第三十四話
王都を出発する朝は、思っていたよりも静かだった。
空は薄い雲に覆われ、朝日もまだ弱々しい。
公爵家の騎士団が集まる訓練場には、すでに討伐に必要な装備や物資が運び込まれていた。
鎧を身につけた騎士たち。
武器の点検を行う兵士たち。
魔法使いたちが確認している、魔力を補助するための魔道具。
誰もが、これから向かう場所に潜む危険を理解していた。
今回の目的は、通常の魔物の討伐ではない。
ドラゴン。
人間の常識では測れないほどの魔力を持ち、並の騎士では太刀打ちできないとされる存在だ。
その心臓を持ち帰る。
ただそれだけの任務であっても、決して容易ではない。
「レオン様、準備が整いました」
騎士の一人が、俺の前で敬礼した。
「わかった。ありがとう」
返事をしながら、俺は腰に佩いた剣へ手を伸ばした。
剣の重みを確かめる。
いつもと変わらない。
けれど今日ばかりは、その重みが妙に心強く感じられた。
これから先、何が起こるのかはわからない。
ドラゴンの強さも、実際に戦った者たちの記録から想像するしかない。
討伐に成功する保証もなければ、全員が無事に帰れるという保証もない。
それでも、行くしかなかった。
エリスの魔力は、今も減り続けている。
昨日までできていたことが、今日はできなくなる。
身体を起こすことさえ難しくなり、呼吸をするだけでも疲れてしまう。
彼女がどれほど不安なのか、想像することしかできない。
あの病室で、彼女はいつも笑おうとしていた。
大丈夫だと。
少し疲れているだけだと。
皆に心配をかけないように。
けれど、彼女の手を握るたびに、思い知らされる。
あまりにも細い指。
握り返してくれる力の弱さ。
触れるたびに感じる、冷たい手のひら。
このまま何もできずにいたら、いつか本当に、彼女の手を握ることさえできなくなるかもしれない。
「……そんな未来は、絶対に認めない」
思わず口にしていた。
「レオン様?」
「いや、何でもない。出発しよう」
俺は顔を上げた。
必ずドラゴンハートを持ち帰る。
そのためなら、どんな危険にも立ち向かうつもりだった。
王都の門を出る前に、一度だけ振り返った。
石造りの街並み。
朝の支度を始める人々。
通りを行き交う馬車。
いつもと変わらない、平穏な王都だった。
この街を守るために、エリスはすべてを懸けた。
魔物の群れが押し寄せたあの日、彼女は傷ついた人々を救うために治癒魔法を使い続けた。
自分の身に何が起きるのかも知らず、目の前にいる人々を助けようとしたのだ。
そして、彼女自身が倒れた。
一年間、目を覚まさなかった。
ようやく目を覚ましたと思ったら、今度は魔力が失われていく病に苦しんでいる。
どうして、彼女ばかりがこんな目に遭わなければならないのだろう。
考えるたびに、胸の奥が苦しくなる。
けれど、今は嘆いている場合ではなかった。
エリスが守ったこの街で、彼女を救うための道が見つかった。
ならば、次は俺が動く番だ。
「レオン」
背後から、父上の声がした。
振り返ると、公爵家の当主である父上が、数名の騎士を従えて立っていた。
「出発前に、少し話をしておきたい」
「はい」
私は姿勢を正した。
父上は、しばらく私の顔を見つめていた。
「今回の任務は、お前が考えている以上に危険だ」
「承知しています」
「ドラゴンの討伐経験がある者は限られている。過去の記録も、すべてが正確とは限らん。準備を整えたからといって、必ず勝てるわけではない」
「はい」
「それでも、お前は行くのだな」
「もちろんです」
迷いはなかった。
父上は小さく息を吐いた。
「……そう答えると思っていた」
そして、私の肩に手を置いた。
「エリス嬢を救いたいという気持ちはわかる。だが、忘れるな。お前自身にも、帰りを待っている者がいる」
「……はい」
「お前が死ねば、エリス嬢は悲しむだろう。命を懸けることと、命を捨てることは違う。そこを履き違えるな」
父上の言葉を胸に刻んだ。
ドラゴンハートを手に入れることだけに気を取られ、無謀な行動を取るつもりはない。
エリスを救うために向かうのだから、自分が命を落としては意味がないのだ。
「必ず帰ります」
はっきりと答えた。
「ドラゴンハートを持ち帰り、エリスのもとへ戻ります」
父上は、ようやく満足そうに頷いた。
「よし。では、行ってこい」
「はい」
再び王都を振り返った。
あの街のどこかに、エリスがいる。
今もベッドの上で、身体の不調と戦っているはずだ。
彼女は、俺が今日も見舞いに来ると思っているかもしれない。
伝えると止められるのが分かっていたからだ。
そのことを考えると、胸が痛んだ。
けれど、今は会いに行けない。
彼女のもとを離れることが、彼女を救うために必要なのだから。
前を向いた。
「全員、出発!」
号令とともに、討伐隊が動き始めた。
ドラゴンの生息地は、王都から遠く離れた北方の山岳地帯にある。
人が暮らすには厳しい環境であり、山道は険しく、魔物の出現も多い。
過去には、調査に向かった冒険者たちが戻らなかったという記録も残されている。
討伐隊は、騎士団を中心に編成されていた。
その中には、魔法による支援を担当する魔法使いたちもいる。
さらに、ドラゴンハートの加工に必要な知識を持つ魔法技師も同行していた。
心臓を手に入れたとしても、そのままエリスに与えればいいわけではない。
強大な魔力を持つドラゴンの心臓を、人間の身体に適合させるための処置が必要なのだ。
討伐だけでなく、その後の処置まで考えなければならない。
失敗は許されなかった。
「レオン様、少しよろしいでしょうか」
馬を進めていると、同行している魔法技師が声をかけてきた。
「どうした?」
「今回のドラゴンハートについて、改めて確認しておきたいことがあります」
彼は馬を並べ、声を落とした。
「文献に記されている方法は、あくまでも古い記録に基づくものです。現代の医療で確立された治療法ではありません」
「……わかっている。そのためのお前たちだ」
「ドラゴンハートを加工し、魔力を調整できたとしても、エリス様の身体が受け入れられるかどうかは、実際に処置を行うまでわかりません」
「ああ、分かっている。お前たちは最善を尽くせ」
唇を引き結んだ。
それは、エリスの両親からも聞いていたことだった。
ドラゴンハートは、病そのものを治すものではない。
魔力を体内に留めておく機能が弱まっているのなら、そこを元に戻す必要がある。
だが、現時点では、その方法が見つかっていない。
だからこそ、ドラゴンハートの力を利用する。
失われていく魔力を上回る量の魔力を生み出すことができれば、彼女の身体に残る魔力が尽きるのを遅らせられるかもしれない。
それは治療というより、延命措置に近いのかもしれない。
それでも、今の俺たちには必要な可能性だった。
「……それでも、諦めることはできない」
魔法技師を見つめた。
「確実ではないからといって何もしなければ、エリスの魔力は減り続ける。なら可能性がある限り、試すしかないだろう」
「お気持ちは理解しています。ただ、処置を行う際には、エリス様ご本人にも十分な説明をする必要があります」
「ああ、もちろんだ。本人の意思を無視して進めるつもりはない」
エリスが目を覚ましたとき、彼女はどんな顔をするだろう。
きっと、自分のために危険なことをしないでほしかったと言う。
傷ついて帰ってきたら、きっと悲しむ。
だからこそ、無事に帰らなければならない。
彼女の身体を救うだけではない。
彼女と一緒に生きていく未来を、取り戻すために。
「レオン様」
魔法技師が、真剣な顔で言った。
「必ず、ドラゴンハートを持ち帰りましょう。私も、できる限りのことをします」
「……ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
この任務は俺一人の戦いではない。
エリスを救いたいと願う人々が、それぞれの力を持ち寄っている。
彼女の両親も。
公爵家も。
同行する騎士たちも。
そして、俺も。
皆、直接的や間接的に彼女に恩がある人間ばかりだった。
誰一人として、彼女を諦めてはいなかった。
その夜、討伐隊は山の麓にある砦で休息を取ることになった。
王都を出てから、すでに長い時間が経過している。
騎士たちは交代で見張りにつき、魔法使いたちは周辺の魔力を調べていた。
食事を終えると、砦の外へ出た。
冷たい風が頬を撫でる。
空を見上げると、星がいくつも輝いていた。
王都から見える星と、何も変わらない。
それなのに、今はひどく遠く感じられた。
「……エリス」
小さく名前を呼んだ。
返事があるはずもない。
彼女は今、何をしているだろう。
もう眠っているだろうか。
それとも、魔力が減っていく恐怖に耐えながら、眠れずにいるのだろうか。
彼女も同じ空を見ているかもしれない。
最後に会ったときの姿が、脳裏に浮かんだ。
ベッドの上で、彼女は俺の持ってきた本を膝に置いていた。
以前なら、自分で持って読めたはずの本だ。
今は、それさえ難しくなっている。
それでも彼女は、俺の話を聞きながら笑ってくれた。
無理をしているのだと、わかっていた。
空元気であることを悟られないように、俺に心配をかけないように、少しでも普段どおりに過ごせるように。
彼女は、いつだってそうだった。
自分が苦しいときでさえ、誰かのことを考えてしまう。
だからこそ、僕は彼女のために何かをしたかった。
ただそばにいるだけではなく、彼女が生きていくための道を切り開きたかった。
「……待っていてくれ」
胸元を握りしめた。
「必ず、君のところへ帰るから」
その言葉は、夜の風に溶けていった。
けれど、決意だけは揺らがなかった。
翌朝。
討伐隊は、山岳地帯へと足を踏み入れた。
木々が密集する森を抜け、岩だらけの斜面を登っていく。
道は次第に険しくなり、馬を進めることも難しくなった。
途中、何度か魔物の襲撃を受けた。
いずれもドラゴンほどの脅威ではなかったが、討伐隊の進行を妨げるには十分だった。
騎士たちが前衛を務め、魔法使いたちが後方から援護する。
私は剣を振るいながら、周囲の状況を確認していた。
無駄な消耗は避けなければならない。
ドラゴンとの戦いに備え、できる限りの力を温存する必要があった。
「右手の岩場に魔物です!」
「隊列を崩すな!前衛は押さえろ!」
指示を飛ばし、迫ってきた魔物を斬り伏せる。
戦闘は長く続かなかった。
やがて周囲が静かになると、騎士たちが負傷者の有無を確認し始めた。
「負傷者は二名。いずれも軽傷です」
「治療を優先してくれ。出発はそのあとだ」
報告を聞き、頷いた。
今はまだ、誰も大きな傷を負っていない。
だが、この先はどうなるかわからない。
ドラゴンとの戦いでは、一瞬の判断が命取りになる。
それでも、進むしかなかった。
エリスの症状は、待ってはくれないのだから。
昼を過ぎたころ、先頭を進んでいた斥候が戻ってきた。
「レオン様、ご報告があります」
「どうした?」
「この先の谷を越えた場所に、大きな洞窟を確認しました。周囲には、通常の魔物とは異なる痕跡があります」
「ドラゴンのものか?」
「断定はできません。ただ、地面に残された爪痕の大きさから考えて、可能性は高いかと」
私は、地図を広げた。
目的地に近づいている。
ここから先は、慎重に進まなければならない。
「全員に伝えてくれ。これより先は、警戒を一段階引き上げる。単独行動は禁止だ。周囲の変化を見逃すな」
「はっ!」
斥候が走り去る。
谷の向こうに目を向けた。
山の影に隠れて、洞窟の入口はまだ見えない。
けれど、そこにいるのだろう。
俺たちが探し求めてきたドラゴンが。
そして、その心臓こそが、エリスの未来をつなぐかもしれない。
剣の柄を握りしめた。
怖くないと言えば、嘘になる。
自分が命を落とす可能性も、仲間を失う可能性もある。
それでも、ここまで来た。
もう、後戻りはしない。
「……行こう」
私は、討伐隊に向かって告げた。
「必ずドラゴンハートを手に入れる。全員、生きて帰るぞ」
騎士たちが力強く応じた。
私たちは、谷の向こうへと歩き始めた。
その先に待つのは、これまでに経験したことのない戦い。
けれど、心にある願いはただ一つだった。
エリス。
君がもう一度、自分の手で本を持てるように。
君がもう一度、自分の足で歩けるように。
そして、いつか二人で、何の心配もなく過ごせるように。
俺は必ず、君のもとへ帰る。
その約束を胸に、私はドラゴンの待つ山へと進んでいった。
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