第三十五話
谷を越えた先は、空気が変わっていた。
木々はまばらになり、むき出しの岩肌が山の斜面を覆っている。足元には大きな石が転がり、ところどころに深い亀裂が走っていた。
風は冷たい。
それなのに、肌にまとわりつくような圧迫感があった。
魔力だ。
この場所には、普通の魔物とは比較にならないほど濃い魔力が満ちている。
「……間違いないな」
俺は剣の柄に手を添え、前方を見据えた。
先ほど斥候が報告した洞窟は、岩山の中腹にぽっかりと口を開けていた。
入口だけでも、騎士が十人並んで通れそうなほど大きい。
その周囲には、巨大な爪で引っかいたような跡がいくつも残っていた。地面には岩を砕いた痕跡があり、近くの木々は根元からへし折られている。
そして、洞窟の奥から聞こえてきたのは、低く響く唸り声だった。
「全員、止まれ」
俺の指示に、討伐隊が足を止めた。
「魔法部隊、周囲の魔力を探れ。斥候は洞窟の左右を確認。騎士団はいつでも動けるようにしておけ」
「はっ!」
それぞれが素早く動き始める。
魔法使いたちは杖を掲げ、洞窟の周囲に意識を集中させた。
やがて、そのうちの一人が顔色を変えた。
「レオン様……洞窟の中に、強大な魔力反熱応があります」
「ドラゴンか?」
「おそらく。ただ……」
「ただ?」
「魔力の波が安定していません。何かに怒っているような……そんな印象を受けます」
怒っている。
ドラゴンが何に怒っているのかはわからない。
だが、こちらに気づかれている可能性は高かった。
「全員、警戒を怠るな。相手はドラゴンだ。普段の魔物と同じ感覚で戦うなよ」
念を押すと、騎士たちが真剣な表情で頷いた。
俺たちの目的は、ドラゴンハートを持ち帰ること。
だが、相手を侮れば、その目的を果たすどころか、全員が命を落としかねない。
父上の言葉が脳裏をよぎった。
命を懸けることと、命を捨てることは違う。
必ず帰る。
エリスのもとへ。
俺はその決意を胸に、洞窟の入口へ向かって歩き出した。
最初に姿を現したのは、緑色巨大な影だった。
洞窟の奥で何かが動く。
岩が擦れるような音が響き、地面がかすかに揺れた。
そして――。
ギャアアアアアッ!
耳をつんざく咆哮とともに、巨大な竜が洞窟から這い出してきた。
「っ……!」
思わず息を呑んだ。
全身を覆うのは、深い森を思わせる緑色の鱗。
四本の脚は太く、鋭い爪が岩を容易に砕いている。背中には巨大な翼が畳まれ、長い尾が地面を叩くたびに砂埃が舞い上がった。
その頭部には、後方へ伸びる二本の角。
黄金色の瞳が、俺たちを睨みつけていた。
間違いない。
ドラゴンだ。
それも、古い文献に記されていたグリーンドラゴンの特徴と一致している。
「対象を確認!グリーンドラゴンです!」
魔法技師が声を張り上げた。
その声に反応したのか、グリーンドラゴさんンは大きく首をもたげた。
喉の奥で、何かがうごめく。
「来るぞ!全員、構えろ!」
俺が叫んだ直後、ドラゴンの口から緑色の光が漏れた。
次の瞬間。
轟音とともに、巨大な風の塊が吐き出された。
「防御陣を張れ!」
後衛の魔法使いたちが一斉に杖を掲げる。
半透明の防御壁が展開された直後、猛烈な風圧が討伐隊を襲った。
ガガガガガッ!
防御壁が激しく揺れる。
騎士たちが地面に剣を突き立て、必死に身体を支えた。後方では、風に煽られた兵士が何人か転倒している。
「くっ……なんて威力だ!」
風が収まったとき、地面には岩の破片が散乱していた。
防御陣がなければ、隊列ごと吹き飛ばされていたかもしれない。
だが、グリーンドラゴンは攻撃の手を緩めなかった。
巨大な翼を広げ、地面を蹴る。
「散開しろ!」
ドラゴンの巨体が、俺たちの頭上を飛び越えた。
そのまま旋回し、後衛の魔法使いたちへ向かって急降下してくる。
「させるか!」
俺は剣を抜き、ドラゴンの進路へと駆け出した。
狙うのは、着地の瞬間。
巨体を支える脚に一撃を加え、動きを鈍らせる。
ドラゴンが地面へ降り立つ。
その瞬間、俺は全力で踏み込んだ。
「はああああっ!」
剣が緑色の鱗にぶつかる。
甲高い音が響いた。
火花が散り、腕に強烈な衝撃が返ってくる。
「硬い……!」
浅い。
鱗を完全に断ち切るどころか、わずかな傷をつけるのが精いっぱいだった。
それでも、ドラゴンは不快そうに脚を振り上げた。
俺はすぐさま後方へ跳ぶ。
直後、巨大な爪が地面を抉った。
あと一瞬遅れていれば、身体ごと引き裂かれていた。
「レオン様!」
「問題ない!攻撃を続けろ!」
前衛の騎士たちが左右から迫る。
盾を構えた者がドラゴンの注意を引き、槍を持つ者が脚や翼の付け根を狙う。
後衛の魔法使いたちも、火炎や雷撃を次々と放った。
炎が鱗を舐め、雷が巨体を打つ。
しかし、グリーンドラゴンは怯まなかった。
むしろ、攻撃を受けるほどに激しく暴れ始めた。
尾が薙ぎ払われ、岩が砕け散る。
「うわああっ!」
騎士の一人が直撃を受け、数メートル先まで吹き飛ばされた。
「負傷者が出た!後退させろ!」
「治癒班、こちらへ!」
後衛から治癒魔法が飛ぶ。
だが、負傷者を助けている間にも、ドラゴンの攻撃は続いていた。
俺は奥歯を噛み締めた。
強い……事前の記録で想像していた以上だ。
それでも、勝機がないわけではなかった。
ドラゴンの動きには、わずかな癖がある。
大きく翼を広げて攻撃する直前、左側へ重心が傾く。
そして、魔法を放つ際には、必ず首を持ち上げる。
その一瞬だけ、脚の動きが鈍る。
「左側へ回り込め!翼を狙え!魔法部隊は首を上げた瞬間に集中攻撃だ!」
俺の指示に、騎士たちが動いた。
左右から攻め立て、ドラゴンの注意を分散させる。
魔法使いたちは魔力を温存しながら、確実に攻撃を重ねていった。
何度も弾き飛ばされ、何度も立ち上がる。
負傷者は少しずつ増えていった。
腕を骨折した騎士。
額から血を流す兵士。
魔力を使い果たし、膝をつく魔法使い。
それでも、誰も戦線を放棄しなかった。
彼らも理解しているのだ。
この戦いの先に、救いたい人がいることを。
俺にとっては、エリスだ。
彼女の魔力は、今この瞬間にも減り続けている。
時間をかければかけるほど、助けられる可能性が失われていく。
だからこそ、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「もう一度だ!全員、攻撃を集中させろ!」
俺は剣を握り直した。
ドラゴンが咆哮する。
その巨体が前方へ踏み出した瞬間、騎士たちが左右から一斉に仕掛けた。
盾が爪を受け止め、槍が脚へ突き立つ。
同時に、後衛の魔法使いたちが最大出力の魔法を放った。
炎と雷が交差し、グリーンドラゴンの翼を直撃する。
ギャアアアアアッ!
悲鳴のような咆哮が山肌に響いた。
ドラゴンの片翼が大きく傾き、巨体がよろめいた。
「今だ!」
俺は駆け出した。
ドラゴンの脚を踏み台にして身体を跳ね上げ、露出した翼の付け根へ剣を叩き込む。
ガキンッ!
硬い鱗を砕く感触。
剣先が深く食い込んだ。
ドラゴンが激しく身をよじる。
その動きに振り落とされそうになりながらも、俺は剣を引き抜き、地面へ飛び降りた。
着地の衝撃が足に響く。
だが、すぐに顔を上げた。
グリーンドラゴンは、明らかに動きが鈍っていた。
翼の付け根から緑色の血が流れ、片脚を引きずっている。
魔法攻撃による傷も、少しずつ増えていた。
騎士たちの表情に、わずかな希望が浮かぶ。
「効いているぞ!」
「あと少しだ!」
その声を聞き、俺も剣を構え直した。
ここまで来た。
何人も傷ついた。
それでも、ようやくここまで追い詰めたのだ。
グリーンドラゴンは荒い息を吐きながら、俺たちを睨みつけていた。
その身体は傷だらけで、翼も十分には動かせない。
あと一撃。
いや、あと少しの攻撃を重ねれば、倒せるかもしれない。
そう考えた瞬間だった。
グリーンドラゴンが突然、空を見上げた。
黄金色の瞳が大きく見開かれる。
その表情に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。
「……何だ?」
俺もつられて空を見上げた。
雲の向こう。
山の頂上付近に、巨大な影があった。
最初は、雲が山にかかっているのかと思った。
だが、違う。
影は動いていた。
翼を広げ、空を滑るようにこちらへ向かってくる。
その大きさが、近づくにつれて明らかになっていく。
グリーンドラゴンよりも、はるかに大きい。
翼の幅は、山の斜面を覆い尽くすほど。
その身体から放たれる魔力は、今まで感じたことのないほど強大だった。
「な……」
誰かが声を漏らした。
次の瞬間。
巨大な影が、空から急降下してきた。
風が吹き荒れる。
地面の砂や小石が一斉に舞い上がった。
俺は腕で顔を覆い、必死に踏みとどまる。
そして――。
「ドーーーーン!!!」
山全体が揺れたかと思うほどの轟音が響いた。
目の前で、巨大な何かがグリーンドラゴンを踏み潰していた。
「ギャッ……!」
短い悲鳴。
グリーンドラゴンの巨体が地面に押しつけられ、岩が砕け散った。
あれほど苦戦した相手が、まるで小さな獲物のように押さえ込まれている。
俺たちは、誰一人として動けなかった。
やがて、土煙の中から、その姿がゆっくりと現れた。
全身を覆うのは、深い灰色と古びた金色が混じった鱗。
頭部には、幾重にも枝分かれした巨大な角。
長い首と、山のような胴体。
背中には、空を覆い隠すほどの翼が広がっていた。
その存在感だけで、周囲の空気が押し潰されそうになる。
ドラゴン。
いや、ただのドラゴンではない。
古い文献にわずかに記されていた、伝説級の存在。
エンシェントドラゴン。
その巨大な竜は、足元で潰れているグリーンドラゴンを見下ろし、心底不愉快そうに鼻を鳴らした。
「ワシのレアルに住みつきおって」
低く、威厳のある声が響いた。
俺は目を見開いた。
今、確かに聞こえた。
このドラゴンが、人間の言葉を話したのだ。
「ど、ドラゴンが喋った!?」
誰かが叫んだ。
その声に反応したのか、エンシェントドラゴンの巨大な頭が、ゆっくりとこちらを向いた。
黄金色の瞳が、討伐隊を見下ろす。
俺は剣を握りしめたまま、息を呑んだ。
グリーンドラゴンを追い詰めたと思った、その直後。
俺たちの前に現れたのは、想像を絶する存在だった。
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