聖なる光と呼ぶ者がいるとは思わなかった。
「……その光を、あなたは感じ取ったのですか?」
「ああ。あまりにも強い光だったのでな。気になって、久方ぶりに戻ってきたというわけだ」
エンシェントドラゴンは、俺たちを見回した。
「だが、戻ってみれば、何やら騒がしい。おまけに、あの小僧がワシのレアルを占拠しておる。まったく、落ち着いて休むこともできん」
まるで、長旅から帰ってきた人間が、家の中に知らない者が住みついているのを見つけたような口ぶりだった。
そのあまりの気安さに、俺は一瞬だけ状況を忘れそうになった。
だが、すぐに現実へ引き戻される。
俺たちの目的は、エリスを救うことだ。
ここで話が途切れてしまえば、もう二度と機会はないかもしれない。
「お願いがあります!」
俺は深く頭を下げた。
「どうか、俺たちの話を聞いてください!」
エンシェントドラゴンは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、面白そうに口元を歪める。
「よかろう。話してみろ。そしてワシのことは『バクゥ様』と呼べ」
「はっ、バクゥ様」
俺は、エリスのことを話した。
王都を襲った魔物の群れ。
多くの人々を救うために、彼女が大規模な治癒魔法を使ったこと。
その代償として、一年間も目を覚まさなかったこと。
そして、ようやく目を覚ました彼女を待っていたのが、魔力回復不全症という病だったこと。
魔力を体内に留めておく機能が弱まり、何もしなくても魔力が失われ続けている。
このままでは、いずれ彼女の身体を支える魔力が尽きてしまうかもしれないこと。
俺たちは、わずかな可能性に賭けてドラゴンハートを求め、ここまでやってきたこと。
話しているうちに、喉が痛くなった。
何度も言葉に詰まりそうになった。
だが、最後まで伝えなければならなかった。
「……だから、どうしてもドラゴンハートが必要なのです」
俺は、バクゥ様を見上げた。
「彼女を救うために、何か方法はないでしょうか。お願いします。俺にできることなら、何でもします」
バクゥ様は、すぐには答えなかった。
ただ、黄金色の瞳で俺をじっと見つめている。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
やがて、バクゥ様は小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
そして、信じられないことを口にした。
「あの光の魔力が消えかけておることと、何か関係でもあるのか?」
心臓が跳ねた。
身体の奥が、一瞬で冷たくなる。
「もしや、ドラゴンハートを移植しようなどと考えてはいるまいな?」
「っっっっ……」
「それは『馬鹿』のやることだ」
「あなたに何が分かる!!!」
騎士たちが驚いたように俺を振り返る。
魔法技師も、魔法使いたちも、誰もが息を呑んでいた。
目の前にいるのは、グリーンドラゴンを一撃で踏み潰したエンシェントドラゴンだ。
そんな相手に怒鳴るなど、正気の沙汰ではない。
それでも、止められなかった。
「エリスのことを、知ったような口で語るな!」
胸の奥から、怒りと恐怖が込み上げてくる。
「彼女は……彼女は、ただ人を助けようとしただけなんだ!誰かを傷つけるために力を使ったわけじゃない!それなのに、どうしてあんな目に遭わなければならない!」
声が震えた。
エリスが苦しんでいる姿を思い出すたび、胸が締めつけられる。
何もできない自分が嫌だった。
だからこそ、ここまで来た。
どんな危険があっても、ドラゴンハートを持ち帰ると決めた。
その決意を、目の前の存在に簡単に否定されたくなかった。
「彼女を救うためなら、俺は何だってする!たとえ、どれほど危険な方法だとしても……!」
「レオン様!」
魔法技師が、慌てて俺の腕を掴んだ。
「お控えください!相手はエンシェントドラゴンです!」
わかっている。
そんなことは、わかっている。
だが、今は目の前の竜が恐ろしいという気持ちよりも、エリスを失うことへの恐怖のほうが大きかった。
バクゥ様は、しばらく黙っていた。
やがて、呆れたように首を振った。
「まったく。人間というのは、すぐに声を荒らげる」
「……何?」
「お前たちの事情はわかった。だが、一つだけ言っておく」
黄金色の瞳が、鋭く光った。
「やめておけ。人間の身体には、グリーンドラゴンの心臓であろうと耐えられん」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
「ドラゴンハートは、強大な魔力を生み出す器官だ。それを人間の身体へ移植したところで、魔力に耐えられるとは限らん。いや、まず耐えられまい」
エンシェントドラゴンは、淡々と告げた。
「魔力が身体の許容量を超えれば、肉体の内側から破壊される。血管も臓器も、魔力の奔流に耐えられず、最後には身体ごと破裂するのがオチだろう」
「…………」
誰も、何も言えなかった。
魔法技師の顔が青ざめている。
彼らも、危険性については理解していたのだろう。
だが、実際にドラゴンの口から断言されると、その重みはまるで違った。
ドラゴンハートを手に入れれば、エリスを救えるかもしれない。
そう信じて、俺たちはここまで来た。
だが、その方法自体が、彼女の命を奪う可能性があるという。
それでは、何の意味もない。
エリスを救うために、エリスを危険にさらす。
そんなことを、俺は望んでいなかった。
「……では」
かすれた声が、口から漏れた。
「では、どうすればいいのですか」
答えはなかった。
俺自身、わかっていた。
ドラゴンハートは失われた。
それを移植する方法も危険すぎる。
そして、エリスの魔力は今も減り続けている。
ここまで来たのに、ようやく何かを変えられるかもしれないと思ったのに。
結局、何もできないのか。
剣を握る手から、力が抜けそうになった。
背後では、騎士たちがうつむいていた。
負傷した仲間を支えていた兵士も、魔力を使い果たした魔法使いたちも、誰もが沈黙している。
彼らも、エリスを救うためにここまで来てくれた。
それなのに、俺は何一つ持ち帰れない。
エリスのもとへ帰ったとき、何と言えばいいのだろう。
ごめん。
助けられなかった。
そう言うしかないのだろうか。
目の奥が熱くなった。
だが、泣くわけにはいかなかった。
ここで俺が折れてしまえば、本当に終わってしまう。
そう思っても、心は少しずつ沈んでいった。
そのときだった。
「……ふむ」
バクゥ様が、何かを考えるように顎へ手を添えた。
「お前たちの話を聞いて、一つ思いついたことがある」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「ワシなら、なんとかしてやれるかもしれん」
その言葉に、周囲が一斉にざわめいた。
「ほ、本当ですか!?」
思わず声が裏返った。
エンシェントドラゴンは、当然のように頷いた。
「まだ確約はできん。実際にその人間を見てみなければ、何とも言えんからな」
それでも。
その言葉は今の俺たちにとって、何よりも大きな希望だった。
「どうか……どうか、お願いします!」
俺は再び頭を下げた。
「彼女を救うためなら、どんなことでもします!」
「そう急くな。まずは、ワシの話を聞け」
エンシェントドラゴンは、ゆっくりと周囲を見回した。
「ワシにも、その聖なる治癒の力が必要でな」
「あなたにも……?」
「ああ。だから、その人間に死んでもらっては困る」
その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
エンシェントドラゴンほどの存在が、なぜエリスの力を必要としているのか。
そもそも、古代より生きてきたという竜が、人間の治癒魔法に頼らなければならない事情とは何なのか。
疑問は次々と浮かんできた。
だが、今はそれを尋ねるよりも先に、確かめなければならないことがあった。
「本当に……エリスを救える可能性があるのですか?」
「可能性はある、と言ったのだ。絶対に救えるとまでは言っておらん」
バクゥ様は、俺の目を真っ直ぐに見た。
「だが、ドラゴンハートを移植するよりは、よほど現実的な方法を考えられるだろう」
その言葉に、俺は深く息を吐いた。
希望が戻ってきた。
まだ、わずかなものかもしれない。
だが、ゼロではない。
それだけで、もう一度立ち上がる理由には十分だった。
バクゥ様は、俺たちを見下ろしたままゆっくりと口を開いた。
「さて。いつまでも、このような場所で話していても仕方がないな」
すると、巨大な身体が淡い光に包まれた。
俺たちは、何が起きているのかわからず、思わず身構えた。
光が強くなる。
巨大な翼が縮み、長い首が短くなり、山のような胴体が徐々に小さくなっていく。
やがて、光が消えた。
そこに立っていたのは、一人の人間だった。
壮年の男性。
年齢は四十代ほどに見える。長い髪にはわずかに白いものが混じり、整った顔立ちには、長い年月を生きてきた者だけが持つような落ち着きがあった。
身にまとっているのは、簡素な衣服。
だが、その頭には、先ほどの竜を思わせる二本の角が生えていた。
人間の姿になっても、その存在感はまったく薄れていない。
むしろ、近くに立たれたことで、先ほどとは違う種類の圧迫感を覚えた。
この男は、人間ではない。
人間の姿をした、エンシェントドラゴンなのだ。
男は、満足そうに肩を回した。
「ふむ。人の姿になるのも久しぶりだな。やはり、こちらのほうが話はしやすい」
そして、俺たちを見渡すと、どこか楽しげに笑った。
「改めて、ワシの名はバクゥ。悠久の時を生きるエンシェントドラゴンだ」
この存在が、エリスを救うための鍵になるかもしれない。
「レオンと申します。此度は……」
「礼なら、まだ早い。話はこれからだ」
バクゥ様は俺の言葉を遮り、空を見上げた。
「まずは、その人間のもとへ行こう。詳しい話は、本人を診てからだ」
「ここから王都までは、かなりの距離があります。急いだとしても、何日もかかるはずです」
「普通なら、そうだろうな」
バクゥは、何でもないことのように答えた。
「だが、歩いて帰る必要はあるまい」
そう言って、片手を軽く掲げた。
空間が、揺れた。
「……っ!?」
俺は思わず息を呑んだ。
前方に、淡い光の輪が浮かび上がる。
それは、最初は小さな円だった。
だが、次第に大きくなり、空間そのものに亀裂が入ったかのように広がっていく。
輪の内側に、別の景色が映り始めた。
木々。
草地。
そして、見覚えのある森の風景。
「まさか……」
魔法技師が、信じられないものを見るように目を見開いた。
「空間転移……?いや、これは……ゲートの魔法……?」
彼の声は震えていた。
俺も、その言葉を聞いて驚いた。
ゲートの魔法。
遠く離れた場所と場所を、空間そのものを繋ぐ魔法。
古い文献には記録があるものの、現代では実現不可能とされていた魔法だった。
膨大な魔力だけではなく、空間を正確に把握し、二つの地点を安定して繋ぐ技術が必要になる。
王国の魔法研究者たちが長年研究を続けても、実用化には至っていない。
それが、今。
目の前で、当たり前のように展開されていた。
「ゲートの魔法など……夢物語だと思っていました」
魔法技師が、呆然と呟いた。
「人間には難しいだろうな」
バクゥ様は、あっさりと答えた。
「お前たちが何百年もかけて研究していることを、ワシらが同じようにできるとは限らん。そもそも、魔法の使い方も、魔力の扱い方も、人間とは違うのだからな」
そう言って、ゲートの向こう側を指さした。
「お前らの国の王都近くの森に繋げた。ここからなら、そこを経由して王都へ向かうのが早かろう」
「王都近くの森……?」
俺は、ゲートの向こうを凝視した。
確かに、見覚えのある木々の並びだった。
王都の近くにある、普段から騎士団が訓練や巡回に利用している森。
間違いない。
本当に、王都の近くへ繋がっているのだ。
「さあ、行くぞ」
バクゥが、軽く手を振った。
「その人間の状態が悪化する前に、できることを確かめておかねばならん」
俺は、背後を振り返った。
負傷者たちは、互いに肩を貸し合いながら立っている。
全員、疲れ切っていた。
だが、その表情には、先ほどまでの絶望とは違う色が浮かんでいた……希望。
まだ、エリスを救えるかもしれない。
そう思えるだけで、彼らは再び前を向くことができたのだ。
「全員、バクゥ様に続け!負傷者を優先し、無理をさせるな!」
「はっ!」
俺たちは、ゲートへ向かって歩き始めた。
その向こうには、王都がある。
エリスが待つ場所がある。
今度こそ、彼女を救うための道が見つかるかもしれない。
俺は、ゲートをくぐる直前に、もう一度だけバクゥ様を見た。
この竜は、何者なのだろう。
なぜ、エリスの聖なる光を必要としているのだろう。
そして、本当に彼女を救う方法を知っているのだろうか。
疑問は尽きなかった。
それでも、今は信じてみすしかない。
俺たちの前に現れた、この不思議な竜を。
エリスの未来を繋ぐ、最後の希望を。
俺は強く拳を握り締め、光の向こうへと足を踏み出した。
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