第三十三話
エリスが再び目を覚ましたと聞いたとき、私たち夫婦は、すぐにでも娘のもとへ駆けつけたいと思った。
けれど、そうすることはできなかった。
「……あなた」
妻が、震える声で私を呼んだ。
机の上には、王都から届いた報告書が置かれている。
そこに記されていたのは、娘の病名だった。
魔力回復不全症。
大規模な治癒魔法を使ったことが原因なのか、それとも別の要因があるのか。医師たちにも、まだわからないことが多いらしい。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
娘の魔力は、正常には回復しない。
それどころか、体内に蓄えられた魔力そのものが減少していく可能性があるという。
「……あの子は、どうなるの?」
妻の問いに、私は答えられなかった。
大丈夫だと。
きっと治ると。
そう言ってやりたかった。
けれど、根拠のない言葉で妻を慰めることはできなかった。
私たちは、エリスが一年もの間、眠り続けていたことを知っている。
娘がどれほどの魔力を使い、どれほど多くの人々を救ったのかも。
王都を襲った魔物の群れ。
混乱する街。
傷ついた人々。
そのすべてを前に、エリスは自分にできることをしたのだろう。
あの子らしいと思った。
そして、誇らしくもあった。
だが、親としては、それだけでは済まされない。
人々を救った娘が、その代償として命を失うかもしれない。
そんなことを、受け入れられるはずがなかった。
「……治療法を探そう」
私は、妻の手を握った。
「必ず、何か方法があるはずだ」
それは、確信があったわけではない。
そう信じなければ、立っていることさえできなかったのだ。
妻は何度も頷いた。
そして、私たちは決めた。
エリスのもとへ行くのは、治療法を見つけてからにしよう、と。
もちろん、娘の顔を見たい。
声を聞きたい。
目を覚ましたばかりのあの子を、抱きしめてやりたい。
けれど、何もできないまま病室のそばにいることが、本当に娘のためになるのだろうか。
私たちにできることがあるのなら、今はそれをするべきだった。
それが、親としての私たちの選択だった。
それから、私たちは各地を巡った。
王都の医師だけではない。
魔法医学に詳しい研究者。
古い魔法の記録を保管している神殿。
魔力に関する研究を続けている魔法使いたち。
過去に、通常の治療では回復しなかった病を扱ったことのある医師。
わずかな可能性でもあるのなら、話を聞きに行った。
古い文献を読み、伝承を調べ、専門家たちに意見を求めた。
何度も、期待を裏切られた。
魔力の回復を促す薬。
魔力を補う魔道具。
魔力の流れを整える治療法。
いくつもの方法を調べたが、どれもエリスの症状を根本から解決するものではなかった。
魔力を補充しても、それが体内に留まらないのであれば意味がない。
回復を促しても、失われる量がそれを上回れば、いずれ限界が来る。
時間だけが過ぎていく。
王都から届く報告を読むたび、胸が締めつけられた。
少し食事ができるようになった。
今日は身体を起こせた。
だが、その翌日には、再び身体が重くなった。
魔力の数値が下がった。
体温にも変化が見られた。
そうした報告を受け取るたび、妻は何度も娘の名前を口にした。
「会いに行きたいわ……」
夜、宿泊先の部屋で、妻が呟いた。
私は何も言えなかった。
妻がどれほど我慢しているのか、よくわかっていたからだ。
私だって、同じだった。
今すぐにでも王都へ戻りたい。
娘の手を握り、もう無理をしなくていいのだと伝えたい。
けれど、私たちが探しているものを見つけられなければ、何も変わらない。
「もう少しだけ、頑張ろう」
私は、妻の肩を抱いた。
「エリスに会いに行くときは、あの子に希望を持たせてやりたい」
「……ええ」
妻は、私の胸に顔を埋めた。
「今度こそ、あの子を助ける方法を見つけましょう」
その言葉を、私たちは何度も繰り返した。
諦めるわけにはいかなかった。
たった一人の娘なのだから。
転機が訪れたのは、古い魔法文献を調べるために訪れた地方の研究施設でのことだった。
そこで私たちは、一人の老研究者と出会った。
長年、魔力の性質と魔物の生態を研究している人物だった。
彼は、私たちが持参したエリスの診断記録を読み、何度も首を傾げた。
「魔力が回復しないだけでなく、体内から流出している……か」
「何か、心当たりがあるのでしょうか?」
私が尋ねると、老研究者は机の引き出しから、一冊の古い書物を取り出した。
「治療法とは言えん。だが、似たような症例について、記述が残されている」
私と妻は、思わず顔を見合わせた。
「本当ですか?」
「ただし、記録そのものが古い。記述が正確である保証もない。それでもよければ、読んでみるといい」
私は、差し出された書物を受け取った。
何度も修復されたらしい古い本だった。
紙は変色し、文字も一部がかすれている。
それでも、該当する箇所には、確かにこう記されていた。
――魔力を体内に保持できなくなった者に対し、強大な魔力を生み出す器官を持つ魔物の核を用いた例がある。
私は、息を呑んだ。
「魔物の核……?」
「すべての魔物に、そのような力があるわけではない。だが、ごく一部の上位種は、通常の生物とは比較にならないほどの魔力を生み出す器官を持っている」
老研究者は、書物の別のページを開いた。
「その中でも、特別な存在として知られているのがドラゴンだ」
ドラゴン。
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋を伸ばした。
伝承において、ドラゴンは最上位の魔物として扱われている。
圧倒的な身体能力。
強大な魔力。
人間の魔法使いでは到底及ばないほどの力を持つ存在。
その心臓は、単なる臓器ではない。
強大な魔力を生み出し、全身へ巡らせるための核でもあるという。
「ドラゴンの心臓……それを使えば、娘を救えるのですか?」
私の問いに、老研究者はすぐには頷かなかった。
「救える、と断言することはできない」
その言葉に、妻の手が私の腕を強く握った。
「ただ、文献に記された方法が正しいのなら、ドラゴンの心臓から抽出した魔力の核を体内に取り込ませることで、失われる魔力を補うことができる可能性がある」
「補う……?」
「ドラゴンの心臓は、膨大な魔力を生み出し続ける。もし、その力を人間の身体に適合させられれば、体内から流れ出す魔力を上回る量を生み出せるかもしれん」
私は、書物を握りしめた。
治療法ではない。
魔力を保持する機能そのものを回復させるわけではないのだ。
それでも失われる量よりも、生み出される量を増やすことができれば。
娘の身体に残された魔力が、すぐに尽きることを防げるかもしれない。
「……成功する可能性は?」
「わからん。人間がドラゴンの魔力に耐えられるかどうかも、実際に試さなければ判断できない。適合しなければ、かえって身体を傷つけるおそれもある」
妻が、息を呑んだ。
危険なのだ。
当然だろう。
人間とはまったく異なる存在の心臓を、その身体に取り込ませるのだから。さ
だが、ほかに手段は見つかっていない。
「それでも……」
妻が、震える声で言った。
「それでも、可能性があるのなら」
老研究者は、静かに頷いた。
「ただし、必要なのはドラゴンの素材なら何でもいいというわけではない。心臓に蓄えられた魔力が十分に強く、なおかつ、それを安全に加工できる者も必要だ」
「その者に、心当たりはありますか?」
「王都にいる魔法医師の中に、古代魔法の研究をしている者がいたはずだ。彼なら、この文献についても知っているかもしれん」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ようやく見つけた、可能性だった。
まだ確実ではない。
成功する保証もない。
それでも、何もない場所を歩き続けるよりは、ずっと先へ進める。
私たちはすぐに王都へ向かう準備を始めた。
王都へ戻った私たちは、まず文献に記された魔法医師を訪ねた。
彼はドラゴンハートについての記録を知っていた。
そして、老研究者の話を聞くと、難しい顔をしながらも、いくつかの資料を机に広げた。
「可能ではあります。あくまでも理論上ですが……」
その言葉を聞いて、妻が身を乗り出した。
「では、エリスを助けられるのですか?」
「いえ、まだそこまでは言えません。ドラゴンハートの魔力を、人間の身体に適合させる必要があります。心臓を手に入れただけでは、何も解決しないでしょう」
「適合させるには、何が必要なのですか?」
「古代の加工術と、本人の状態に合わせた魔力の調整です。それに、取り込ませる際には、非常に慎重な処置が必要になります」
難しい話だった。
けれど、必要なものは少しずつ明らかになってきた。
ドラゴンハート。
それを加工できる魔法医師。
そして、エリスの身体に合わせて魔力を調整する技術。
すべてが揃わなければならない。
だが、何をすればいいのかさえわからなかった今までとは違う。
私は、妻と顔を見合わせた。
「……やりましょう」
妻が言った。
「どれだけ時間がかかっても、あの子を助けるために」
「ええ。できることは、すべてやります」
私は、そう答えた。
そして、すぐに公爵家へ連絡を入れることにした。
ドラゴンハートを手に入れるためには、私たちだけの力では足りない。
討伐のための戦力も、物資も、情報も必要になる。
何より、王都を守るために力を尽くした娘の命がかかっているのだ。
協力を求めることに、ためらいはなかった。
公爵家から返事が届いたのは、翌日のことだった。
指定された場所へ向かうと、公爵本人と数名の重臣が待っていた。
私は、これまでに調べたことをすべて説明した。
エリスの病状。
各地を巡って見つけた文献。
ドラゴンハートによる延命の可能性。
そして、討伐と加工に必要な条件。
話を聞き終えた公爵は、深く息を吐いた。
「……この短期間で大したものだ」
「当然です。私たちにとって、エリスは何よりも大切な娘ですから」
公爵は頷いた。
「わかった。必要な支援は、こちらで手配しよう」
あまりにも早い返答だった。
私は、思わず顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「もちろんだ。あの子は、王都を守るために命を懸けた。多くの人々が救われたのは、エリスの働きがあったからこそだ」
公爵は、厳しい表情のまま続けた。
「その娘が今、助けを必要としている。ならば、今度は我々が力を尽くす番だろう」
その言葉に、胸が熱くなった。
公爵家が協力してくれるのなら、討伐の準備も進めやすくなる。
そして、もう一つ。
公爵は、私の隣に座る妻へ視線を向けたあと、静かに口を開いた。
「それと、レオンのことだが」
私は、その名に反応した。
「……彼が、何か?」
「エリスが目を覚ましてから、ずっとそばにいるそうだ」
「はい。私たちも、報告を受けています」
「王都防衛の際にも、よく働いてくれた。エリスを支え、彼女が倒れたあとも、長い間、目を覚ますのを待ち続けたと聞いている」
公爵は、少しだけ表情を和らげた。
「これまで、二人の関係については慎重に見ていた。だが、今回の一件で考えが決まった」
私は、静かに続きを待った。
「二人が誰と生きていきたいのか。その気持ちを尊重したいと思っている」
公爵は、重臣たちへ視線を向けた。
「今回の功績もあり、二人の結婚については、傘下の貴族たちも認める方向でまとまった。反対する者がいないわけではないが、今後、二人の婚姻を妨げるつもりはない」
私は、思わず息を吐いた。
娘の将来を考えるうえで、これほど心強い言葉はなかった。
エリスが、レオン君と一緒にいたいと願うのなら、その願いを叶えられるよう私たちも支えてやりたい。
「ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
「エリスも、喜ぶと思います」
「……ああ。だが、その話を本人に伝えるのは、もう少し先にしよう」
公爵の表情が、再び引き締まった。
「今は、何よりも命を救うことが先だ」
そのとおりだった。
結婚の許しを得たところで、娘の病気が治るわけではない。
まずは、ドラゴンハートを手に入れなければならない。
そして、その可能性を、現実のものにするのだ。
その日の夜。
俺は、公爵家からの呼び出しを受けた。
案内された部屋には、父上である公爵と重臣たち、そしてエリスの両親が待っていた。
「待っていたぞ」
父上の言葉に、俺は首を横に振った。
「いえ。エリスに何かあったのですか?」
その問いに、エリスの父親が静かに答えた。
「君にも、知っておいてほしいことがある」
彼は、これまでの経緯を説明した。
エリスの両親が治療法を探して各地を巡っていたこと。
そこで、ドラゴンハートによる延命の可能性を見つけたこと。
そして、公爵家の協力を得て、ドラゴンの討伐に向かう準備が整いつつあること。
俺は、最後まで黙って話を聞いていた。
「……ドラゴンハート」
ようやく、彼は呟いた。
「それを手に入れれば、エリスは助かるんですか?」
「確実とは言えない」
エリスの父親は、正直に答えた。
「だが、今のところ見つかった中では、最も可能性のある方法だ。魔力を保持する機能そのものを治すわけではないが、生み出される魔力を増やすことで、失われる魔力を補える……かもしれない」
「それでも、やる価値はあると思います」
俺は、迷わず答えた。
「エリスが助かる可能性があるなら、僕は何でもしたい」
その声には、強い決意が込められていた。
父上は、彼をまっすぐに見つめた。
「レオン。ドラゴンの討伐は、決して簡単な任務ではない。通常の魔物討伐とはわけが違う。十分な準備を整えたとしても、命の保証はできない」
「わかっています」
「それでも、行くつもりか?」
「はい」
返事に迷いはなかった。
膝の上で拳を握りしめた。
エリスが倒れたときのことを、今でも忘れられない。
自分の腕の中で、彼女の顔から血の気が失われていった。
名前を呼んでも、返事がなかった。
一年間、眠り続けていた彼女が、ようやく目を覚ました。
もう二度と、あんな思いはしたくなかった。
けれど、今のエリスは、また弱っている。
昨日できたことが、今日にはできなくなっている。
彼女は、笑っていた。
自分がどれほど苦しくても、こちらを心配させないように。
そんな彼女を、ただ見守っていることしかできない。
それが、レオンには耐えられなかった。
「僕が、ドラゴンハートを持ち帰ります」
彼は、はっきりと言った。
「エリスがまた自分の足で歩けるように。好きな本を、自分の手で持てるように。僕と一緒に、図書館へ行けるように」
顔を上げる。
「そのためなら、僕は行きます」
部屋の中が静まり返った。
やがて、父上である公爵頷いた。
「わかった。討伐隊の編成はこちらで行う。装備も物資も、必要なものは可能な限り用意しよう」
「ありがとうございます」
「ただし、一つ約束してほしい」
父上の声が、わずかに低くなった。
「必ず生きて帰ってこい。エリスを救うために、君まで失うわけにはいかない」
一瞬だけ目を伏せ、力強く頷いた。
「はい。必ず帰ります」
エリスの父親も、静かに口を開いた。
「レオン君。私たちは、君を信じている」
「……ありがとうございます」
「娘のことを、頼む」
その言葉に、レオンは深く頭を下げた。
「必ず、エリスを守ります」
それは、誰かに命じられたからではない。
彼自身が、心からそう願っていた。
彼女の隣にいたい。
これから先も、ずっと。
だからこそ、今は彼女のそばを離れなければならない。
その矛盾が、胸を締めつけた。
けれど、迷っている時間はなかった。
翌朝。
エリスの病室には、いつものように穏やかな光が差し込んでいた。
俺は、彼女のもとを訪れる前に、しばらく廊下で立ち止まっていた。
今日も、彼女はきっと笑って迎えてくれるだろう。
身体がつらくても、こちらを心配させまいとするはずだ。
だから、自分もいつもどおりに振る舞わなければならない。
「……レオン?」
扉を開けると、エリスがこちらを見ていた。
「どうしたの?今日は、いつもより静かね」
「そうか?」
俺は笑った。
「ちょっと、考え事をしていただけだ」
「何かあったの?」
「ううん。大丈夫」
何もなかったわけではない。
彼女を救うために、危険な場所へ向かうことが決まった。
いつ帰れるのかもわからない。
それでも、今は言えなかった。
ドラゴンハートのことを知れば、エリスはきっと心配する。
自分のために危険を冒さないでほしいと、止めようとするかもしれない。
彼女なら、そうするだろう。
だから、今は秘密にしておく。
必ず戻ってくる。
ドラゴンハートを持ち帰り、彼女の前に差し出す。
それから、全部話せばいい。
「ねえ、レオン」
「うん?」
「本の続き、聞かせてくれる?」
その言葉に、胸が痛んだ。
彼女は、何も知らない。
明日も、その次の日も、自分が来ると思っているのだろう。
けれど、しばらくは来られなくなる。
「……もちろん」
俺は、鞄から本を取り出した。
「今日は、昨日よりも面白いところから始まるよ」
「本当?」
「本当。君にも、きっと気に入ってもらえると思う」
ゆっくりと本を読み始めた。
エリスは、ときどき小さく笑い、気になったところでは感想を口にした。
その時間が、いつもより長く続けばいいと思った。
ずっと、このままでいられたらいい。
けれど、そうはいかない。
読み終えたところで、レオンは本を閉じた。
「……エリス」
「なに?」
「また、続きを読みに来るから」
エリスは、不思議そうに首を傾げた。
「ええ。待っているわ」
その笑顔を、目に焼きつけた。
そして、そっと彼女の手を握った。
以前よりも、ずっと細くなった手。
指先は冷たく、握り返す力も弱い。
それでも、彼女はここにいる。
まだ、間に合う。
必ず、間に合わせる。
「……約束だ」
「ふふ。約束するわ」
エリスは、穏やかに微笑んだ。
けれど、胸の奥では、すでに決意を固めていた。
彼女には、何も知らせない。
心配をかけずに、ドラゴンハートを手に入れて帰ってくる。
そして、もう一度、彼女と一緒に図書館へ行くのだ。
彼女が好きな本を、自分の手で選べるように。
隣で笑いながら、好きなだけ本の話ができるように。
その未来を取り戻すために。
俺は、静かに立ち上がった。
エリスに別れを告げ、病室を出る。
扉が閉まる直前、一度だけ振り返った。
ベッドの上で本を抱え、こちらに微笑んでいるエリス。
その姿を胸に刻み、俺は前を向いた。
待っていろよ、エリス。
必ず、君のもとへ帰ってくる。
そして、君を救うために。
俺は、ドラゴンを討伐する。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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