第三十二話
翌朝、目を覚ました私は、自分の身体がひどく重いことに気づいた。
いつもなら、目を開けてしばらくすれば、少しずつ意識もはっきりしてくる。
けれど今日は違った。
まぶたを持ち上げるだけで疲れてしまい、起き上がろうとしても、身体に力が入らない。
「……どうして」
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
それでも、横になって休んでいたことに変わりはない。
魔法だって使っていない。
なのに、どうして昨日よりも身体が動かないのだろう。
私は、ゆっくりと指先を動かそうとした。
ほんの少し、動いた。
けれど、それだけで腕全体が重く感じられた。
まるで、自分の身体ではないものを動かそうとしているようだった。
「……看護師さん」
声を出そうとしたけれど、思っていたよりも小さな音しか出なかった。
もう一度、呼びかける。
今度は、扉の向こうにいた看護師が気づいてくれた。
「エリス様?どうされましたか?」
「……身体が、重くて」
看護師はすぐにベッドのそばへ来て、私の顔を覗き込んだ。
「少し失礼しますね」
額に手を当て、脈を確認する。
その表情が、次第に曇っていくのがわかった。
「先生をお呼びします。エリス様は、そのまま横になっていてくださいね」
「……はい」
返事をするのも、ひどく疲れた。
看護師が部屋を出ていく。
私は天井を見つめた。
昨日よりも、悪くなっている。
その事実を認めたくなかった。
けれど、身体は正直だった。
指先の冷たさも、腕の重さも、息をするたびに感じる疲労も。
全部、昨日よりひどくなっている。
私は、そっと目を閉じた。
お願いだからどうか、これ以上は。
そう願っても、身体の奥にある小さな灯火は、以前のようには温まってくれなかった。
医師たちがやって来たのは、それから間もなくのことだった。
脈拍や体温を確認したあと、魔力量の測定が行われた。
水晶に手をかざすと淡い光が浮かび上がった。
けれど、その光は昨日よりもさらに弱い。
測定を終えた医師は、手元の記録を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……やはり、減少していますね」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
「昨日から、どれくらい……?」
「数値だけで判断するのは難しいのですが、決して小さな変化ではありません」
医師は慎重に言葉を選んでいた。
それが、かえって怖かった。
「体温や脈拍にも変化が見られます。魔力の減少と関係している可能性がありますので、しばらくは状態を細かく観察させてください」
「……魔力が減ると、身体も弱ってしまうのですね」
「その可能性が高いと考えています」
私は、シーツの上に置いた手を見つめた。
昨日までは、魔力が減っていくこと自体が怖かった。
けれど今は、それだけではない。
魔力が減るたびに、できることまで少しずつ失われていく。
本を持つこと。
椅子に座ること。
誰かと話すこと。
そんな当たり前だったことが、いつかできなくなってしまうのだろうか。
「先生」
私は、顔を上げた。
「このまま魔力が減り続けたら……私は、どうなりますか?」
医師は、すぐには答えなかった。
やがて、静かな声で告げる。
「現時点では、正確な予測はできません。ただ、魔力の減少が続けば、全身の機能にも影響が及ぶおそれがあります」
「……治す方法は?」
「現在、考えられる原因を一つずつ調べています。魔力を体内に留める機能に問題があるのなら、その機能を補う方法がないか、調べる必要があるでしょう」
「補う……?」
「はい。ただし、まだ仮説の段階です。今のところ、確実な治療法があるとは申し上げられません」
私は、小さく頷いた。
わかっていた。
医師たちだって、何もせずにいるわけではない。
それでも、治す方法がないという言葉は、何度聞いても苦しかった。
「まずは、できる限り身体への負担を減らしましょう。魔力の状態を確認しながら、必要な処置を行います」
「……わかりました」
医師たちが退室したあと、私は枕に頭を預けた。
何かをするために、頑張ればいい。
以前なら、そう考えられた。
けれど今は、頑張ることさえ難しい。
私にできるのは、ただ横になって、失われていく魔力を見つめていることだけだった。
「エリス!」
昼前、レオンが駆け込むように部屋へ入ってきた。
昨日よりも顔色が悪くなった私を見て、彼は一瞬、言葉を失った。
「……体調は、どうだ?」
「少しだけ、身体が重くなったみたい」
私は、できるだけ明るく答えた。
けれど、レオンは笑わなかった。
「少しだけ、じゃないだろう」
「……」
「今、起き上がれる?」
私は答えられなかった。
昨日は、ベッドの上で身体を起こすことができた。
短い時間なら、椅子に座ることもできた。
でも今は、試してみることさえ怖かった。
もし、起き上がれなかったら……昨日できたことが、もうできなくなっていたら。
それを自分で確かめるのが、怖かった。
「……ごめんなさい」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
「どうして謝るんだ?」
「だって……」
私は、唇を噛んだ。
「せっかく、また図書館に行こうって言ってくれたのに」
あの日、レオンは笑っていた。
私が眠っている間に見つけた面白そうな本がたくさんあるのだと、楽しそうに話してくれた。
私も、楽しみだった。
もう一度、彼と並んで本を選びたい。
読み終えた本について、どこが面白かったのか、どんなところが好きだったのか、そんな話をしたい。
ただ、それだけだった。
「今の私じゃ……行けそうにないわ」
口にした途端、胸が痛くなった。
レオンは、しばらく私を見つめていた。
それから、ベッドのそばに椅子を寄せ、腰を下ろした。
「そっか」
彼は、静かに答えた。
「じゃあ、今は行かなくていい」
「……え?」
「身体が元気になったら、一緒に行こう。今は、ここで本を読めばいいんだ」
レオンは、持ってきた鞄から一冊の本を取り出した。
昨日、私が受け取ろうとして、うまく持てなかった本だった。
「これ、続きが気になっていたんだろう?」
「……ええ」
「昨日の夜に少し読んだんだ」
彼は本を開き、楽しそうに笑った。
「それで、ちょっと気になるところがあってさ。エリスの意見を聞きたいんだ」
「でも……」
「もちろん、話せるときだけでいいよ。眠くなったら、途中でもやめよう」
レオンは、私の顔を覗き込んだ。
「それなら、どう?」
私は、目の奥が熱くなるのを感じた。
できなくなったことばかり考えていた。
図書館へ行けない。
本を持てない。
自分の力で起き上がることも難しい。
失っていくものばかりが、頭の中を埋め尽くしていた。
けれど、レオンは違った。
今できることを、一緒に探してくれている。
私が何もできなくなったわけではないと、教えてくれている。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
レオンは、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、まずは話を聞いてくれる?」
「……ええ」
私は頷いた。
レオンは、ゆっくりと本を読み始めた。
彼の声を聞きながら、私は目を閉じた。
少し疲れていた。
でも、不思議と、さっきまでのような恐怖はなかった。
魔力が減っていくことは、止められないかもしれない。
明日、どうなっているのかもわからない。
それでも、今この瞬間、私はレオンの声を聞いている。
彼は、私の隣にいてくれる。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
その日の夕方。
私は、レオンが帰ったあとも、彼の言葉を思い返していた。
今できることを、一緒に探そう。
彼は、そうしてくれている。
なら、私にも何かできることがあるのだろうか。
身体を動かすことは難しい。
魔法を使うこともできない。
けれど、考えることなら。
私は、医師から聞いた話を思い返した。
魔力を体内に留めておく機能が弱まっている。
器に、ひびが入っているような状態。
その説明が正しいのなら、ただ魔力を回復させるだけでは、意味がないのかもしれない。
失われた分を補っても、また漏れ出してしまう。
では、どうすればいいのだろう。
漏れ出すのを止めることができれば。
あるいは、魔力が減っても身体への影響を抑えられれば。
そんな方法があれば、少しは……。
「……難しいわね」
私は、小さく呟いた。
医師たちがわからないことを、私が簡単に思いつけるはずもない。
それでも、何も考えずにただ怯えているよりは、よかった。
私は、枕元に置かれた本へ目を向けた。
レオンが持ってきてくれた本。
今は、自分で手に取ることさえ難しい。
けれど、彼がまた来てくれたら、続きを読んでもらおう。
そして、気になったことを話そう。
それくらいなら、まだできる。
そう思ったときだった。
胸の奥で、かすかな違和感が生まれた。
「……っ」
身体の中心が、ひやりと冷える。
私は思わず息を止めた。
まただ。
身体の奥にある灯火が、揺れている。
その温もりが、少しずつ遠ざかっていくようだった。
「……お願い」
私は、布団の上で手を握りしめた。
どうか、今だけは。
せめて、明日レオンが来るまでは。
そう願ったところで、魔力の流れが変わるわけではなかった。
それでも私は、目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。
怖い。
今も、怖くてたまらない。
けれど、私はまだ生きている。
レオンと話したい。
新しい本を読みたい。
いつか、また自分の足で歩いて、彼の隣を歩きたい。
その願いまで、失いたくはなかった。
だから私は、何度も自分に言い聞かせた。
まだ、終わりではない。
治す方法が見つかっていないだけ。
誰にもわからないのなら、これから見つけていけばいい。
明日、医師にもう一度、尋ねてみよう。
レオンにも、私が考えたことを話してみよう。
何もできないと決めつけるのは、まだ早い。
そう思いながら、私はゆっくりと目を閉じた。
失われていく魔力への恐怖は、消えてくれなかった。
それでも私には、まだ願いがある。
そして、その願いを一緒に守ろうとしてくれる人がいる。
今は、それだけを胸に抱いていた。
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